2007年 02月 03日 ( 2 )

理科系(数学系)的発想と文科系(芸術系)的発想

江川達也氏がゲストとして出たマル激では、江川氏とともに宮台氏が理科系と文科系について言及していた。これを「数学系」「芸術系」と呼んだほうが正確だろうというような発言だったと記憶している。僕もそう感じた。

日本の大学では経済学は文科系のほうに入っているようだ。しかし現代経済学というのはほとんど数学の一分野のようになっている。アメリカなどでも経済学でノーベル賞を取るような学者はほとんどが数学系の出身ではなかったかと思う。映画「ビューティフル・マインド」で描かれたジョン・ナッシュなどは数学の天才として描かれていた経済学者だ。

法学の分野では、ほとんど記号論理学を基礎教養として学ばなければならないようになっているとも語っていた。理論活動をする分野ではますます数学の必要性が高まっている。江川氏などは、客観的な判断を必要とする仕事はすべて数学の能力を測るべきだなどという暴論を吐いていたが、これはある面では当たっているのではないかと、自分が数学系の立場であることを差し引いてもそう思う。この場合の数学は、いわゆる学校数学のような公式を覚えていれば答えが出てくるというものではなく、思考の過程を重視する論理の流れとしての数学を理解する能力ということになる。

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by ksyuumei | 2007-02-03 17:49 | 雑文

歴史における進歩という観点

かつて本多勝一さんは、今の状況を見ているとだんだんと悪くなっていくようで退歩しているように感じていても、100年単位くらいで歴史を振り返れば必ず進歩しているというようなことを書いていた。これも、極めて理科系的な冷めた見方ではないかと感じる。そういえば、本多さんももともとは生物学専攻の理科系だったような気がする。

100年単位で歴史を眺めるなどということは、その歴史の中で生きている当事者に出来ることではない。一つの時代が終わった後に、後からそれを眺めて解釈する人間の視点だ。歴史の真っ只中で生きる当事者にとって、自分が形成しつつある歴史は外から眺めるものではなく、実存的にその中で生きる世界になる。おそらく客観的判断など出来ないに違いない。客観性というのは、原理的に当事者には持てないものではないかと思う。それは第三者という部外者でなければ正しく判断できないものだ。第三者の立場で世界を眺めようとするのが客観性のあり方であり、これが理科系的な見方といえるものだろう。

その冷めた目で歴史の進歩を眺めてみると、一つの時代が終わって新たな時代が始まったときは、古い世界が滅ぼされて新しい世界が生まれたところに「進歩」を見ることになる。これは、道徳的な善悪を抜きにした、改革されたという事実の面を「進歩」と定義するようなものだ。進歩だから「善い」という判断をしているのではなく、またその進歩から利益を得ない、むしろ損害を受けるような立場からは、道徳的な意味で「進歩」に反対したくなるかもしれないが、改革されたという面でのみ「進歩」というのを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-02-03 13:21 | 歴史