野矢茂樹さんは、『論理学』(東京大学出版会)という本の中で、ゲーデルの証明の核心となるアイデアを次のように書いている。
・「私は証明不可能だ」を表現する式を自然数論の中で表現する。 「私は証明不可能だ」、すなわち「私は証明可能ではない」という否定命題は、自然数論が対象にする命題ではない。自然数論は、自然数の間に成立する数学的関係を表現するもので、自然数に対する言明になっていなければならない。だから、この日本語表現のままでは、それは自然数について何か語ったことにはなっていない。この日本語表現が、ある種の数式を解釈したときに、そう解釈できるような数式を表現するということがゲーデルのアイデアの核心であると語っているのだろう。 この日本語表現をどのようにして自然数論の中に埋め込むかというのは、数理論理学を少し勉強しなければ判らないが、それは一応ゲーデルがやってくれているし、それがほとんどの数学者に認められているということは、そこには間違いがないという保証になる。というようなことを信じて、それが出来ているという前提で、この命題自身は、日本語表現としてそのまま意味を受け取って、言葉の意味を基礎にして、この命題がどのような論理の展開を見せてくれるかを考えてみようと思う。日常言語の意味の理解の範囲内で、この命題がどのような意義・意味を持っているかを考察してみたい。果たしてうまくいくだろうか。 この命題と比較するために、いわゆる「嘘つきのパラドックス」と呼ばれているような命題も、似たような表現にして考えてみようと思う。「嘘つきのパラドックス」では、「証明可能」という概念ではなく、「真偽(真あるいは偽)」という概念が問題にされている。それは次のように表現できるだろうか。 ・私(私が語っているこの文そのもの)は真理ではない。 「私は真理ではない」と語るこの命題は、この命題自体が真理であるかどうかを考えると困ることになる。もし真理だと考えるなら、この命題が主張することが正しくなる。そうすると、 「もし真理」 ならば それは「真理ではない」 となる。それでは、真理ではないとしてみると、その否定が正しいことになる。この命題は「真理ではない」と主張しているので、これをもう一度否定すると二重否定になり、結局は「真理である」ということになる。つまり、 「もし真理ではない」 ならば それは「真理」になる 真理であると考えても、真理でないと考えても、結論としてその反対のものが出てきてしまう。つまり、この主張は矛盾を生み出す。この矛盾を指してこれは「嘘つきのパラドックス」と呼ばれている。 さて、この「嘘つきのパラドックス」によく似ているが、真偽ではなく、証明可能性を問題にしている命題は、それが真になるかどうかで考察をするとどうなるだろうか。「私は証明可能ではない」ということが真理であった場合は、それはどう解釈すればいいだろうか。 自然数論におけるある式が、本当に証明が出来なかったとき、それは「証明可能ではない」ということが事実として正しかったことを意味するだろう。「私」という言葉の解釈が気になるところだが、ほんとに証明が出来なかったという事実が分かれば、この命題は真偽を問題にする限りで、事実として証明できなかったのであるから、証明できないという主張の「証明可能ではない」ということが真理であると言わざるを得ない。だが、ここからは矛盾は導かれない。単にそういう事実があったということが言えるだけだ。 それでは「私は証明可能ではない」という命題が偽だった場合はどうなるだろうか。これが偽であるということは、その否定の方が正しいということになる。つまり「私は証明可能だ」ということが事実として成立するということだ。このように、真と偽の場合では、それに対応する事実が逆になるものの、結論が矛盾するようなものとして導出されることはない。ここにはパラドックスは生じない。 「嘘つきのパラドックス」のような真偽の主張をする命題において、その真偽の判断が自己自身ではなく、他の命題に対するものであれば、そこにはパラドックスは生じない。自分自身とは違うある命題Aに対して、Aが「真理ではない」と判断するのはいくらでもあり得るし、「真理である」と判断したときに「真理ではない」ということが結論されることもない。 しかし、自分自身が自分に対して「真理ではない」と主張するような自己言及があるときは、それを「真理である」と判断すれば「真理ではない」ことになり、「真理ではない」と判断すれば「真理である」ことが、論理的展開から導かれてしまう。このパラドックスの発生の原因は、自己言及の中にあるというのが論理的な見方だ。自己言及というのは、慎重にやらなければ何か思わぬ展開が生じることがある。 「私は証明可能ではない」という命題も自己言及の一つになっている。この私に関する判断は、結論として矛盾を生じさせないにしても、何らかの問題を起こさないものだろうか。これは次のような問題を生じさせると考えられないだろうか。