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麻生新総裁誕生の評価について 3

毎日新聞の社説では、その表題に「理念も政策もなき勝利」と書かれているように、総裁選に対する評価はかなり明確に出ているものと思われる。冒頭にも次のように書かれている。


「内閣支持率低迷が続き、福田氏は自ら衆院を解散して総選挙に臨む自信がなかった。そこで総裁選をにぎやかに実施して国民の関心を自民党に引きつけ、その勢いで総選挙に突入する--。再三指摘してきたように、総裁選はこんな演出を意識したものだった。

 だが、福田氏や自民党が期待したように「わくわくする総裁選」だったろうか。そうは思えない。」


これは、もしも「わくわくする総裁選」だったら、そこには国民を引きつける魅力ある要素があるはずで、それこそが理念や政策に通じるものだという論理的な展開があるのだと思われる。理念や政策が明確に語られなければ、今まで利権を握っていた人物の不透明な私益は改革されずに残るだろう。そうであれば、その利権に関係ない人々はどうして「わくわくする」ことなど出来るだろう。




自民党がこのような思惑で福田首相の辞任を歓迎し、麻生氏の総裁選の圧倒的勝利を歓迎したのなら、その思惑を実現するには理念と政策の論議が必要だったはずだ。それは、私益の利権に目がくらんでいない政治家なら誰でもそう考えただろう。利権とは関係ない若手政治家の多くは政策論争で総裁選を盛り上げていこうとしていたように見える。だが、そのような道を大多数の自民党議員はとらなかった。自らの利権が削られるのをいやがったのだろうか。しかし、このことは結果的に自民党の思惑が外れたということになるのだろう。

このことは支持率の調査にも現れているようだ。今朝のニュースでは次のように報道されている。


「麻生内閣の発足を受け、読売新聞社が24日夜から25日にかけて実施した緊急全国世論調査(電話方式)によると、内閣支持率は49・5%、不支持率は33・4%だった。

 内閣発足時の支持率としては、福田内閣の57・5%を下回った。」


内閣支持率は発足時には高いのが普通だということから考えれば、この数字はやはり期待よりも低いものだろう。自民党の思惑は外れたと考えざるを得ないのではないかと思う。この支持率が、今後時間がたつにつれて上がるものなのか、それとも下がっていくのかは、理念と政策にかかっていると思われるのだが、それが語れない内閣なら下がっていくと予想せざるを得ないだろう。今後民主党の方に決定的なマイナスとなるスキャンダルが暴露されるということでもない限り自民党が総選挙を有利に戦えるという要素が見あたらない。しかし自民党にもスキャンダルの種はかなりあるだろう。すでに閣僚の何人かはスキャンダルのにおいがするようだ。自民・民主が暴露合戦をするようならこれもまたひどい状況になるのではないかと思う。

毎日の社説では、理念と政策がない総裁選になった理由をいくつか挙げている。一つは「多くの議員の判断基準は「だれが首相になれば自分が選挙で当選しやすいか」であり、麻生氏の政策に共鳴したのではないと思われる。麻生氏を選んだのは麻生氏が最も人気がありそうだからだろう」というふうに語られている。選挙で当選するということが第一で、考え方はどうでもいいということになれば、やはり理念はないと判断されるだろう。

また


「政策論争が深まらなかったのは当然かもしれない。特に麻生氏の発言は具体性を欠いた。「基礎年金は全額税方式に改め、財源は消費税を10%に引き上げる」が持論だったにもかかわらず、総裁選では「一つのアイデア」と後退し、22日の総裁就任後会見でも、消費税をどうするのか、筋道は明確にならなかった。

 外交もそうだ。東欧や中央アジア諸国との連携強化を目指す「自由と繁栄の弧」構想を従来打ち出していたのに、「中国やロシアとの対立を深める」との批判を意識してか、総裁選ではほとんど触れなかった。

 総裁選出が確実だから、余計な波風を立てぬよう持論は言わないというのでは本末転倒だ。今後、所信表明演説などでは、この国をどうしたいのか、具体的に語らなければならない。」


というふうに書かれている部分を読むと、麻生氏があえて政策論議を避けたという評価をしているように見える。政策論議を避けたのだから、政策がないという評価ももっともだと思う。この場合は、政策論議を避けたことのメリットを麻生氏がどう考えていたかを想像してみることが重要だろう。

