田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を考察してみようと思ったそもそものきっかけは、この論文の主張に共感する人が意外に多いということだった。僕自身は論理的な弱さを感じていただけに、自分の中には共感する気持ちが生まれてこなかった。どこが共感を呼ぶ要素になっているのだろうかということを知るために考察してみようと思った。
しかし、考察を始めて見ると、論理的な面の弱さが見えてくるだけで、ここが共感する部分なのかというのが見つからなかった。自分が共感を感じられないだけに、自分の中にないものを外に発見することが難しかったのだ。 そんなことを感じていたときに、ライブドアのブログに「CCMFさんからのコメント」をもらった。これが、僕が見えなかったものを見るために非常に参考になるものだと感じた。このコメントでは 「田母神論文に対する否定的評価の典型は、「論文としては稚拙である」「学術論文の体裁をなしていない」など、テキストとしての外形を問題にする批判が、目立ちました。ただ、これは、学者の世界の中だけで通用する言い分でしょう。世の中の普通の人は、理論理屈だけでは、動かないものです。 好意的な評価としては、花岡信昭氏が「審査する側としては、田母神氏の論文はすっと素直に読むことができて、「国家や国民への思い」があふれた内容を高く評価したのだが、政治の世界や一部メディアはこれを許さなかった」と書いています。 「すっと素直に読むことができる」という花岡氏の意見に、私も同感です。これが普通の人の評価でしょう。 田母神氏の文章は、分かりやすい、いい文章だと思います。しかも、読後に、ある種の高揚感を与えます。このような文章は、書こうと思ってもなかなか書けません。 田母神氏のような軍隊や組織の頂点に立つ人には、なによりも、部下の士気を高め、やる気を引き出す能力が求められます。「感情面の「主観」的な見方が入り込む」のは、むしろ、意図的なものかもしれません。と言うのも、相手の気持ちに訴えることが重要なのですから。」 と感想が語られている。この感想は僕の中には全く生まれなかったものであり、おそらく自分では見つけることの出来ない感性だろうと思う。 田母神氏の文章が分かりやすいという指摘は正しいだろうと思う。ただ僕はそのわかりやすさを、複雑性を見過ごした、単純化して本質を見誤ったわかりやすさだと評価したために、わかりやすさに共感することは出来なかった。 「高揚感」というのは僕の中に生まれてこなかったものだ。それは僕が感性よりも論理の方に関心が高いという、やや特殊な資質を持っているからではないかとも考えられる。感性だけで高揚する人間ではないからだ。だがCCMFさんが指摘するように、これが「普通の人の感覚」であるなら、僕にとってはこの論文の主張に共感する人が多いということが意外だったが、実はそれは意外なことではなく論理的に理解できることなのかもしれない。 ただ、田母神氏がそのような効果を狙って「意図的に」そのような感性に訴える文章を書いたのではないかという評価に対しては、僕はちょっと違うのではないかという印象を持っている。むしろそのようにレトリックを駆使していない、ある意味では自分の心情を率直に書いた文章だったからこそ感性に訴えたのだと理解したい感じがする。 田母神氏は、その心情にあふれた文章から、部下に慕われる・人格の優れた軍人ではないかという感じがする。もしそれが演技であり、レトリックにあふれた文章が書けるような人間であれば、田母神氏は軍人であるよりもむしろ政治家になった方がいいタイプになるのではないだろうか。しかし政治家になるようなタイプであれば、このような論文を書いて、わざわざ不利益を生じさせる(自分自身に対しても国家に対しても)ようなことはしないのではないかと思う。 自分自身の不利益も顧みずに、その心情を率直に吐露できるというところに田母神氏の人柄が表れていて、そうであればこそその面が多くの人の感性に訴えるのではないかと思う。田母神氏の論文への共感は、その論理的内容よりも、田母神氏という人物の人柄の魅力が負っているのではないかという気がしてきた。左翼的な感性の持ち主は、このような魅力を感じる感性を持っていないのでおそらくそれには気づかないだろう。だが、率直さと自分を犠牲にしてでも他者のために尽くすということに価値を見出す人々は、田母神氏の心情に共感するものを感じてしまうのではないかと思う。 田母神氏の著書『自らの身は顧みず』の「カスタマーレビュー」を見ると、この種の共感が語られているのを感じる。それは次のように書かれている。 「日本人の鏡、田母神氏の魂を感じよう! 国を守ることを忘れた国会議員や多くのマスコミにとっては耳の痛い内容だろうが、正常な感覚を持った多くの国民にとっては極めて壮快で、読んでいてこれほど嬉しくなる本はそうはないだろう。国の方向性を変えるきっかけになる可能性を秘めた極めて大きなインパクトを持ったな本と言えるだろう。 村山談話や河野談話によって損ねられた日本の尊厳と国益、それを一切回復しようとしない政治家と、それらを助長するマスコミに対しては国民の多くは非常なる不満、鬱憤を感じていたはずである。 そこに、自衛隊のトップという立場の人間が公の場で、日本の名誉を回復すべく勇気ある発言を行なったことはまさに賞賛に値する。」 