田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日本は侵略国家であったのか」で、次に「張作霖列車爆破事件」を取り上げて、これが「コミンテルンの仕業という説」を紹介して日本の正しさの一端を論証しようとしている。しかしこの論証は、あまり本質的なものではなく末梢的な部分の主張になっているように感じる。
「張作霖列車爆破事件」は、日本の戦争拡大が「謀略」によるものであるということを主張するときの象徴的なものだと思うが、それは「謀略」であるということに関連しては重要だろうが、戦争全体が「侵略」であるかどうかという判断に関しては末梢的なものだと思われる。また「謀略」であるという考え方も疑問があるもので、日本はそれほどきめ細かな戦略を持って戦争が拡大したのではなく、偶発的な事件を利用して、いわばチャンスだから「やっちまえ」というような、あまり深い考えなしに戦闘行為に入っていったように評価する人もいる。戦争のイメージを左右する意味では象徴的だろうが、戦争全体の評価に関しては末梢的な部分ではないかと思う。 また、この事件が「コミンテルンの仕業」だとしても、その「謀略」を指摘して非難するのも、「謀略」に引っかかるほど頭が悪かったのだと告白しているようで、戦争の指導者に当たる防衛省航空幕僚長空将としてはふさわしくないのではないかと思う。戦争においてスパイが活躍するのは当然のことで、相手の情報を得て戦争を有利に持って行こうとする「戦略」は常に考えなければならないだろう。それが「謀略」と呼ばれるようなものであっても、道徳的には非難されるかもしれないが、味方を有利に導いていれば味方にとっては賞賛されるような行為になるだろう。相手が「謀略」を仕掛けてきても、それを上回る優れた戦略で対抗することこそが戦争の指導者に求められることだろう。 もし「張作霖列車爆破事件」が「コミンテルンの仕業」だとしても、それに対してどうして戦争の「不拡大方針」に反して当時の関東軍が戦闘行為を始めてしまったのか。挑発に乗せられていたのなら、どうして乗せられてしまったのか。それとも、いいチャンスだから拡大しちゃえ、というふうにあまり考えなしに戦闘を拡大してしまったのか。その後の展開の不利益を考えるとここに長期的な戦略があったとは思われないだけに、戦争の指導者としてはこの部分をこそ深く議論しなければならないのではないかと思う。これは、後の部分でアメリカの挑発に乗せられて開戦したことが語られているので、その部分にも通じる論理展開ではないかと思われる。 論理的な帰結で僕が重要だとして注目したいのは、 「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。」 という主張だ。これを、論理的な主張としてもっと明確に表現すれば次のようになるだろう。 「<日本は侵略国である>かつ<侵略国は他にはない>、という命題は誤りだ。」 この「かつ」で結ばれた命題を否定すると、論理学のド・モルガンの法則により 「<日本は侵略国ではない>または<侵略国は他にもある>が成り立つ。」 この命題は「または」でつながれた二つの命題が少なくとも一つ成立すれば正しくなる。両立してもいい。そうすると「当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい」という言葉から、「当時の列強といわれる国は侵略国である」という主張を読み取るなら、日本の他に侵略国があるわけだから、上の「または」でつながれた命題は正しいと言える。 つまりここの論理の流れから 「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。」 と主張するのは、論理的に正しいと言える。しかも、この前提である「当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい」という言葉から読み取れる「当時の列強といわれる国は侵略国である」という判断にも僕は賛成できる。従ってこの結論の正しさにも賛成できると言える。 この結論に関して合意できるということが何を意味するかということは間違えやすい部分があるので気をつけなければならない。この主張に合意したからといって、ここから「日本は侵略国家ではない」という結論が出てこないからだ。「または」という論理語でつながれた命題は、そこでつながれている一方の命題の成立だけが、その「または」の正しさにかかわっている。つまり、一つが正しいことが確認出来れば、もう一つの正しさに関係なく正しいと言えるわけだ。 ここでは<侵略国は他にもある>ということの正しさが確認出来たので、「または」の命題の正しさが確認出来た。このとき<日本は侵略国ではない>という命題は、成立してもいいし成立しなくてもどちらでもいいことになる。この命題の正しさだけでは<日本は侵略国ではない>という命題の正しさが引き出せない。 田母神氏の主張の核心は「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である」ということだろうと思う。そうであれば、その主張に直接かかわってこない「日本だけが侵略国家というわけじゃない」という主張は、本質を外れた末梢的なもののように感じる。だがこの主張をここに入れたかった感情的な部分は理解できるような気がする。