それでは野矢さんが提出する練習問題を考えてみよう。
問1 次の文章から論証の構造を取り出し、論証図を作成せよ。 (1) 1 たぶん彼女は遅れてくる。だって、 2 今日は土曜日だから、 3 道は渋滞してると思う。それに、 4 彼女、時間にだらしないだろ。 (2) 1 今度の試験は落とせないから、 2 さすがに彼も本気を出す。そうしたら、 3 けっこういい成績を取ると思うよ。 4 彼、本気を出すと案外いい成績とるからね。 (3) 1 鳥の卵はほとんどが「卵形」をしている。 2 卵形が産みやすい形だということがまず挙げられるが、 3 球形と違って卵型のほうが転がりにくいというのが一番の理由だろう。 4 実際、崖に巣を作る鳥のほうが球形から遠い卵形をしているのである。 まずは(1)から考えていこう。最初に考えるのは、最終的な結論になる命題だ。それは(1)の場合は1の「彼女は遅れてくる」という判断になるだろう。この「遅れてくる」という判断が、何らかの根拠を元に論理的に導かれているかどうかが、論証として受け取れるかどうかにかかっている。そしてそこに論証が読み取れるなら、それが論証図として示されることになる。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-21 13:19
| 論理
例題2では「導出」の正当性についての評価がトレーニングとして取り上げられている。「導出」というのは、どのような場合に「正しい」と判断されるのかということだ。これは、論理的に結論が導かれるということの評価になるのだが、論理的に結論が導かれるというのは、それは否定しようのない結論であるということになる。論理的に正しい「導出」なら、もしその結論を否定するならば、そこからは矛盾が生じるということが見られる。
結論を否定して矛盾が生じるようなら、その結論は正しい。つまり、その結論を導く「導出」は正しいということになる。しかし、結論を否定しても、もし矛盾が生じなかったらどうなるだろうか。そのときは、結論を導く「導出」は必ずしも正しくはないのだと言わざるを得ないだろう。あえて結論を否定してみて、その論理構造から矛盾が生じるかどうかを見るという方法で、「導出」の正当性を測るという方法がここから生まれる。これが今回のトレーニングになる。あえて反論を構成するというトレーニングだ。 このトレーニングに関して野矢さんは次のような指摘をしている。 「なぜこのようなやり方を練習するのかについて、もう一言述べておこう。これは、いわば、導出の関連性を評価するための基礎訓練である。根拠が提示され、そこから結論が導かれる。多くの場合、われわれはそこで立ち止まって吟味せずに、単に聞き流す、あるいは読み流してしまうだろう。だが、あえて立ち止まってみる。ここでもっとも要求されるのが、「論理」という言葉にそぐわないと思われるかもしれないが、想像力である。 この根拠を受け入れ、しかもこの結論を拒否することがどういうことであり得るのか、その可能性を思い描く想像力、これがここで求められる。こうして、その論証が導く道筋とは異なる道の可能性を捉えつつ、その上でその論証の進む道を自分も進むかどうかを決断する。この、想像力を活性化させるためのトレーニングが、「あえて反論する」という方法に他ならない。すなわち、単に拒否するためにのみ反論するのではなく、受け入れるか拒否するかを決断するために、まず、あえて反論してみるのである。」 この指摘は非常に重要なものだと思う。この種の想像力は、トレーニングする以外に自然に身につくとは思われないからだ。感情的な反発を感じて、拒否したい気分が生じるような主張に対しては、否定することは容易いし想像するのも簡単だ。しかし、受け入れたいと思いたくなるような主張に対して、あえて否定してみるという想像力はきわめて甘くなり難しくなる。これを厳しく徹底して論理的に考察するのがこのトレーニングの目的ではないかと思う。そのような厳しさを経て受け入れることを決断した主張こそが,本当に正しい「導出」だと評価できるものになるだろう。 More ▲
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| 2008-03-16 22:51
| 論理
この章の最初の例題は次のものである。
例題1 次の文章から論証の構造を取り出し、論証図を作成せよ。 1 犯人はAかBだ。だが、 2 AはいつもCと仕事をする。 3 ときにはそれにDも加わることがある。 4 今度の犯行ではCにはアリバイがある。だから、 5 Cは犯人ではない。ということは、 6 Aも犯人ではなく、 7 Bが犯人だ。 8 実際、Bには動機もある。 この問題を考えるには、まず最終的な結論となる判断を探す。そして、その判断がどのような根拠からもたらされているのか、あるいは根拠が述べられていないのか、それから論証の構造を考えていく。この文章は、A,B,C,Dの4人の人間のうちの誰が犯人かを推論しているものと考えられるので、最終的な結論は、Bを犯人だと断定する7ということになるだろう。 More ▲
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| 2008-03-15 12:05
| 論理
論証を理解し評価するに際して重要なのは,「論証」と「導出」を区別して、別々に理解し評価するということだと野矢さんは注意する。「論証」というのは、その主張の全体構造に関わるもので、「導出」というのは、部分的ないくつかの「結論」を導くためのもので、「導出」では、「なぜ」を語る根拠が論理的に妥当であるかということが問題になる。構造的には次のように図示される。
