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『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。

民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがいいという発想は正しいように感じる。議論を尽くして求められた結論は、多くの人が賛成したものの方がより真理に近いように思えるし、それが間違えていたときも、賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、間違ったときの反省も出来て、以後はより真理に近い判断が出来るようになるだろうと期待できる。

民主主義がすばらしいものであるというイメージがあったときに、それを「奴隷制」と呼ぶようなマイナスのイメージを提示されることは衝撃的だった。民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく、欠点もあることを具体的に指摘され、しかもそれが納得できるようなものだった。板倉さんの指摘は、科学における真理にも、多数決的な民主主義的な判断がされた歴史があり、それが間違えていたということから導かれたもののように感じる。みんなが判断するということにふさわしくないことまでも民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。




同じような指摘が宮台氏の『14歳からの社会学』の中にもある。宮台氏は次のように書いている。


「「どんな行為が幸せにつながるか」と違い、「どんなルールがみんなを幸せにするか」を知るには、ものごとを広く長く見通す必要がある。そんなことが出来るのは特別に優れた人だけだ。あれがいいかこれがいいかと毎日一喜一憂するパンピーには無理だ--。」


「どんな行為が幸せにつながるか」は自分の感覚で判断できる。結果的に自分が幸せを感じることが出来れば、それは「幸せにつながって」いるのだ。これなら誰にでも出来る。パンピーと呼ばれる一般大衆(ピープル)にも可能だ。しかし、感覚で判断するのではなく、社会全体にどのような影響があるかを考察するような「ルール」を考えるときは、自分の感覚を離れて社会全体を「広く長く見通す」必要がある。これはそのような能力がある人間にしか判断できない。

誰もが同じように判断できる事柄は民主的な決定にふさわしいだろう。それが最初から多くの異論に分かれて多様であることがはっきりしているときは、一つに決定するのではなく多様性を実現できるような決定こそが民主的だと言えるだろう。誰もが同じように判断できないときは、優れた人間の判断こそが真理に近いと言えるとき、その優れた人間を「エリート」として見る観点が重要になってくる。それを宮台氏は「卓越主義的リベラリズム」と呼んでいる。宮台氏はこの立場だ。

宮台氏は最初からこの立場にいたのではなく、最初はやはり民主主義を基礎とするリベラルの立場にいたようだ。それは教育改革の運動の過程でだんだんと「卓越主義的リベラリズム」の方へ傾いていったようだ。

教育の改革において、いい教育を考えるとそれには二つの考え方があると宮台氏は指摘する。一つは「自分の子供が幸せになるにはどんな教育が必要か」と考える「行為功利主義」的なもので、もう一つは、「いい社会になるためにはどんな教育が必要か」という「規則功利主義」的なものだ。「行為功利主義」的な考え方は、自分の感じ方で判断できる。だからこれは誰にでも判断できるものだろう。しかし「規則功利主義」的なものは、社会をどう捉えるかで判断が違ってくる。社会のとらえ方が深い人間の方がより正しい判断が出来る。そして、この両方の考えはしばしば対立する判断を導くことがある。

宮台氏が以前語っていたことで、親が教育に期待することとして、自分の子供が自分の希望通りの進路を進めるような教育を望むということがあった。しかし、人間には適性というものがある。どれほど希望が強くとも、「下手の横好き」のようなものを希望していれば、それはなかなか実現できない。永遠の自分探しというジレンマに陥る可能性もある。若いうちはいろいろな可能性を試すことは大事だが、ある程度の年になったら、自分の適性を正しく判断して社会の中での自分の存在を、卑下することなく十分使命を果たしているのだという満足感を感じながら生活することが必要だろう。ある意味では夢をあきらめるということも必要だ。実現可能な違う夢を見る必要があると言い換えた方がいいだろうか。科学の問題でいえば、板倉さんが語っていたように、夢物語のような妄想的な夢を抱くのではなく、自分に解決可能な問題を発見することが科学においては重要だという指摘に近いものだろうか。

社会学者としての宮台氏は、教育に関してその機能性の方にこそ注目する。自分の子供がどうだとかという感性的な面はある意味では無視する。機能性の最も重要な部分は、子供の適性に従って、社会での適正な配置をするというものだ。自分の適性に気づかせて、それを意志に反して押しつけられたと感じさせるのではなく、自らの判断で選択したという理解の下に納得して選択させるような教育を構想していた。いい社会を作るためにはこのような教育がふさわしいだろう。

「ゆとり教育」を推進したのは、宮台氏が高く評価していた寺脇研さんという文部官僚だった。このそもそもの発想は、子供自身の適性に関係なく、学習における競争に打ち勝って有名校に進学することが多くの子供と親の願いになっている現状を変えて、本当の適性を考えて正しい判断で選択するための余裕としての「ゆとり」を教育にもたらせようとするものだった。だから暗記教育に偏ったそれまでの学習の内容を変えて、総合的な判断が出来るようなものを学ぶ方向にシフトしようとしたように見える。

