宮台真司氏は『14歳からの社会学』の第2章で社会のルールについて語っている。社会にある種のルールが存在するのはある意味では当たり前で、そのルールにほとんどの人が従っているときは、それがルールであることさえも意識せずにいるだろう。しかし、そのルールを破る人が出てくると、それがルールとして正しいのか・有効なのかということが気になってくる。その判断はどうして考えたらいいのだろうか。
ルールを疑わない人は、そんなものは常識ではないかといって済ませるかもしれない。しかしその常識が通用しないときは、いくら常識であることを主張してもルールを維持することには役立たない。また、そのルールが今の状況には合わないのではないかと思っても、ルールがある以上仕方がないというあきらめの気持ちも生まれてくる。そのような場合はなし崩し的にルールが守られなくなっていく無秩序の状況を、何か変だと思いながらも受け入れていくようになってしまうような気がする。 社会のルールは、自分の感性(好き嫌いや気持ちがいいかなどという感情の働き)で判断して正当性を確立することが出来ない。これだけ感性が多様になってきた現代社会では、感性に頼った判断は合意が出来ないからだ。多くの人が合意できるような判断を求めるには、やはり論理に従った判断を求めるしかない。それが社会を理論的に捉えようとする社会学の必要性を要求する。現代社会のルールを理解するには社会学的な素養が必要になる。現在の成熟社会を生きる人間だからこそ「14歳から」社会学の素養が必要になる。 宮台氏はこの章を次のようなエピソードから始めている。 「今年(2008年)の2月、広島県JR芸備線の線路上に自分で踏切を作った73歳の男性が、威力業務妨害の疑いで逮捕された。畑に農作業に行くために線路を渡る必要があって、近くに踏切をつくって欲しいと10年近くもJRに要求し続けていたという。 JRは「60メートル先の踏切を使いなさい」といって受け入れてくれない。年をとった男性は、野菜を乗せた手押し車で遠回りをするのはしんどい。そこで自分で踏切を作った。近所の人たちも喜んで利用していた。けれど、ある日、とつぜん逮捕されてしまった。」 このエピソードは、自分の都合で勝手に踏切を作るという「ルール違反」をした人に対して、どのような判断をするかということを考えさせてくれる。「ルール違反」をしたのだから、それに対して罰を受けるのは当然だと考えるのか。JRに対する要求の方が当然なので、その要求を満たしてくれなかったJRが悪いのであって、この「ルール違反」は仕方がないと見るのか。様々な意見の違いがあるのではないかと思う。 この踏切は「近所の人たちも喜んで利用していた」というのだから、おじいさんの全くのエゴによって作られたものではないという解釈も出来る。そうであれば、いきなり逮捕されるということはひどいようにも思える。その前に何らかの話し合いがあってもいいだろう。だが、このおじいさんの場合だけを特例として認めてしまえば、全国あちこちに特例が出てきて、その判断をするのがまた難しくなる。特例を認めない方が管理はしやすい。 この「ルール違反」は、個別的・具体的に考察すれば容認できそうな要素を持っているにもかかわらず、それを社会全体に押し広げて考えるとなかなか容認が難しいという対立した側面を持っている。弁証法性を持っていると言えるだろうか。このようなことを考えるときに、経験主義を超える理論的考察が必要になる。 宮台氏が紹介するもう一つのエピソードを見てみよう。 「今年の3月30日に開通する横浜市営地下鉄の「グリーンライン」(日吉-中山間)で「スマイルマナー向上員」が乗車することになった。お年寄りに席を譲る呼びかけなどをするのが目的で、普段地下鉄を利用している市民の中から募集するのだという。 横浜市交通局の調査によれば、「社内でマナー違反を見かけたらどうしますか?」という質問に、「いけないことだから、注意する」と答えた人は全体の16%にとどまった。なのに「いけないことだから、やめるべきだ」と答えた人は全体の9割以上もいたのだという。 つまり、車内のマナー違反はみんながいけないと思っているのに、中が出来ない。ならば、その気持ちをサポートしよう。マナー違反があったとき、「マナー向上員」が助けてくれると思ったら注意しやすくなるし、彼らがいればトラブルになることも減る--。」 この場合は、9割以上の人が合意していることが社会のみんなの行為として成立していないことが見られる。踏切のおじいさんの場合は、近所の人たちはその踏切に喜んでおじいさんの行為を容認するという合意が出来ているのに、社会全体に広げた場合には合意が出来なくなるというケースだった。この地下鉄のマナーはそれとちょうど逆に、社会全体ではマナー違反を注意すべきということに合意はしているものの、その合意したことの行為は見られないものになっている。 おじいさんの場合は、法律に対する「ルール違反」だったので、それに同情して共感しようとも「ルール違反」に対する罰が与えられた。しかし地下鉄のマナーは、あくまでもマナーというものであって罰を与えるほどのものではない。むしろマナー違反を自覚して、自分でそれを正していかなければならないものだろう。受け入れに対して個人の自由な判断がかかわってくる。そのようなマナーを持っていない人間に無理矢理マナーを守らせるということが難しい内容になる。 そうすると社会の秩序を考えてマナー違反を注意したとしても、それが素直に受け入れられない場合が多くなってくる。隣の人とくっつくように座るのではなく、少し余裕を持って座りたいと思っている人が多いときに、ちょっと詰めて席を空けるように注意しても、それがマナーをよくすることだと受け取ってもらえないことがあるだろう。自分が座りたいからそう言っているのではないかというエゴだと受け取られたり、注意するのが趣味ではないかと思われたりする。