仮説実験授業研究会の牧衷さんという人が『運動論いろは』(季節社)という本を書いている。牧さんは、いわゆる市民運動の専門家で、そこには長年の経験から得られた豊富な知識と教訓が語られている。運動という予測のつかない、ある意味では混沌とした対象から、いかにして法則性を読み取るかという認識論がそこにはあり、それは現実の持っている複雑性を理解するために、弁証法的発想を利用するというものになっている。弁証法の具体的な応用のすばらしい解説書ともなっている。
そこに牧さんの「慣性の法則」の理解に関する体験が語られている。「慣性の法則」というのは、「静止している質点は、力を加えられない限り、静止を続ける。運動している質点は、力を加えられない限り、等速直線運動を続ける」というふうに語られる。これは、静止の場合については誰でも経験しているのでその理解はたやすいだろう。論理的な思考なしに、体験から直接そのような「感じ」を理解することが出来る。 しかし「等速直線運動」の方は、我々は直接体験することは出来ない。力を与えられていないように見える物質は、地球上ではいつか止まってしまう。(そこには摩擦力などが加えられているのだが、これは目に見えるようにはなっていない。)いつまでも動き続けるということはない。この「等速直線運動」は、それを想像させるようなうまい実験を利用しないとなかなか理解が難しいだろう。言葉の上で、「慣性の法則」は上のように書かれているというのを記憶しただけでは理解に至らないのではないかと思う。言葉で覚えている「慣性の法則」は、それを説明することは出来ても「うまい説明」とはならないだろう。 説明が説明として機能するためには、その説明によって今まで分からなかったところが分かるようにならなければならない。言葉で覚えているだけの、暗記した言葉の説明は、それがすでに分かっている人には分かるだろうが、まだ理解に至っていない人にとっては何を言っているのかさっぱり分からない。それは全く説明という言葉に値しないのだが、そのような丸暗記の言葉であってもテストでは正解になったりする。 僕は、自分が生徒・学生であった頃から、説明や理解ということにこだわりを持っていた。言葉の暗記ではない数学の理解をしたいと思っていた。可能ならば、すべての命題を自分が再発見するような学習をしたいと思っていたものだ。そのために、自明だと思えるようなことでも、それをまだ知らない人に説明できるような語り方というものを探していた。初等教育に携わってからは、ますますそのようなものに対する関心が高くなった。全く自明だと思えることは、なかなか説明が難しい。しかし、そのようなものでも、全然分からないというような顔をされることがある。そのようなときに、そのことの理解に苦労している人に対して、本当に「うまい説明」がないものだろうかということを常に考えている。 「うまい説明」が構造的にどうなっているのか。それをつかみたいものだと思う。それは、自分はとりあえず知っているということであっても、相手が本当に分かったという気持ちになれなければ「うまい説明」ではない。この「うまい説明」は、実際にそれが出来たときは、実はそれまでの自分の理解もあまり深いものではなかったということに気づく。「うまい説明」をすることによって、その知識が深まるということもある。僕にとって、あるいは他の人にとっても、それまで分からなかったことが分かるようになったという経験をヒントに、「うまい説明」の構造を考えてみたいと思う。そのための貴重な体験として、ちょっと長いのだが、牧さんの「慣性の法則」の理解に関するものを次に引用しよう。牧さんは岩波映画社という会社で科学映画の制作に携わっていた。その経験を次のように語っている。 「どういう考えで科学映画を作っていたかといいますと、自分が自然科学を教わったときに、「ここが分かったから、ぱっと分かった」という分かる急所みたいなものがある。--例えば「慣性の法則」が分かったときに「力学」が分かるようになる。その慣性の法則が分からないうちは、……そりゃー計算をして答えを出してマルをもらうことは出来たけれども、それはただ単にそれだけのことであって、物理が分かったという感じは全然しなかった。 ところがたまたまアインシュタインとインフェルトの『物理学はいかに創られたか』(石原純訳、岩波新書)を読んでいるとき(別にその本にそう書いてあったわけじゃないんですけれど)パッと分かったという経験をいたしました。 それまで私はなんといっても「運動」と「静止」の間に万里の長城を築いていたわけです。私たち(の世代)は、慣性の法則を「ダルマ落とし」なんてので教わったんです。「止まったものは止まったままで、動いているものは動いたままで、これが慣性なんだ」というふうに教わったんです。だから、やはり静止と運動とは質的に違う状態なんだというアリストテレス流の考え方から抜けきらなかった。 「いつでもものは全部動いている。止まっているというのは、たまたま速度が0(ゼロ)の時に過ぎない」--あッ!慣性の法則ってのはそういうことなんだ。静止というのは速度0の状態で、速度αの時の状態と別に変わりはないんだ、ということが突如分かる。それが分かると、とたんに慣性の法則の持つ意味が分かり、力学の見通しがパーッといっぺんに良くなったという体験がございます。私の中学校(旧制)の五年生くらい、ちょうど今の高校二年生ぐらいの時のことでございます。 ものごとの判り方というのは、そういうふうに理解の急所になるポイントが判ると「目から鱗が落ちる」という言葉の通り、一挙にパッと視界が開けます。「なるほど、こういうことだったのか!しかし学校の先生はなぜこういうふうに教えてくれなかったんだろう、こういうふうに教えてくれていたら、もっとずっと判っていただろうし、もっと科学が好きになっていただろうになァ」というふうに思いました。」 ここに書かれていることにはたいへん共感する。なぜなら僕にも似たような経験があるからだ。形式論理を勉強していたときに、弁証法というものが矛盾の存在を肯定して、そこから論理を展開しようとしていることに全く理解が出来ずにいた。