二十歳前後の頃、数理論理学を勉強したことでようやく数学についての理解が出来るようになってきた。そのときに、論理学の一分野として弁証法というものにも関心を抱き、いくつかの入門書を読んでみたのだがさっぱり判らなかった。しかし三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)という本だけは弁証法について初めて分かるような説明をしていたと感じたものだ。「うまい説明」だと思った。
この本の弁証法についての説明も印象深いものとして残っているが、それと同じくらいに心に残っているのは「誤謬論」について語った部分だ。特に、後に教育に携わるようになってからは、教育においては「誤謬論」を考えることが、分かりやすい説明にとって重要だということを思うようになった。 三浦さんの誤謬論は、間違った考えというものが、内容的にどのように正しい考えと違っているかという比較をしただけのものではない。間違った考えが出てくる原因というものを、客観的な現実とそれを認識する人間の頭脳の働きとの両方にそれを求め、合理的に説明がつくような仕方で「なぜ間違えるのか」という「なぜ」を説明するものだった。それは、単に正しいものを言葉として暗記して正しさを獲得するのではなく、誤謬に至る過程を理解することで、「なぜそれが正しいのか」ということを理解するものだった。 このような考えは、正しさというものを本当の意味で理解するもののように思われた。学習というものを、単に暗記した知識の量を増やすのではなく、現実を深く理解することにこそ求めたいと思っていた自分には、この誤謬論は「目から鱗が落ちる」というような指摘だった。三浦さんはこの本で次のように語っている。 「諸君が教師で、生徒に算数の応用問題を10題、宿題として与えたとしよう。一人の生徒は独力で解いたが、惜しくも数字を書き違えて、2題だけ誤った答えを出した。80点である。いま一人の生徒は全部解き方が判らなかったが、父親に解き方を教えてもらって、全部正確な答えを出した。100点である。結果としては、後者の生徒がより正しい解答を示している。だから、彼の方が優れた生徒である。この結論は妥当だろうか?もちろん、そうではない。 私たちは、いま著作に述べられた真理が多いか少ないかと、学者として優れているか劣っているかとを比べてみた。一致する場合と、一致しない場合とあることが判った。一致しない場合を調べてみると、この比較が実は外面的・現象的な取り上げ方でしかないことも判る。著作は手が機械的に動いて作られたものではない。そこには頭脳の媒介がある。著作に述べられた真理は、現実の世界からくみ取ってこられたものであるから、著作と現実の世界の間には頭脳を媒介とした結びつきがある。真理が多ければ、それだけ現実の世界との結びつきも大きいことは確かである。しかしそれは、著作者の頭脳が自力で現実からくみ取ってきたか、それとも他の者の頭脳がくみ取ったものをもらい受けたかと、直接の関係を持つものではない。ところが、学者としての優劣はこの自力か他力かに関係してくる。」 この言葉は、ディーツゲンという労働者哲学者の評価を巡る言説を語るところで書かれている。ディーツゲンは、マルクスやエンゲルスのように学問を専門的に修めた、いわゆる学者ではない。労働者として労働をする傍ら哲学の勉強をした人間だ。従って、専門の学者のように膨大な知識量を持っていたわけではない。その語ることの中に若干の間違いが含まれていた。そこに間違いがあるということで、ディーツゲンの語ることの評価が落ちるかどうかという見解に対して、三浦さんは、ディーツゲンがその真理を現実から「独力でつかみ取ってきた」という面を高く評価すべきだということを語っていた。 間違ったということを、単に正しくなかったという側面だけで捉えていれば、それを独力でつかもうが暗記をしようが、正しい方が優れているということにしたくなるだろう。しかし、独力で正しさをつかむということは、その出発点においては間違いを重ねることが普通だということに気づく。人間が真理をつかむ歴史を振り返れば、多くの誤謬の中からそれが訂正されてきたことを見ることが出来るだろう。 実は誤謬に陥るのは、それなりの合理的な理由があるからこそ間違えるのだ。そして、その誤謬から抜け出すには、誤謬の原因を突き止めなければ出来ない。誤謬の原因を突き止めるには、正しいといわれていることを言葉で覚えるのではなく、独力で現実からその真理を探し出さなければならない。探し出す過程で、どこが誤謬に陥るポイントであるかが判ってくる。そして誤謬を誤謬として正しく捉えたとき、その真理の理解もより深くなる。だからこそ独力で真理を獲得した人間が、それを単に言葉として暗記している人間よりも優れていると評価できるのだ。 僕は暗記が苦手だったせいもあって、この三浦さんの言葉には特に深い共感を覚えたものだった。いまでは、暗記もすべて否定するほどのものではなく、一定の範囲で暗記も教育においては重要だという認識を持っているが、理解という面では、やはり独力で真理を獲得することが大事で、そのためには誤謬論が重要だという考えは変わらない。 この誤謬論では、三浦さんが評価したディーツゲンが語っている次の言葉がまた印象的だった。三浦さんの本から孫引きしておこう。 「真理はある一定の条件の下においてのみ真理であって、ある条件の下では、誤謬がかえって真理となる。太陽は輝くということは真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前提としてである。