だが結果はどうなったかといえば、余裕として与えられた時間を、さらに学習の競争に勝ち抜くために使うようなことになり、塾通いをしたりして、その時間を有効に使えるリソースを持った豊かな家庭が有利になるということになった。逆に言えばそのようなことが出来ない子供たちの学力の低下ばかりが目立つようなものになった。大学で「ゆとり世代」といえば、学力が低いことを揶揄するような言い方になっているそうだ。

宮台氏のそれまでの発想は、「国がしばるのをやめてみんなに任せよう」と思ってきたらしい。しかしそれでは「うまくいかなかった」と感じたようだ。みんなが賛成した方向が必ずしも正しいとは言えなくなったという判断がここには見られる。さらに、インターネットの状況からもそのような判断が導かれたようだ。宮台氏は次のように書いている。


「僕が考えを変えたのは21世紀に入った頃だ。インターネットの発達で、みんなが多様な情報を得るようになった頃だ。
 テレビや新聞で社会の動きを知ったのが、ネットやケータイを利用する時間に食われるようになる。テレビや新聞は一部の企業が運営しているから、流れてくる情報がかたよるから、インターネットはいろんな人が情報を発信するから、偏りが消えるだろう--。
 僕はそんなふうに予想していた。確かにいろんな人が情報を発信するようになった。そうした人たちの発信を受け取って自分からも発信するようになった。今や自分でホームページやブログを運営している人は数え切れないほどだ。でも予想通りにならなかった。」


民主的に、みんなが賛成したことを正しいと判断していると、実はその判断に参加するみんなが広く薄くなったときにどうも正しい判断とかけ離れていくようだということが見えてきたのではないかと思う。どうもすべての人に、客観的で正しい判断力を要求することが無理ではないかという現象が見られてきたようだ。人気のある言説というのは、それが論理的に正しいというよりも、感情に働きかけて、強い感情を生み出すような表現を持ったものになるようだ。宮台氏の言い方だと「感情のフックに引っかける」というようなものになるだろうか。

みんなの判断が正しい方向に行かないどころか、論理的に考えればあり得ない判断にいってしまうようなところが、情報があふれた現代社会では見られるようになった。これは民主政治が「衆愚政治」になってしまったのではないかと宮台氏は指摘する。ブッシュ大統領が主導したイラク戦争に驚喜したアメリカの姿は「衆愚政治」と呼ぶのにふさわしい姿だったように感じる。

みんなの判断は必ずしも信用できない。そのようなときは、誰の判断が信頼するに値するものか、という信頼できる人間の見極めが重要になるだろう。一般大衆が、本当に信頼できる人間を正しく「エリート」として判断できるようになれば、民主政治の欠点を克服できるだろう。判断そのものは、複雑で難しい問題においては一般大衆には正しく考えることは出来ない。だが、誰の判断が本当に正しいものと信頼できるかということは、判断そのものを考えるよりはやさしい。それなら多くの一般大衆にも正しく判断できそうな気もする。

民主政治の欠点を克服するには、「エリート」に対する正しい判断と尊敬が必要だ。宮台氏が語るように。板倉さんは、科学の教育が、真に優れた科学者が誰かというセンスを育てると語っていた。同じようなことが「エリート」に対するセンスとして育てられないものかと思う。

宮台真司氏は、紛れなく「エリート」の一人であろうと思う。その「エリート」の一人である宮台氏が「エリート」の重要性を語るところに、何となく違和感を感じる人もいるかもしれないが、そのような重要性に気づくところも「エリート」たるゆえんではないかとも思う。

宮台氏が「エリート」であろうという判断は、彼が東大を出た学者であるという表面的な事実だけによっているのではない。東大出身の学者などたくさんいるだろうが、宮台氏のような「エリート」性を感じる人は少ない。宮台氏の現在の行動がその「エリート」性を証明しているように僕は感じる。

宮台氏が優れた判断力を持っていることはその著書を見れば分かる。そして、宮台氏はその判断力を社会に生かすだけの影響力を持ち、実際に影響力を行使している。そして、その影響は、決してエゴから出発したものではなく、学問的な真理の実現を図っているものに僕には見える。利他的な行為として映るのだ。このような資質を持ったものこそが「エリート」と呼ばれるにふさわしいだろう。誰が「エリート」であるか、それは多くの分野でそのような人がいるだろうと思われる。そのような人を正しく判断できる資質を持ちたいものだと思う。そして「エリート」の判断を信頼して、その判断に賛成するという形で民主主義の限界を乗り越えたいものだと思う。

この章では最後に「意思」の訪れについて語っている。これも面白い問題として考察してみたいものだと思う。
by ksyuumei | 2009-01-19 09:49 | 宮台真司


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