A ……根拠 ┐ ↓ ……導出 ├(全体を)論証 B ……結論 ┘ 「導出」の妥当性は、必ずしも前提となる「根拠」の正しさを要求しない。「根拠」そのものが間違っていても、それから得られる「結論」が、否定しようがないということが論理的に確かめられるなら,その「導出」は妥当になる。野矢さんは次のような例を挙げている。 根拠……ペンギンはコケコッコーと鳴く。コケコッコーと鳴くのは鳥である。 ↓(だから) 結論……ペンギンは鳥である。 この論証において、前提となる根拠の前半は間違っている。ペンギンはコケコッコーとは鳴かないからである。しかし、この根拠の正しさを問わずに、一応前提としてそれを認めると、結論を否定することはできなくなる。前提では、コケコッコーと鳴くのはすべて鳥であることが言われている。コケコッコーと鳴くものを「鳥ではない」と否定することができないのだ。 More ▲
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| 2008-03-13 09:34
| 論理
論理トレーニングの応用として、優れた言説がいかに優れているかという、もっと建設的な分析もしてみたいと思うので、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の中から、ソシュールに関する章を取りだして考察してみようかと思う。
僕はソシュールに関しては、まずは三浦さんの批判からそれに接した。三浦さんの批判は、ソシュールの観念論的側面と,表現としての言語ではなく,言語規範という認識(表現ではない)を言語と呼んでいた側面からのものだった。これはかなり説得力があり、当時は唯物論に基本的な正しさを感じていたこともあって、三浦さんの批判を読んだだけでソシュールについてはそれほどの関心を引かれることがなかった。 しかし、唯物論というものが、対象を見る際の一つの視点に過ぎないもので、唯物論だから正しいとは必ずしも言えないということが論理的に反省できるようになると、ソシュールに対しても、唯物論の観点からのものや言語規範を言語と呼ぶ側面だけからその評価をすることに疑問を感じるようになった。ソシュールにはもっと他の側面もあるのではないかという感じがした。ソシュールは構造主義の開祖だと言われ、当時の最高の知性の持ち主たちから高い評価を得て、歴史にその名を刻んでいる。そのソシュールが、単純な批判で乗り越えられるほど軽いものかという気がしたのだ。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-12 10:37
| 論理
斉藤さんの「内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩き」と「内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している」という部分について感じる違和感について分析してみようと思う。
まずは例示の部分についてだが、これは、「そんなものは○○ではない」という言い方によく似ているのではないかと思う。ある対象に批判的な側面があるのを、一般論的に語ることもできるが、一般論での批判はどうしても論理的にはそのつながりを見るのが難しくなる。具体的な例があれば、どの部分がどのように批判的に指摘できるかがわかりやすくなる。そこで理解を助けるために例示というのがたくさん使われる。 この例示で気をつけなければならないのは、それが本当にふさわしい例示になっているかどうかということだ。つまり、それは特殊な例ではなく、ごくありふれたものとしてすぐ目につくようなものが出されなくてはならない。そうでなければ、末梢的な欠点をあげつらって全体を否定しようとする論理的な間違いになるだろう。三浦さんがよく語っていたように、特殊を持ち出してそれを普遍性にしてしまう間違いだ。特殊な経験が一般化されてしまうような、経験主義的な間違いと言っていいかもしれない。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-10 10:04
| 論理
斉藤さんが、内田樹さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」を「為にする議論」と判断していることについて、論理的な考察をしていこうと思う。まず「為にする議論」の概念だが、これを僕がどう捉えているかを述べておいて、その概念に照らして、内田さんの文章がこれに当てはまるかどうかというのを考えたいと思う。
僕は、「為にする議論」というのは、結論としての真理を導くのではなく、議論をすること自体が目的化してしてしまった不毛な議論だというイメージを抱いていたのだが、世間ではどのようなイメージで流通しているのかというのを調べてみた。 「為にする議論 出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』」によれば、この言葉は次のように説明されている。 「議論において、相手の揚げ足取りや無関係な話題について終始し、結論等を出そうとしないこと。」 だいたい僕のイメージと重なるような説明ではないかと思う。ただ、「為にする」という言い方が、単なる目的化をするというだけでなく、辞書的には「下心をもって事を行う」というニュアンスが込められているらしい。つまり、この「為」は、本来の目的ではなく、違う目的のためにということが意図的に選ばれているということだ。単に頭が悪くて論理構造を正しく捉えられないから、「間違って」他の目的になっているのではなく、むしろ頭がいいので意図的に他の目的にすり替えて相手をだましたりごまかしたりしようとしているという感じになるようだ。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-09 11:20
| 論理
論理トレーニングのとりあえずの基礎的訓練が一通り終わったので、ここでその応用を考えてみたいと思う。本来の目的は、『バックラッシュ』(双風社)という本の斎藤環論文「バックラッシュの精神分析」に感じた違和感が、果たして論理的なものが原因で起こるのか、それとも僕が共感している内田樹さんを批判していることから起こってくる感情的なものかを考えるのに論理トレーニングを応用しようというものだった。