そのとき、その矛盾は形式論理でいう矛盾とは全然違うもので、弁証法は形式論理に対立するものではないということを三浦つとむさんから学んだ。弁証法というものは、全く特殊な思考法ではなく、形式論理と同じ合理的なものであるということが判ってから弁証法に対する視界が開けたように感じたものだ。 また、三浦さんの構造主義批判から、人間の思考を支配する構造というものを、妄想的に設定して人間の自立性を否定するものが構造主義だと思っていた頃は、構造主義というものが全く理解できなかった。そもそも、直接目に見えない構造などというものがそこにあるということを示すのはたいへん難しく、ほとんどの構造の指摘は妄想ではないかと思っていたのだ。そこにそのようなものがあると思った方が自分の論理展開に便利だから設定しているだけなのではないかと感じていたものだった。 その構造主義について、内田樹さんが『寝ながら学べる構造主義』で語っていた説明は、少なくとも僕にとっては「目から鱗が落ちる」というようなものだった。そこには、何かの構造があるという前提でものを考えるのではなく、むしろ思考を深めた結果として構造に注目するという視点が獲得できるということが語られていた。構造というものは、論理の展開の前提ではなく帰結として浮かび上がってくるものとして語られていた。それは妄想ではなく、確かな事実から導き出されたものとして実在を感じられた。 板倉聖宣さんは、弁証法というのは、何でもかんでも当てはめてしまえばたいていは詭弁になるということを行っていた。弁証法が詭弁にならないような対象というのは、そこに矛盾があるように感じられる事実が発見できるというのだ。そしてその事実が発見できる原因をたどっていくときに、弁証法という発想が有効性を発揮すると語っていた。弁証法は、それが有効に働く対象を持っている。それを的確に見つけることが、弁証法をうまく使えるかどうかという結果にかかわっている。それを教えてくれたのが三浦つとむさんだと言えるだろうか。 同じように、構造主義も、何でもかんでも構造があると考えて、空想的に構造をでっち上げれば三浦さんが批判したような構造主義が見えてくる。しかし、事実の現れの中に、人間が自由に思考していると言えないような現象が見えたとき、そこに何らかの隠れた構造があるのではないかという発想は、物事を深く認識するきっかけになるだろう。自明だと思われた思考が、実は自明ではなく、人間の自由を縛っていたというのは歴史を振り返ればたくさんある。このようなものに注目させたという点で構造主義は大きな貢献をしたのだと思う。 牧さんの場合は、アリストテレスの時代と同じように、観察できる現象である静止のイメージで「慣性の法則」を捉えたために、そのイメージから抜け出ることが出来ずに、「等速直線運動」の理解が言葉の上でのものにとどまっていた。静止と運動が全く違うものだということを転換させ、それがつながっているものだという説明が必要だった。 僕の場合には、矛盾は合理的思考においては許されないという前提が弁証法の理解を邪魔していた。その理解のためには、形式論理における矛盾と弁証法における矛盾はそれぞれ意味が違うのであり両立するものだという理解が必要だった。 また構造主義は、常に構造を前提としており、その構造が見つからないときも、妄想的なものであっても構造を前提にしなければ思考が進まないという先入観が僕にはあった。その先入観を消して、構造は結果として見つかるもので、結果として見つかった構造だけが、人間が自由だと錯覚していた思考への影響を正しく語ることが出来るのだという指摘は、それまでの思い込みを解消してくれるものだった。 これらを考え合わせると「うまい説明」というのは、自分が自明だと思っていた思い込みが、実は自明ではなく何らかの説明によってその合理性が理解できるものだった、というような説明になっている感じがする。思い込みが思い込みであることをすっきりと説明してくれるものが「うまい説明」というものが持つ構造のような気がする。 ゲーデルの不完全性定理において、「真である」あるいは「証明可能だ」ということに関して、どうも「うまい説明」が見つからないという感じがしたのは、このことに関してどうやら自分はあまり引っかかりを感じなかったからではないかという気がした。引っかかった気分がなかったので、自明性に対する注目というのがあまり感じられなかった。このことに引っかかる人は、どのような先入観(自明だと思っていて、それを反省することが難しい事柄)がその引っかかりを作っているのだろうか、ということを考えれば「うまい説明」が見つかるかもしれない。そして、「うまい説明」が見つかれば、自分がこれまでしてきた「ゲーデルの不完全性定理」に対する理解ももっと深まるのではないかと思う。 「真である」とか「証明可能である」ということは、言葉の上で説明することはいくらでも出来る。しかし、それを言葉の暗記による説明で終わらせるのではなく、そのような発想がなぜ必要なのかという、根源からそれを理解しなければ「うまい説明」が出来ないのではないかと思う。それはかつてベストセラーになった『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という700ページを超える大著で試みられていることのような気がする。「うまい説明」のためにはこのような大著が必要なのだ。それはこのくらい難しいことなのだろう。僕が出来ないと思ったのは、ある意味では当然で、インターネットで検索してみても「うまい説明」は見あたらなかった。これからも「うまい説明」が見つかるかどうかは可能性が低いだろうが、700ページの大著を読まなくても、そのエッセンスだけでも説明できないかということを考えてみたいものだ。そうすれば、僕の中の理解もより深まるのではないかと思えるからだ。
by ksyuumei
| 2008-10-03 09:26
| 雑文
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