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親族の親疎が持つ群構造

レヴィ・ストロースが発見した人類学における群構造は、婚姻の規則におけるそれが有名だが、『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)にはもう一つの群構造が紹介されている。そのこと自体は内田樹さんの著書でも何回も紹介されているので、そのような事実が観察できるということの知識としては以前から知っていたものだ。それは、親族の間の親密な関係と疎遠な関係の対に関するもので、次のように記述されていた。

1 夫婦の間が親密 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が疎遠
2 夫婦の間が疎遠 ←(対立)→ 妻の兄弟の間が親密
3 父子(息子)の間が親密 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が疎遠
4 父子(息子)の間が疎遠 ←(対立)→(母方の)叔父甥の間が親密

この現象の間に群の構造を発見するのは非常に難しいと思われる。婚姻のタイプであれば、それは世代が変わることによって変化し「変換」としての面を見ることが出来る。そうすれば「変換」というものが持つ群構造を予測して、そこに群を発見できそうに思われる。しかし、上の親疎の関係は「変換」につながっているように思われない。ここに群の構造を見ることが出来ても、それが何を意味し、どのような必然性を語るかということがよく分からない。それを考えてみたいと思う。




まず『思想の中の数学的構造』で説明されている群構造を見てみよう。それは、上の親族の関係を次のように書いて記号化することで考える。

 (夫婦、兄妹、父子、叔父甥)

で4つの親族の関係を表し、それが親密であることを「+」で、疎遠であることを「-」であらわす。上の4つの親疎のタイプは次のように記号化されて表現される。1,2および3,4は対立しているので両立することはない。そこでそれぞれの組み合わせを考えると次の4つが可能性として考えられるものになる。

1-3 (+、-、+、-)
1-4 (+、-、-、+)
2-3 (-、+、+、-)
2-4 (-、+、-、+)

本の中では2行2列のマトリックス(行列)になっていて、この方が見やすい感じはするのだが、テキスト表現ではマトリックスは難しいので一列に並べてしまったが、前の二つは「夫婦、兄妹」という同世代の関係になっていて、後の二つは、「父子、叔父甥」という2世代にわたる関係になっている。この親疎の関係をよく見ると、それぞれの組み合わせが、+と-を反対にした関係になっている。つまり、この組み合わせが変化する「変換」を想定するなら、その「変換」に関してはクラインの四元群を構成することが予想できる。同じことを繰り返すと元に戻るという関係になっているからだ。

このことを抽象的に理解して、群構造を見出すのはそれほど難しくはない。しかし難しいのは、婚姻のタイプのように「変換」が目に見える場合と違って、この親疎の関係の構造は、古代原始社会においては変化しないように見えることだ。つまり、この関係を「変換」として表現するような現象が見あたらない。

婚姻のタイプは世代ごとに変化する。親と子は同じ婚姻タイプにはならない。「変換」が常に観察され、その「変換」が群構造を持っているので、群構造から導かれる「変換」を考えると決して起こらない「変換」が見出せる。決して起こらないということから、近親婚のタブーという、構造がなければ起こるかもしれない可能性が構造によって排除されている。近親婚のタブーは構造が維持されるということの結果から、それが守られているという現象が現れてくる。論理的には構造の維持ということからの帰結で導かれる。しかし、構造の維持を目的と考えるなら、それは解釈が違ってくる。

近親婚が起こるなら、群構造の「変換」において、群としては許されない「変換」が入り込んでしまう。群構造における「変換」は、交叉イトコ婚を要求している。つまり家族の中で婚姻の相手を探すのではなく、家族の外の親族(交叉イトコ)から妻を迎えろという要求だ。これをレヴィ・ストロースは「女の交換」と呼び、構造を維持するために必要な要求だからこそ、これを目的として解釈し、近親婚のタブーは「女の交換のため」にあると、目的として解釈したのではないだろうか。

さて、親族の親疎の関係は、婚姻の規則のように何らかの目的と結びつくような、群構造の維持という問題が見出せるだろうか。それは、現象的には、群構造の維持というよりも、親疎の関係の構造そのものの維持がされているように見える。ある親族の間で、夫婦が親密で兄妹が疎遠であるなら、それは世代が変わることによって変化するものではなく、その親族が維持される限りで親疎の関係も維持されるもののように感じる。「変換」に相当する変化が見つけられない。

レヴィ・ストロースは、この親疎の関係を、考え得る最も単純な親族と考え「親族のアトム」と呼んだそうだ。「親族の基本構造」と呼ばれているものだ。これが「基本構造」と呼ばれることの意味は、それ以外のものは構造から排除されるとも考えられるのではないだろうか。婚姻の規則から近親婚が排除されたように、群構造を認めると、何らかの組み合わせが排除されるということが必然的に帰結される。それを排除しなければ群構造が壊れてしまうので、群構造を守るためにはある特定の組み合わせを維持する必要があるわけだ。