まっすぐな棒は、水の流れに突っ込めば曲がるということも、もし視覚上の真理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理と異なる点は、誤謬はそれが表している一定の事実に対して、感覚的経験が保証する以上により広い、より一般的な存在を度外れに認めるところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠を気取るとき、初めてニセモノとなる。」(1869年、ディーツゲン『一労働者の見た人間頭脳の働きの本質』) 誤謬の本質が「逸脱」にあるという指摘は、誤謬を考える際に非常に役に立つ発想だ。誤謬の原因が知りたかったら「逸脱」という過程がその認識の構造のどこかにないか探せばいい。結果だけを見て、知識として知っている正解と違うということだけで誤謬を判断していたのでは、誤謬をしている人間に正解の正しさを伝えることは出来ない。正解は言葉として記憶するしか無くなる。 水の中に突っ込んだ棒が曲がっているという見方をする誤謬は、本当はそうではないということを言葉の上で指摘しても、それだけでは教育としては足りない。それは視覚的真理という面では、そのように見えるのは本当のことだからだ。それは、人間の目に見える姿が、そのままで客観的にもその通りになると考えるところに、錯覚を考えに入れなかった「逸脱」があるのだと教えてやらなければならない。 水の中に入れた棒に関しては、それを自ら取り出すことが容易なので、これは逸脱の説明も簡単にできる。しかし、例えば地球が丸くなく平らのように見えるのは、その巨大さが想像を超えているから、直接この誤謬を指摘して、水の中の棒のように説明することが出来ない。板倉さんは、この「大地・球形説」を、ギリシアの人々がいかに説明したかということで、アリストテレスの説明などを紹介していた。それは月食の際に、月に地球の影が映るという事実から説明していたりしていた。視覚的真理がそのまま客観的真理になるという「逸脱」に気づかなければ、大地が球形をしているという発想は生まれないのではないかと思う。誤謬の認識こそが真理へ到達するものだという指摘は重要なものではないかと思う。 同じような発想はエンゲルスの『反デューリング論』からも引用されている。これも三浦さんの本から孫引きしておこう。 「真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさにきわめて限定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性を持つ。我々が真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い領域以外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもし我々が、この対立を絶対的に妥当なものとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、我々はいよいよ破局に陥る。すなわち対立物の両極はその反対物に変わり、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。」 レーニンの『共産主義の「左翼」小児病』では次のように書かれている。 「新しい政治的(そして政治的だけではない)理念を不信用のものとして、かつそれを傷つける最も確実な方法は、それを擁護するという名目で、それを背理にまで導くことである。なぜならば、あらゆる真理は、もしそれを『度外れ』にするならば(老ディーツゲンが語ったように)、それを誇張するならば、その実際的適用の限界以上に拡張するならば、背理に導くことが出来る。」 誤謬を誤謬として正しく認識するには「逸脱」に注目して初めて分かるようになる。この発想を、あらゆる対象について考えることによって、そこでの真理をもっと深くつかめるようにならないかと思う。国会における論戦では、そもそも何が真理であるかということがわかりにくい。双方とももっともらしいことを語っていて、相手の欠陥を指摘している。しかし「逸脱」をしてしまえば、「真理が誤謬になり、誤謬が真理になる」。どちらかに「逸脱」がないかを慎重に見極めなければならないだろう。 野矢茂樹さんは『論理学』という本の中で、「「ゲーデルの不完全性定理は知性の限界を示した」とか「人間には認識できない真理があることが示された」とか、いろんなことが言われてしまうみたいなんですね。でも、不完全性定理に対するそうした理解は間違っています」と語っている。この誤謬も、「逸脱」という面から考察すると、その原因が本当に理解できるのではないかと思う。ここでは何が「逸脱」されているのか。 そしてまた、この「逸脱」の理解こそが、誤謬の本質を語るものになっていれば、それを教えることで真理の理解にも一歩近づくことが出来るのではないだろうか。ゲーデルの定理に関しては、このような間違いだといわれるような印象を持つことが一般的でもあると語られている。一般的であるということは、誰もが陥りやすい誤謬であるということだ。それは大地が平らであるという間違いがむしろ普通で、それが球形だという真理の方が難しい認識であったことと似ているのではないだろうか。ゲーデルの定理が持っている表現が、どのようにしてこの誤謬と結びつくのか、どこが間違わせる要因となっているのか、合理的な理解と説明を求めてみたいものだと思う。それはきっと教育という営みに有効なヒントを与えてくれるものとなるだろう。
by ksyuumei
| 2008-10-09 09:30
| 誤謬論
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