斉藤さんの論文は、専門の精神分析の部分は難しくて知らないこともあるので、その論理構造だけを取り出すのはなかなか苦労する。そこで、部分的に気になるところに注目して考えてみようと思う。まずは次の引用部分に関して考察してみよう。 「内田樹は、「私がフェミニズムを嫌いな訳」なる一文で、自らの旗幟を鮮明にしている。一読すれば分かるとおり、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義者でもない。要は、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正しい人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。 内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とかいっても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。 しかしこれは、フェミニズム嫌いという「症状」を偽装することで、そこに何か本質的なものがあると錯覚させるためのパフォーマンスではないのか。かりそめの自己を無邪気に演じつつ、その内側に秘めた「本当の自己」が空っぽである場合に、しばしば採用されるテクニックである。もっとも、主体を空虚にして身体の知に従うべきことを主張する武道家・内田にとって,こうした「主体の空虚さ」を指摘されることは、むしろ喜ばしいことであるに違いない。」 さて、ここで斉藤さんが語っていることの「主題」「問題」「主張」を分析してみようと思う。全体の論理の流れとしては、まずは内田さんの「フェミニズム批判」が,実はフェミニズムそのものの欠点を指摘したものではないので、批判と呼べるものではないという主張が見られる。そして、それが反論に答えることのないものとなっているので、言いっぱなしであり「為にする議論」になっていると逆に批判されている。そして最後に、このような行為は、実は空っぽの中身を隠すためのパフォーマンスに過ぎないのではないかと結論づけられている。以上をまとめると、 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-08 15:32
| 論理
次の課題問題は以下のものである。
問5 次の文章において、その主題、問題、主張を、それぞれまとめよ。(必ずしも問題文からの抜き書きではなく、自分で的確にまとめよ。) 「不妊は病気だろうか。いま、妻の側に原因がありそうな場合を考えてみよう。最近では、医学の発達によってそうした不妊の理由が明らかにされてきている。たとえば、卵巣から子宮に卵子を送り出す卵管に問題のあることも多い。しかし、ある女性の不妊の原因がそのように突き止められたとき、それでその女性が病気だと言えるだろうか。確かに妻は一度は子どもを生むのが「普通」であるかもしれない。しかし、子供を産まないからといって、それだけで彼女たちを病気だと考える人はいないし、彼女たちも自分が病気だなどと思わない。その女性の卵管に「異常」があるというにしても、だからといってその女性が病気ということにはならない。自分には子どもがなくてもよいと思い、いままで通り充実した生活を送っていくとすれば、その女性はしごく健康というべきである。しかし、その女性がどうしても自分の子どもが欲しいと思い、手術を受けようとしたとき、その女性は「不妊症」という病気を引き受けたと言えるだろう。」 この問題は、「問題」の指摘は比較的易しいのではないだろうか。冒頭に「不妊は病気だろうか」と,疑問を提出する形で語られているからだ。これが「問題」の提出だと分かれば、「主張」はこれに答える形で語られており、もし肯定か否定かどちらかで答えるとしたら。「病気だ」あるいは「病気ではない」という答になる。 このような観点で文章を読み進めると、この「問題」のすぐあとには、「病気ではない」という否定的な答が書かれている。だが、もっと先を読み進めると、「病気だ」という肯定的な答えも見られる。いったいどちらだろうと迷うかもしれないが、これは、ある条件の下では「病気ではない」と言え、他の条件の下では「病気だ」と言えるという、条件を分けた考察になっている。つまり、病気であるかないかという「問題」に対して、弁証法的に考察して、弁証法的な解答をしていると考えられる。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-07 10:18
| 論理
野矢さんの解答がない課題問題を考えてみよう。まずは次の問題だ。
問4 次の文章をより論理的に明確になるように接続関係を明示して書き直せ。 「日本工業規格(JIS)の定義に従えば、「誤差」とは「測定値から真の値を引いた値」とされるが、真の値が不明だからこそが(原文のママ)、測定値を求めるのであり、測定値を求めたからといって誤差が求められるわけではなく、この定義はこのままではまったく役に立たない。」 まずは全体の論理構造を求めるために、それを部分的な命題に分解して番号をつけておこう。 1 日本工業規格(JIS)の定義に従えば、「誤差」とは「測定値から真の値を引いた値」である。 2 真の値が不明だからこそ「が」(この「が」は誤植ではないかと思われる)、測定値を求めるのである。 3 測定値を求めたからといって誤差が求められるわけではない。 4 この定義はこのままではまったく役に立たない。 全体の論理構造としては、その中心的な主張、すなわち主題は「誤差」の定義についてだと考えられる。問題提起としては、その定義に疑問を提出していて、「この定義で「誤差」が求められるのか?」ということを質問している。そして、その答は「この定義はこのままではまったく役に立たない」というものだ。 More ▲
by ksyuumei
| 2008-03-06 10:07
| 論理
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