レヴィ・ストロースが、オーストラリアの未開族であるカリエラ族における親族関係の中に群構造を見出したのはよく知られている。婚姻の規則の中に、クラインの四元群と同じ構造があることを見出した。このことについて、今までの僕の感覚では、それまで誰も気づかなかった隠された構造(仕組み)を発見したことにレヴィ・ストロースの偉大さがあったと感じていた。
しかしこのような理解は、ある意味では複雑で難しいパズルの答えを見出したことの頭の良さに恐れ入ったというような感覚だったようにも思う。レヴィ・ストロースの天才性に偉大さを感じていただけであって、その内容(構造を見出したということの意味・意義)の偉大さを理解していたのではなかったような気がする。 つい最近手に入れた『思想の中の数学的構造』(山下正男・著、ちくま学芸文庫)という本の中に、「構造」の発見という構造主義の視点がいかにすごいものであるかということを教えてくれる文章を見つけた。レヴィ・ストロースの個人的なすごさというのは、「構造」というものの持つ思想史的な意味・意義(人間がどれほど物事を深く広く押さえられるかという思考の発展の持つ意味・意義)の大きさから感じられるものだということが分かるようになった。レヴィ・ストロースは有名だからすごいと感じるのではなく、このようなすばらしい思考の過程を教えてくれるからすごいのだと思えるようになった。それがうまく伝われば嬉しいと思う。 さて、おおざっぱに構造発見のすごさを語ると、人間が現実の観察から得られるような現象的な記述というものをそれだけをベタに受け取るのではなく、構造というものがそこに存在してそれが必然性を教えるということを考えると、世界の仕組みが分かったというような気がしてくる。それがすごいことだと僕は思う。偶然そうなっていることを発見して、「ああ珍しいこともあるものだなあ」と思ったり、「面白いな」と感想を抱くだけではなく、その現象が、ある意味では当たり前の現象として現実に発見できることの、根源的な理由を構造が教えるというような発想を見出したことがすごいと思った。 レヴィ・ストロースが語る婚姻の法則は、現象的には次のように語られる。 ・カリエラ族の人々は、部族内でA,B,C,Dという4つのセクションに分けられ、誰もがその1つだけに所属する。 ・このセクションは、それぞれ結婚する相手を決めるという規則を持っている。他のセクションの相手との結婚は許されていない。そして、その夫婦の間に生まれた子供がどのセクションに属するかは、親の所属するセクションによって決められている。一覧表にすると次の通りになる。 夫(男) 妻(女) 子 A B D B A C C D B D C A この一覧表の規則も、よく眺めればそこに構造を発見することが出来、その規則性を記述することも出来る。それは例えば次のように記述できる。 ・男女の婚姻は(A,B)あるいは(C,D)という組み合わせの間で行われ、この組み合わせ以外の相手との婚姻が許されていない。 ・子供のセクションは、親のセクションの組み合わせではないところになる。親と同じセクションに所属する子供はいない。 このような考察から帰結される論理的な結論は、例えば有名な近親婚の禁止といういうようなものが導かれる。兄弟姉妹は、同じ親から生まれる限りでは同じセクションに所属することになる。同じセクションの男女は婚姻の相手に選べないので、決して結婚することは出来ない。近親婚の禁止はこの婚姻規則の構造として必然的に導かれる論理的な帰結になる。 また子供の所属は、例えば父親がAのセクションの時と、母親がAのセクションの時では、それぞれDになったりCになったりする。そして、この組み合わせが婚姻を許される相手のセクションになる。つまり、婚姻の相手に選ぶことが出来るのは、父親の姉妹の子供か、母親の兄弟の子供に限られることになる。父親にとっての同性の兄弟、母親にとっての同性の姉妹の子供は、自分と同じセクションになってしまうので婚姻の相手にはならない。 以上のような結論は、実際にカリエラ族を観察して見出したものではなく、婚姻規則を論理的に考えて見出したものだ。観察せずに論理によってそのような結論を見出すことが出来る。そして、実際にレヴィ・ストロースの報告によれば、交叉イトコ婚の習慣というものが見出せるということが語られている。現実が論理に従っているということが見出せるわけだ。 現実をよく観察すれば、相手がどのようなセクションに所属しているかという婚姻規則だけでなく、交叉イトコ婚という父親の姉妹の子供や、母親の兄弟の子供との結婚という習慣も観察することが出来るだろう。それは、構造を考察することなく、事実として見出される。だが、そのように事実として見出された知識は、現実はそのようになっているという現在の様子を記述するだろうが、なぜそのようになっているかとか、これからどうなっていくだろうかというようなことは教えてくれない。単に現実は、事実としてそうなっているということを語るだけだ。 