田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を論理的に考察してみようかと思う。田母神氏が展開している文章を、「事実」と「判断」と「意見(主観の表現)」とに分けて、「判断」に当たる部分の論理性を考えてみようとするものだ。
宮台真司氏によれば、田母神論文の問題点は、防衛省航空幕僚長空将という立場にいる人間が、公的に発した発言が、政府の公的な見解と異なっているところに本質があるという。もし言論の自由ということで意見表明をしたいのなら、その立場を離れて自由な私人として主張すべきだというのが宮台氏の評価だった。あのような意見を表明したいのなら、防衛省航空幕僚長空将をやめてからやってください、というのが宮台氏が語っていたことだった。それがシビリアンコントロールからの見解だという。これはもっともなことだと僕も思う。 宮台氏によれば、田母神論文の問題は、論文の中身の問題ではなく、このようなそれが発表された状況の問題だという。だが、僕はこの論文の中身もちょっと考えてみたい気がしている。それは、「朝まで生テレビ」でこの論文について議論したところ、放送終了後のアンケートでは60%ぐらいの人がこの論文に共感していたという結果が出ていたということをどこかで見たからだ。この共感の多さと、論文の中身との関係について考えてみたいと思った。この共感の多くは心情的なものであり、論理的なものではないだろうと僕は感じる。つまり、論理的に正しいからそれに共感するというものではなく、心情的にそれを好む傾向が日本人の中にあるということの現れだと思う。それは僕自身の中にもあるものかもしれない。この心情を論理によって理解したいと思う。 論理的にはたぶん間違っているだろうけれど、心情的に共感を感じる経験というのは僕にもある。それをはっきりと自覚しているのは、「ゴッドファーザーパート1」の映画を見たときの感動だ。「ゴッドファーザー」の主役はマフィアと呼ばれるギャングだ。彼らは違法行為をし、しかも残虐な殺人を行う、弁護の余地のない人間たちだ。しかし、彼らの家族を思う強さと、家族のためには命がけで行動をするというその心情に僕は感動する。おそらく多くの男たちもそのように感じるだろうと思っている。 宮台氏は、人間社会のルールとして「人を殺すな」というものはないけれど、「仲間を殺すな(守れ)」と「仲間のために敵を殺せ」というルールがあると語っていた。「ゴッドファーザー」の中のマフィアはこのルールを厳しく守っている。外国映画で描かれたものなのに、日本人である僕にも共感と感動を呼ぶこの表現は、おそらく男という種類の人間に共通している心情ではないかと思う。田母神論文が多くの人の共感を呼んだというのも、このような心情に訴えたのではないかという感じがする。「朝生」を見ている人間はたぶん男の方が多いのではないかと思う。そして共感を寄せた人間たちも圧倒的に男が多かったのではないかと思う。 そこで田母神論文の中身において、論理に訴える判断の部分と、心情に訴える主観を表現する部分を比較しながらその訴えの効果というものを考えてみたいと思った。「事実」と「判断」と「主観」という3種類のものは、きれいに分けられるものではなく、解釈によって「事実」の羅列が「判断」を語っているようにも見えるところがあるかもしれない。直接「判断」の言葉がなくても、その「事実」を追っていけば、当然このように考えるだろうというような結論が導き出せるときは、それは論理による「判断」だといってもいいだろうと思う。 論理的な「判断」については、共感というよりもその論理展開の正しさが読み取るときの主題になる。「主観」の表現については、感性としてそれに共感できるかということを考えたい。「事実」については、それが本当に「事実」であるかどうかが確かめられれば望ましいのだが、僕にとって専門外のことはなかなかそれが難しいものもある。だから「事実」についてはその真偽については評価せずに、とりあえずその「事実」が正しいという前提で論理の展開を見ていこうと思う。つまり、論理的判断を「仮言命題」と考えて、論理の部分の正しさのみを考えていこうというわけだ。その前提の正しさを認めれば、結論している「判断」も必ず認めざるを得ないような論理が展開されているかどうかに注目したい。 まず、田母神氏が「事実」を語っていると思われる部分を引用して、僕が何を「事実」だと受け取るかということを説明しよう。僕は、次のような表現を「事実」だと判断する。 「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。」 この表現で語られている内容は、観察によってそれが確認出来る。つまり対象として存在しているものの属性として語ることが出来る。従って、この表現が正しいかどうかは、その対象の属性がこの表現に語られているようなものであるかどうかという客観的な対応を見ることで確かめられる。そのようなものを僕は「事実」と判断する。ここで語られていることは単純なことなので、これが「事実」であることは僕にも分かる。専門的な知識を必要としないからだ。 