「やはり田母神さんを支持することは間違っていなかった。 著者の堅固な主張と、柔軟で魅力的な姿が伝わってくる好著です。」 「田母神氏は本当に素晴らしいお方と思います 国に命をかける覚悟のある自衛官たちの誇りを守ることは非常に大事であると思いました。」 「まじ、いい!昨今、読んだ書籍で最も気概ある一書!! この気概、この覚悟には敵わないね。すごいの一言。昨今最高の一書です。心からお勧めです。」 残念ながら僕の中にはこのような共感はないが、田母神氏のどの部分に共感するかというのは、著書の評価を語る文章からはよく読み取れると思う。このことを日本の社会という現実の状況と照らし合わせてどのように解釈するかということはなかなか難しい問題だと感じる。 宮台真司氏は、田母神氏の軍事的な意見には聞くべきものが多いといい、その専守防衛に対する批判には共感している。そのようなことを考えると、田母神氏は軍人として優れている人であろうと僕も思う。人柄も優れているのだろうと思う。では軍事的な面以外の田母神氏の意見も、それに真摯に耳を傾けて理解すべきかといえば、そこには躊躇を感じる部分がある。 軍事的に優れた意見を語る人が、政治的にも優れた判断をするとは限らないからだ。専門外の分野に関しては間違ったことをいう可能性があることを常に忘れてはならないと思う。もっとも、それを忘れずに細かく分析をしていたら、なかなか感性で共感するという気持ちのいい経験が出来なくなることは確かだ。「高揚感」を味わうことは出来なくなる。それでも僕はやはり、冷めた(=覚めた)論理を使って「高揚感」を捨てることが大事な場合もあることを主張したいと思う。 田母神氏は軍人であって歴史家ではない。歴史に対する判断は、その複雑な構造をすべて考慮して、総合的な判断が出来るような専門家ではない。心情的に、日本だけが非難されているような状況に憤るという感情は理解できるが、それをさらに進めて「侵略」であるかないかを結論づけるような判断にまで踏み込むのは、専門外のことに手を出しすぎているのではないかと思う。 「侵略」ということの判断は、それを専門的に細かく考えれば考えるほど簡単に結論が出せないことだろうと思う。それを村山談話で「日本の侵略行為」と判断するのは、政治的な判断であって歴史学的な判断ではないだろうと思う。政治的な判断というのは、そのような前提で日本は戦後の外交をスタートさせたという経緯を認めることなのだと宮台氏は指摘していた。 宮台氏自身は、学問的には日本の戦争を「侵略」とは考えていないようだ。しかし、外交的には「侵略」を認めることが現在の国益にはかなうと判断しているようだ。それを前提にしてサンフランシスコ講和条約が成立していると判断しているようだ。 僕も、「侵略」という行為の基礎に、植民地主義のようなイデオロギーが重要な要素として入っているのであれば、日本にはそのような明確なイデオロギーがなかったようには感じる。西洋列強が行った「侵略」とはその点で違うような気がする。宮台氏は、日本人のお祭り体質と呼んでいたが、イデオロギーのような論理で行動が規定されるのではなく、心情による共感で、みんながそう思っているのだからということで感情が行動の決め手になっているという。 戦争の拡大も、連戦連勝して、みんなが喜んでいるんだからいってしまえというような気分で拡大されていったと判断しているようだ。そこには植民地主義に基づいた考えで侵略を進めていくような冷静な判断がない。そのように、侵略の「意図」が感じられない行為は、結果的に「侵略」と同じ事実が見つけられても、「侵略」と呼ぶには学問的にはためらいがあるのではないかと思う。 そのような判断は、「侵略」という言葉で呼ばなかったから、「侵略」に対する責任はないのだという判断ではない。結果的に「侵略」と同じことをしたのなら、その結果には責任を持つべきだが、「侵略」という言葉の定義を明確に出来るなら、学問的にはその定義に従ってその現象を評価すべきだという立場だろうと思う。 田母神氏の「侵略ではない」という主張は学問的なものではない。だから学問的な評価をするのはふさわしくないだろう。しかし、それを感性で共感するから「侵略」という言葉に対して曖昧なままで済ませてはいけないような気がする。それがいろいろな意味で使われているということを自覚して、その点においては感性に流されないようにしなければ、同じ感性を持つ人間以外との理解し合うコミュニケーションが難しくなるのではないかと思う。田母神論文の真の教訓はそこにこそあるのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2008-12-19 09:40
| 論理
|
カテゴリ
全体 論理 宮台真司 内田樹 政治 社会 報道 映画 哲学一般 唯物論・観念論 構造主義 雑文 科学 言語 読書 誤謬論 教育 方法論 歴史 真理論 左翼の嘘 戦争・軍事 国際政治 楽天 数学 未分類 以前の記事
2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2004年 06月 2004年 05月 フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||