仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。
哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。 科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出来ない。仮説実験の論理は、その肯定判断を下すための一つの視点なのだ。表題にあるような、「社会にも法則はあるか」という問いに肯定的に答えることが出来れば、その法則こそが社会科学なのだと言うことが出来る。 More #
by ksyuumei
| 2007-02-23 00:39
| 科学
今週配信されたマル激の中で、ゲストの西部邁氏と宮台真司氏が柳沢発言について語っている部分がある。内容的には、僕が以前に考えていたようなものと重なると思った。それが数学系的な文脈であればさほど問題にするようなものではないと言うものだ。むしろ問題は別のところにあるという指摘だと僕は感じた。
西部氏の指摘は、放送に忠実に採録してみると次のようになるだろうか。「機械」という言葉をどう受け止めるかでこの解釈は微妙に違ってくるのだが、西部氏は「機械的」という言葉と関連させて、必然性を受け止めたときに「機械」としての自覚をすると語っているように思った。つまり、西部氏の「機械」という言葉の受け取り方は、「非人間的」というものではなく、数学系的な発想からくるもののように感じた。 これは、人間機械論と言われたサイバネティックスの発想にもつながるようなものではないだろうか。必然性を見つけて、それを自覚すると言うのは、関数のブラックボックスとしての認識だ。それは機能性のほうを重視して、まさに「装置」としての働きに注目をするという観点であって、その観点を徹底するためには、むしろ人間と言うような曖昧な存在であっては抽象化に失敗する恐れがある。数学系的な発想では、むしろ人間を機械と見たほうが抽象化のためにはいい場合もある。 More #
by ksyuumei
| 2007-02-20 10:45
| 雑文
革命と言う出来事は、社会にとって大きな変化がおこることであり、それは後から見ると何か突発的な急変が起きているように見える。しかし、時間の流れの中で、以前の出来事と関係なく新しいことが生じてくるのはフィクションの中だけの話で、現実には、どんなに衝撃的なことが起ころうとそれはすでに準備されていたことであることが発見される。
明治維新という革命は、それがその以前の日本社会をまったく変えてしまったものだった。だが、その後の日本の軍国主義化と天皇制による絶対主義的な支配があったせいだろうか、近代的な市民革命とは見られていない面があるようだ。歴史に流れがあるのなら、市民革命として成功したと見られる明治維新が、大衆を解放し市民を育成しなかったはずはないと考えなければならない。 大衆を解放することなく、市民を育てなかったと言うのは、その後の日本の敗戦までの姿や、現在の政治状況などを見ると妥当な解釈のようにも感じる。そういう意味では、日本の歴史の流れで、明治維新は真の革命ではなかったと言う羽仁五郎さんの言い方が正しいようにも思えてくる。 More #
by ksyuumei
| 2007-02-17 12:17
| 歴史
内田樹さんの『下流志向』という本の中から気になる部分を抜き出して考えてみようと思う。その一つは、「構造的弱者が生まれつつある」という一節だ。「構造的」という言い方には、個人の努力にもかかわらず、それを越えた大きな枠組みの力によって影響されているというニュアンスがある。個人の責任に帰する以外に、社会的な原因があって弱者になっているというニュアンスを感じる。
そういう弱者は今までもいただろうし、階級社会と呼ばれるところでは今でもたくさんいるに違いない。封建社会は、生まれついての身分に縛られてそこから離れることは出来なかった。典型的な階級社会だっただろう。そこでは、どれほど優れた資質をもっていようと、社会の下層の身分であれば、そこから抜け出ることは出来ない。そして、下層身分ゆえの弱者として生きるしかない運命を持っている。 江戸時代の封建制が崩れて、明治維新によって社会が大きく変わったという点は、最近読んでいる板倉聖宣さんの『勝海舟と明治維新』などでも、有能な人物が認められて出世するというところに見ることが出来る。努力し、能力さえあれば誰でも認められるような社会というのは、近代と呼ぶにふさわしいものだと思う。板倉さんの本を読むと、明治のころの日本というのは、当時としては最高レベルの近代民主主義が実現されていたとも感じる。だからこそ明治の日本は、先を行くヨーロッパの進歩に短期間で追いついてしまったのではないかと思う。このことからも、明治維新を市民革命だと言いたくなってくる。 More #
by ksyuumei
| 2007-02-16 09:58
| 内田樹
虹が七色であるのか六色であるのかは、虹という現象を人工的に作り出して実際に数えてみれば確かめることが出来る。そのときに、錯覚をするという可能性もありうるが、とりあえずは自分の感覚を信用して判断するということが大事なことだ。権威ある言説が、自分の感覚を否定していようとも、まずは自分の感覚のほうを信じて考えてみる。
そして、権威ある言説と自分の感覚のどちらが正しいかを、論理的な整合性があるかで判断をする。もし、虹が七色だと断定することが正しいなら、自分が錯覚しているのは圧倒的少数派となるだろう。多くの人は正しいとされるほうを感覚するはずだ。しかし、七色に見えないほうが多数派であるという結果が出ている。これは論理的にどう整合性が取れるだろうか。 圧倒的多数が同時に錯覚しているという可能性は論理的には考えることが出来る。水の中に入れた棒が、上から見ると曲がっているように見えるというのは錯覚だが、これはほとんどすべての人が見ることが出来る錯覚だ。だがこの錯覚は、錯覚であることが証明できるからこそ錯覚だと判断される。水の中から棒を抜き出せば、それが曲がっていないということを確かめることが出来る。 More #
by ksyuumei
| 2007-02-15 10:04
| 真理論
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