これに対して次のような表現 「これをアメリカによる日本侵略とは言わない。」 というものは「判断」であると僕は受け取る。「侵略」というものが属性として観察できるものではないと考えるからだ。また、これを「判断」という論理的な帰結だと考えるのは、この後にこの「判断」が導かれた根拠が語られているからだ。もし根拠なしにこの「判断」だけが唐突に語られていれば、これは文体という形式としては「判断」のように見えるが、内容としては「主観」を表現しているものだと受け取る。根拠を伴わない意見表明は「主観」の表現であると受け取るわけだ。 この「判断」の根拠を引用すると、次のものであると考えられる。 「二国間で合意された条約に基づいているからである。」 これが「判断」の根拠であるということは、「から」という理由を語る言葉が使われているところからそう考えた。これを論理としての「仮言命題」の形に書くならば次のようになる。 「二国間で合意された条約に基づく行為である」(前件) ↓(ならば) 「アメリカによる日本駐留はアメリカによる日本侵略とはいわない」(後件) この仮言命題は、前提になる部分がある暗黙の了解を含んでいるように思われる。論理として分析する場合は、そのような暗黙の前提もすべて「前件」の中に含めなければ論理としての正当性を判断することが出来なくなる。そこで、「後件」である結論が必ず導けるような形に整えるために暗黙の前提を探してみよう。次のようになるだろうか。 ・「侵略行為」の判断に関して、主権の侵害などの要素は捨象して考える。(つまりそのようなことがあったとしてもその「事実」は無視する。) ・「侵略」の判断は、「二国間で合意された条約に基づく行為」であるかどうかだけを基準とする。(条約に基づく行為であれば「侵略」ではない) ・アメリカ軍の日本駐留は、日本とアメリカの二国間で合意された条約に基づく行為である。 (ここまでが「前件」としての前提。このすべてが成り立つことを「前件」とする) ↓(ならば) 「アメリカによる日本駐留はアメリカによる日本侵略とはいわない」(後件) このように前提を整えれば、一応前提を認めたときには必ず結論を認めざるを得ないという論理展開になっているのではないかと思う。この論理展開の正しさは、前提の正しさには関係ない。前提が間違っていたとしても、この論理であれば、それは論理としては正しいと言える。 この前提に疑問を持つ人が正しさに疑問を持つのは、論理の正しさではなく結論で主張されていることの真偽という正しさの方である。例えば、「侵略」の判断に「二国間で合意された条約に基づく行為」ということだけを基準に置くことに疑問を持つ人は、主権の侵害などの、無理矢理押しつけた条約による行為が正しいものではないというような異議を唱えるだろう。つまり、主権の侵害などを無視することに賛成できないだろうと思う。 このように前提の中に否定したくなるようなものがあれば、その前提を置くこと自体に反対することになるので、その人はこの結論に反対したとしてもそれは論理的には間違っていない。論理的に言えることは、前提のすべてを認める人は、その結論も受け入れなければならないということだ。前提をすべて認めるにもかかわらず、結論は気に入らないという人は、論理に従った思考をしていないことになる。しかし前提の中に一つでも認められないものがあれば、その人が結論を受け入れられなくても論理的には間違いではない。論理というのはそういうものだ。 僕も、この論理はあまりに単純すぎると思うので、「侵略」というものについてもう少し説明がないと、この判断については受け入れがたいものを感じる。「侵略」という行為があったかどうかは、もっと多様な面を考察の中に入れて判断すべきだろうと思う。 田母神論文は、一応論文の形をとっているので、その文体としては論理の展開をしているように見える文体が多い。しかし、上で考察したように論理の前提に暗黙に了解している事柄をおいているように受け取れるようなものが多い。結論を導くための前提が不足していて、根拠の提示が不十分であるのを感じる。これを根拠のない主張として受け取れば、論理の展開のように見えるものが「主観」の表明として受け取れるようにもなる。 田母神氏は、アメリカの日本駐留が侵略ではないことの類推として、日本軍の中国駐留も侵略ではないという方向へ論理を展開していこうとしているが、これが根拠が弱い主張であると受け取られると、それは田母神氏がそう「思っている」だけだと、田母神氏の「主観」ではないかと理解されるのではないかと思う。 田母神氏の論文は、日本軍の行為が「侵略ではない」ということを客観的に示すことが目的ではないかと思う。その客観性が不十分で、それが主観的な見解にしか見えなかったら、その目的は論理的には達成されていないということになるだろう。それでもなお主観としては共感を呼ぶのなら、その共感の元になっている心情を考えてみたいと思う。それは、もしかしたら男としての自分の中にもあるものかもしれない。
by ksyuumei
| 2008-12-11 10:15
| 論理
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