体格のいい人が注意をすれば、自分の強さを見せびらかしたいのではないかと思われたりすると宮台氏も書いている。 このようなマナー違反は、個人が個人の責任で注意するのは難しい。極端な場合は法律化して強制的に執行できるようにしてしまうのが手っ取り早い。喫煙のマナーなどは、それが守られることが少なく、しかも注意することが難しかったので法律となったのではないかと感じる。これなどは、直接的に健康被害も起こるので法律化がしやすかったとも言えるが。地下鉄のマナー程度のものは、法律化して強制するほどのものではないので、そのマナーを指摘する立場の人を作ることで、注意しやすくしたのではないかと思う。こういう措置をしなければ、合意したことの確認が難しくなっているのも、また現代社会の特徴だろう。 誰もがお互いのことを仲間と感じていた時代は、個別的な特殊な事情も理解しやすかっただろうし、ちょっとした注意も、「文句を言われている」と受け取るのではなく、ありがたい助言として素直に受け入れただろう。社会の複雑化は、みんなの範囲を狭くし、お互いを仲間と感じさせなくなったので、そのような社会のルールの理解も難しくさせてしまった。このような現代社会でルールのことを考えるにはどうしたらいいのだろうか。個別的な仲間内での判断なら、臨機応変にみんな(仲間)がどう考えるかで対応してもいいだろう。だが、すべてが仲間というわけではなくなった社会全体のルールについては、ある原則を元にして理論的(論理的)にそれを考えていかなければ正しい方向が見えてこないだろう。 宮台氏は、理論的な考察の方向として「行為功利主義」と「規則功利主義」という二つの考えを紹介している。これは次のように説明される。 「行為功利主義」 どんな「行為」をすれば、人が幸せになるか、と考える。 「規則功利主義」 どんな「規則」が、人を幸せにするか、と考える。 「行為功利主義」に基づいて考えるなら、踏切を作ったおじいさんは、踏切を作ることで「幸せになる」のだから、その行為は正しいと言える。しかし、各人がエゴで踏切を作れば、そのことによって困る・つまり幸せでなくなる人が出てくるから、そのような個人の都合で踏切を作るという「規則」は良くないと考えるのが「規則功利主義」による考えと言えるだろうか。 「行為功利主義」の場合は、個人の自由が重んじられるように感じる。個人が自分の考えで、自分の幸せを考えて行為することが正しいと判断されるように思えるからだ。第1章で宮台氏は、社会の中で幸せになるには「自由」と「尊厳」が大事だと語っていた。その意味では「自由」を実現させてくれる「行為功利主義」は社会の中での幸せに通じるものだ。だが、この「自由」は、他者の「自由」とぶつかるときに、社会の中でどう調整していくかという問題が生じてくる。その調整は、賢い判断が出来なければうまくいかない。つまり、「行為功利主義」は、社会の成員がそれなりに優れた判断が出来るという前提が必要になる。 この判断は、社会が単純だった時代には社会の成員がみんな身につけることが期待できただろう。しかし、社会が複雑化してくると、誰もが適切な判断をするということが期待できなくなる。現在は民主主義社会だから、社会の成員の多数が判断したことが社会のルールとなることも多い。だが、その判断が間違えていることも可能性が高くなった。みんなが賛成したからといって、それは必ずしも正しいこととは限らない社会になった。 このような社会においては、優れた判断が出来る人間に社会のルールの判断をゆだねて、適切な規則を作ることでみんなが幸せになる方向をとった方がいいというのが宮台氏の主張だ。これを「卓越主義的リベラリズム」と言っている。これはある意味では民主主義に反する。みんなが賛成できなくても、判断力の優れた人が主張することを実現すべきだという主張だ。 僕はこの考えは、複雑化した社会においては正しいと思う。だが問題は、誰をその優れた判断をする人間だと認めるかということだ。宮台氏の言葉で言えば、そのような人間は「エリート」と呼ばれる。大衆が、誰をエリートだと判断するか。その判断が正しいものであるようにするにはどうしたらいいのか。これが「卓越主義的リベラリズム」の最重要問題だろう。 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、科学のすばらしさを体験することで、どの科学者が優れているかということのセンスも磨かれると語っていた。我々は優れた科学者と同じような業績を上げることは出来ない。それはごくわずかの本当に優れた人々のみが科学史において栄冠を得るような業績をあげるだけだ。しかし同じことが出来ないにしても、誰の業績が本当に優れているかということは、科学を学んだ人間には分かる。科学の本質を学んだ人間は、誰が科学史において「エリート」だったかが分かる。 「エリート」と同じことは出来なくても、誰が真の「エリート」であるかが分かるような教育が成功すれば、宮台氏が言う「卓越主義的リベラリズム」の実現が出来るだろう。オバマ新大統領は、宮台氏が言うところの「エリート」であるような気がする。オバマ氏はエゴで動いているのではなく、利他的に社会全体のことを考えて、今までも行為してきたし、これからもそうであろうと思えるからだ。では日本の麻生総理はどうだろうか。どうもエゴによってその行為がされているように見える。とても「エリート」には見えない。最高権力者の地位に本当の「エリート」が座るときに、日本でも「卓越主義的リベラリズム」の実現がされたと言える日が来るのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2009-01-15 09:57
| 宮台真司
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