上の親疎の組み合わせを考えてみると、みんな仲良くした方が幸せではないかと、今の感覚なら考えて、

  (+、+、+、+)

という親疎の関係があってもいいではないかと思いたくなるかもしれない。しかし、この組み合わせは親族の基本構造が作る群構造を壊す。だから、いくら親しくしたくても、どうしても親しくしてはいけない関係がそこになければならないことになる。対立が必然的なものとして要請される。

親疎の関係を表す組み合わせは、世代ごとに変化することはないが、もっと長い時間の経過においては変化する可能性があり、人間社会が発生したときに、いろいろな親疎の関係の可能性があったにもかかわらず、上のような4つに絞られた関係だけが存在したというところに、群構造の維持というある種の「目的」を見ることが出来るのではないかと思う。

レヴィ・ストロースがこの構造を「基本構造」と呼んだのは、他の構造を排除する、これのみが許される構造として捉えた解釈につながっているのではないだろうか。それでは何故に、この構造が維持され、他が排除されていくような道を、人間の社会はとってきたのだろうか。その必然性を群構造が教えてくれるだろうか。

現代社会は、この群構造はすでに失われているのではないかという感じがする。親疎の関係は、親族の中の立場によって決まっているというよりも、一人一人の個性によって、感情として発生するものにように見えるのではないだろうか。父子や叔父甥の関係にあるものも、その関係によって親疎の気分が決まるのではなく、何となく気が合うかどうかという人間の個性によって親疎が決まるのではないだろうか。

このような現代社会の親疎の関係は、個人の多様化を進め、ある意味では社会の秩序の維持を困難にする。社会が複雑化し、単純な判断が出来ないようにさせる。これが、もし「基本構造」に従った、四元群という単純な構造をしているのなら、お互いの関係も個性に左右されることなく、どのような関係を築けばいいのかが明らかで安心して対応することが出来るだろう。群構造の維持は、社会の秩序の維持につながってくるのではないかという気がする。

複雑な現象に臨機応変に対応するには、その複雑な現象が持っている本質を理解しなければ正しく対応できない。古代原始社会が群構造を持つということは、そのような臨機応変の対処というものに伴う困難を減らすのではないかと思う。群構造の維持は、社会の安定というものに貢献するのではないかと思う。

現代社会は群構造が壊れているので、社会のルールに従って生きていれば人間が成長し、幸せを感じて生きられるような社会ではなくなってしまったように見える。複雑さを理解してそれに適切に処理できる能力が必要になった時代のように見える。このような現代社会に対して、内田樹さんは『こんな日本で良かったね』という本で面白い考察を加えている。

内田さんによれば、レヴィ・ストロースが書いていなかったことで、「親族の基本構造」においてなぜ対立する同性の関係の中で子供(息子)が生きなければならないかに次のような解釈をしている。それは、その対立の中で、何が正しいのかという考えの中に葛藤を起こし、その葛藤の中で試行錯誤をすることが「成熟」につながるからだというものだ。

この考えはとても面白いものだと思う。群構造から直接帰結されるような論理的なものには見えないが、群構造が壊れたときに、「成熟」というものが難しくなったという感じは、現代社会に生きている僕にも感じられるものだ。その感覚が論理によって説明できれば面白いものだと思う。

多様で複雑になった現代社会では、さらに葛藤が多くなるのだから、本当はもっと「成熟」してもいいのではないかとも考えられる。しかし「成熟」のためには試行錯誤が成功したという、何が正しいかという判断基準がしっかりしていなければならない。複雑で多様な現代社会は、ある意味では何が正しいか分からなくなった社会で、極端に言えば「何でもあり」という感覚も生まれやすい。このような社会では、葛藤が「成熟」につながらずに、「未熟」さを維持するための合理化に、社会の複雑性が利用されるということにもなりかねない。

親疎の関係の群構造というのは、何が正しいかという判断を壊すものではなく、そのような安定の中にあって葛藤を起こすという、実にうまい構造だったのではないかという気がする。そうであればこそ、人間社会が維持されるところでは、そのような構造が常に見出されてきたとも解釈できそうだ。内田さんが語る、レヴィ・ストロースが語らなかったことを、このような観点から見直して、「成熟」ということの意味をさらに深く考えてみたいものだ。現代社会でも「成熟」がうまくいくように出来るのだろうか。現代社会で正しい判断をするには、かなりの知識と能力を必要とする。それが果たして可能になるのか。社会の成員の大部分が「成熟」出来る可能性があるのか。それとももはや、現代社会では「成熟」というものを求めるのは無理があるのか。そんなことが頭に浮かんできた。

今日の内容は数学的に深入りした部分がないので、楽天でもそのままアップしようかと思う。
by ksyuumei | 2008-12-10 10:20 | 構造主義


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