論理としては末梢的だったが、感情(心情)としては本質的な部分を持っていたのではないかと思う。 日本人的な感覚の中には、行為を結果で判断するよりも、その志の高さで評価する気分が大きいように感じる。よかれと思って努力したことなのだから、たとえ結果において失敗しても、その志の高さを評価すべきだという心情だ。戦争における玉砕戦法などは、戦闘行為の合理性からいえば評価できなくても、その志の高さが多くの日本人の感動を呼ぶほどの高い評価を与えているのではないかとも思う。 日本の中国大陸への進出も、その志の高さは、侵略行為を繰り返す当時の列強に対抗するためであって、アジア全体のために戦っているのだという正義があったと感じていたのではないだろうか。だから、列強は傲慢な植民地主義の元に「侵略」をしているけれども、日本は同じような「侵略」国ではないという思い(心情)があるのではないか。その心情はぜひ述べておかなければならないという感情面が、論理的には日本の「侵略」を否定するものではない、この部分の論理展開を挿入させたのではないかと思う。 この主張の後の文章では、日本の行為がいかに列強のものと違っているかが述べられている。論理的には、この部分の展開によって日本の行為は「侵略」ではないという主張を論証するものになっているだろう。論証については重要なのはこの部分であって、その前の「日本だけ」の「だけ」を否定することは、主張の本質にとっては重要ではない。ここは感情という「主観」が強く出てきている部分ではないかと思う。 さて、日本の統治が当時の列強といかに違うかということを述べた部分は、果たして日本の行為が「侵略」ではないという主張を論証するものとなっているだろうか。それを論証だというためには、「結果的に繁栄した」ということが「侵略」だということの否定になるかどうかという判断に賛成できるかどうかが必要だろう。僕はこれには躊躇する。「結果的な繁栄」と「主権の侵害」を伴う利権の独占は両立するものであり、「主権の侵害」という判断が「侵略」であるかどうかにかかわってくるのではないかと思われるからだ。 田母神氏はここの部分の主張を展開する段落で 「実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。」 という主張をしている。この部分が説得的に論証されるなら、日本の行為が「侵略」ではないということも説得力を持っただろうと思う。むしろアジア主義の理想を実現したのだと胸を張れるようなものになるだろう。 田母神氏は、この主張の後に、日本が行った政策を述べ、朝鮮出身の軍人のことを語ることによって、日本の統治の正当性を論証しようとしているように見える。これは確かにそのような事実があっただろうと思う。日本を好意的に受け止めた人々もいたに違いない。しかしこの事実は、もう一方では激しい抗日運動という抵抗の事実と対比させて理解しなければならないのではないかと思う。 結果的に日本は戦争に負けて、抵抗勢力に負けたと言えるのではないだろうか。日本人の感覚では「アメリカに負けた」という感覚が大きいのかもしれないが、実質的には連合国に負けたのであって、中国やアジア諸国の抵抗勢力に負けたと受け取らなければならないのではないかと思う。 この抵抗には「ナショナリズム」というものが大きな要素を占めているのではないかと思われる。中国でも、それまでの支配者の軍隊であった国民党軍は全く日本の敵ではなかったが、人民軍である毛沢東の八路軍のゲリラには日本は悩まされたという。これは、「ナショナリズム」の高揚によって生まれた抵抗者が戦闘において職業軍人よりも有効な戦果を上げたということだろうと思う。そしてまた、そのような「ナショナリズム」の高揚をもたらしたのは、もし日本の統治が田母神氏が語るような理想的な面を持っていたとするなら、「ナショナリズム」の高揚とどのような関係を持っているかを整合的に説明しなければならないだろう。すべてが中国共産党の「謀略」だといってしまうのは、あまりにも単純に受け取りすぎる。 この「ナショナリズム」は、ベトナム戦争における解放軍が抱いていたものに通じるのではないかと思う。この「ナショナリズム」が原動力となって、軍事的な力では圧倒的な違いがあるにもかかわらず、ベトナムはアメリカを追い出すほどの強さを見せた。本多勝一さんなどは、このことは「侵略国」の弱さを露呈した事実だと解釈していたように思う。 日本の行為が「侵略」ではないと主張するのは、心情的には理解できるが、あまり生産的な方向へ向かわないのではないかと思う。むしろ、それは結果的には「侵略」と同じになってしまったということを反省して、どうして志の高さが正反対への結果と導かれていってしまったのかということの、論理的な理解を図ることの方が実りが大きいのではないだろうか。その方がアジア諸国の理解も得られ、今後に生産的な関係を築く可能性を大きくしてくれるのではないかと思う。単に謝るのではなく、失敗したことの原因を整合的に理解する方向の論理(思考)の展開が必要なのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-12-16 10:07
| 論理
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