もしこの命題が偽であると考えると、 「私は証明可能ではない」が偽 ↓ 「私は証明可能だ」が真 ↓ 「私」で指される命題「私は証明可能ではない」が証明できる ↓ 偽になる命題が証明可能になる 偽になる命題が証明可能になる論理的世界は、矛盾が証明される世界になる。命題自体が矛盾を発生させるようなパラドックスではなくても、「私は証明可能ではない」という命題を偽であると考えると、それは矛盾した論理体系になってしまう。つまり 「私は証明可能ではない」が偽 ならば その論理体系は矛盾している という仮言命題が成立する。この対偶をとると、 論理体系が無矛盾である ならば 「私は証明可能ではない」は真 でなければならない。そしてこの命題が真であるならば、それが語るように、この命題は証明できない。つまり、「真でありながらも証明できない」ということが主張されることになる。 以上をまとめれば、「論理体系が無矛盾であれば、そこには真でありながらも証明できないという命題が存在する」という主張につながるのではないかと思われる。 ここまでの考察の展開は、すべて日本語で表現された言葉の意味に頼った論理の展開だった。だから、実際に自然数論にそのような命題が存在するのかどうかというのは、これだけでは判らない。単に言葉をもてあそんで屁理屈を言っているだけなのかもしれない。神の完全性から、その存在を引き出してくるような、言葉の意味だけから理屈を展開しているようにも見える。「完全」という言葉の中には、すべてが含まれているのだから、「存在」ということが含まれていないはずがない。だから神は存在するという理屈は、言葉の上だけでは確からしいように見えてしまう。しかし、実際には「存在」というのは、本当にあるということを確かめる方法がなければ誰も信じないだろう。 「真でありながらも証明できない」命題の存在も、言葉をひねくり回して、何となくそう感じるような理屈を作っても、まだ信用できないという感じを抱く人の方が多いのではないかと思う。これは、実際にそのような命題を作り上げなければ、本当にあるということを実感して信じることは出来ないだろう。 また、上の理屈で「真である」と語っているのは、あくまでも証明できないという事実から「真である」と語っているのであって、これは自然数についての言明について「真である」といっているのではない。つまり、自然数論の中にそのように「真でありながらも証明できない」命題を作ったわけではないのだ。単に言葉の解釈をつなげてそのように理解しただけに過ぎない。 ゲーデルは、実際にそのような数式を作り出して示したといわれている。だから、ゲーデルを信じて、そのようなものはあるのだということを前提にして上の理屈を展開してもいいような気もする。面倒なところはゲーデルに頼り、日常言語の表現で分かりやすく展開できる論理の方の理解でゲーデルの定理を理解することが出来ないものだろうか。それはある程度可能だろうが、正確さという点で不十分だとは言えるだろう。 ゲーデルは、「真でありながらも証明できない」という表現を使ってはいないと、野矢さんの本でも注意されている。それは、おそらくそう解釈した方が日常言語の論理では分かりやすいからではないかと思う。正確には、 「自然数論の公理系Nがω無矛盾であるならば、Aの肯定も否定も公理系Nにおいては証明できないようなNの閉じた式Aが存在する。」 と表現される。この表現は正確には違いなのだろうが、これを日常言語の範囲で説明しようとするのはとても出来ないのではないかという感じがする。鑑賞し、そのエッセンスを何とか感じ取るのなら、正確さを少々犠牲にしても日常言語的な表現を工夫するしかないのではないかと思う。大外れしない程度に説明するにはどうしたらいいかということを考えたい。 また、正確さを求めるには、実際にゲーデルが構成したような方法を追体験することが役に立つのではないかと思う。その意味を解釈すれば、「私は証明可能ではない」と読み取れるが、形は数式になっているという、その形式的な式系列と、その解釈を読み取るメタ的な視点との関わりを、もっとやさしい例で感じだけをつかむという説明だ。それはおそらく『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本で工夫されたやり方なのではないかと思う。この具体的な式の構成方法を理解すれば、日常言語でやや曖昧に理解した内容が、数学的に正確な表現に近づいていくのではないかと思う。数式の表現と、それに秘められた言語で表現される意味の関係を読み取るという、そのあたりの説明の工夫というものを考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2008-10-13 16:53
| 論理
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