これが構造から導かれるということになれば、その構造が維持される限りで、未来もその通りのことが繰り返されるということが論理的に帰結される。さらに、レヴィ・ストロースが語るように、近親婚の禁止は「女の交換のためにある」というような、目的を説明することにも使われるだろう。 カリエラ族の婚姻規則では、身内の女と結婚することは出来ない。それは構造からの論理的な帰結で、ある意味では「結果的に」身内の女は他の親族のもとへ行き、身内ではない女を他の親族から迎えるということになる。これは、論理的には帰結であり結果と解釈できる。しかし、これは必然的な結論になる。それが必然的であるということから、その解釈は、これを「目的とする」と考えてもいいのではないかと思う。レヴィ・ストロースが「女の交換」のために「近親婚のタブーがある」というのは、論理的・必然的な結論であるということからそう解釈できるのではないかと思う。 以上のようなことが「構造」というものから導かれるとすれば、「構造」に注目するということが有効な思考の展開であることが分かる。だが、ここではまだクラインの四元論の群構造は語られていない。実は、上の所属セクションだけでは群構造にはまだなっていないのだ。群構造はもう少し複雑であり、複雑なだけにレヴィ・ストロース以前には誰もそれに気づかなかったものと思われる。 具体的な四元群との関連はまた別のエントリーで記述することにして、ここではなぜ群構造との関連で「構造」を考えるのかということを考えてみたいと思う。そもそも「構造」に注目するということは、物事を現象的に見えたままに受け取って考えるのではなく、見えない部分にも思いを至らせて、対象の本質に迫りたいという要求があるからだろうと思う。 婚姻の規則に関しても、それを現象として眺めているだけなら、そのおもしろさは感じられるかもしれないが、それ以上の考察には進まないのではないかと思われる。それが自明なことで、習慣を疑う人が誰もいなければ、人々はその習慣に従った生活をするだけで、どうしてそのようなことをするのだろうという疑問を抱く人はいないはずだ。それはそのようにしているからするのであって、そうするのが正しいのは自明なことだ。 これは規則に従って計算をする形式システムの行動によく似ている。形式システムは、その行為が何を意味するかは全く考えない。規則に決められた行為を忠実に、決して間違えることなく繰り返すだけだ。同じように、婚姻の規則が完全に習慣化されていれば、人々はそれに疑問を持つことなく形式システムのように、その規則に従って行為を続けることだろう。 もし、この構造が壊れて、人々がそれを再帰的に捉えるようになったらどうなるだろうか。その構造が与える規則に反する行為をする人々が生まれてくるだろう。やがて構造はなくなってしまうかもしれない。これは、形式システムには自然には起こってこないことで、形式システムの構造を壊すには、それを設計したものが壊さない限り、形式システムそのものが自分で構造を壊すことは出来ない。 構造に注目することは、人間的な「再帰的思考」へのきっかけとなるのではないかと思う。人間が形式システムとは違うということを示す最たるものになるだろう。構造主義が構造に注目したという発想は、人間が人間的な思考を進めるということの反省から出てくるのではないかと思う。 そしてこの「構造」は、そのとらえ方で様々なレベルが存在するだろうと思う。上で考察した形の「構造」は、日常言語でも思考できるような、具体的な形が分かる構造だった。しかし、この「構造」を、もっと高度の抽象で扱えるような対象にすれば、日常言語ではなく、数学言語とでも呼べるような記号表現で記述するような「構造」が見出せるのではないかと思う。その最高度の抽象的な「構造」が、実は群構造と呼ばれる対象ではないだろうか。 群構造は最高度に抽象化された「構造」であるから、そのような性質を持った「構造」が現実からの抽象で見出せるに違いない。しかも、高度に抽象化された対象は、数学によって論理の展開が可能になるので、日常言語では見出せないほど抽象的な(裏に隠されたように見える)性質を見出す可能性がある。ここに、群構造が問題にされる重要なポイントがあるのではないだろうか。 ブルバキの数学原論によれば、数学的構造は、「代数構造(群構造)」「順序構造」「位相構造」の3つに分類できるという。これが構造というものを抽象した最高レベルだとすれば、具体的な構造も、この3つの数学的構造に対応した面に注目して抽象化されると、これら数学的構造の成果を利用することが出来るだろう。 群構造と婚姻規則の構造が、具体的にどのように関連しているかを見ることによって、現実の中にある構造を抽象的な構造によって理解する発想を考えてみたいと思う。それこそが、たぶん「構造主義」と呼ばれるものの神髄ではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-12-07 16:07
| 構造主義
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