政策論議を活発にすれば、当然のことながら利害で対立する人たちには都合が悪い流れになるだろう。麻生氏を支持している人たちが、選挙のための麻生人気という点で共通して支持しているのであれば、この対立を鮮明にして支持の基盤にひびを入れるのは、総裁選ということに関しては得策ではないだろう。総裁選に勝利するという短期的な利益の見通しでは、あえて政策論議をしないという選択は正しいように思われる。問題は、これが長期にわたっても正しいかということだ。

上の社説で語っているように、これは「本末転倒」な考え方と指摘されても仕方がないだろう。対立を出さずにそれを温存するということは、そこでの利権をそのまま温存するということに等しい。これが国民の目にはどう映るかということだ。

麻生内閣には景気対策を期待する声が最も高いという。だが、景気が良くなっても生活感覚は苦しいというのがこのところずっと続いていることではないかと思う。景気が良くなるということは、大企業とその利益に預かる金持ち層にとっては重要なことだが、一般庶民にとっては景気が良くなったからといって、それが直接自分の生活の余裕に反映することは少ない。何となく気分的に良くなったように思えるだけではないだろうか。

むしろ「年金問題」と「食品安全対策」、「高齢者医療」といった問題の方が一般庶民にとっては生活に直結する重要な問題だろう。だがこの問題は、利害が対立した人々が、その利害を鮮明にせずに、対立を隠蔽していればその解決は先送りにされる。今度の総裁選での、政策なき姿が、この問題の先送りにつながらないと期待できるだろうか。選挙対策用に、ここになって急に「高齢者医療」について見直すという発言が自民党から出てきたようだ。これなども、選挙対策ということが見え見えで、そのままでは信用できないと受け取るのが正しいだろう。

この理念と政策のない麻生新内閣について、この毎日の社説とは正反対の評価を語っているように見えるのに内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがあった。残念なことに現在、内田さんのブログが僕のパソコンでは見られない状態になっているので、その内容を正確に引用できないのだが、ちょっと前に見たことの記憶で考えると、内田さんは、きっぱりと明確に語る統治者よりも、いろいろなところに目配りをして配慮した結果、曖昧な言い方になる統治者の方を好むというようなものだったように覚えている。

これは、上の毎日が批判している麻生さんの曖昧さを、内田さんは逆に評価しているように見える。これは論理的にはどう受け取ればいいだろうか。毎日か内田さんのどちらかが間違えているのだろうか。この正反対の主張は両立しないようにも見える。つまり矛盾しているのではないかとも思えるので、どちらかが正しくないようにも感じてしまう。

しかし僕には、両者は形式論理的には矛盾していないように見える。この矛盾の現れのように見える部分は、両者の視点が違うことによって生じたもので、弁証法的な矛盾として捉えられると思う。

内田さんが語る視点はあくまでも一般論としての「統治者」に関するものであって、直接具体的な統治者になる麻生さんを語ったものではないと受け取れる。内田さんは一般論的な視点で見ていると解釈できる。それに対して毎日は、あくまでも具体的な麻生氏の総裁選に対する評価をしているのだと受け取れる。

一般論としての統治者に関していえば、その統治に正当性がある、あるいは正統性があると考えられるなら、その統治者は誰か特定の人間の利益を明確に打ち出してそこに偏るのではなく、正当性・正統性を守るためにこそ、多くの利益を総合して包み込む必要が出てくるだろう。そのために曖昧になるのはやむを得ないとされるのではないかと思う。

しかし、今の自民党には統治そのものに対する正当性・正統性というものが見つからない。利権を温存し、構造改革とは名ばかりで、年金問題をはじめとして腐敗構造からの破綻はますます目に見える形で現れている。そこには正当性がない。そして、小泉さんが獲得した郵政改革の選挙で得た圧倒的多数を背景にして、郵政改革とは全く関係のない問題に関してもその数で押し切っていく、正統性のない国会運営が続いている。

このような正当性も正統性もない統治が前提となっている、現在の自民党という具体的な存在に対しては、曖昧さを許せばその正当性も正統性もどちらもともに回復することはない。具体的な今の自民党に対しては毎日の判断が正しいのではないかと思う。麻生氏の総裁選出に関しては、内田さんが語る一般論は適用できないのではないかと思う。

内田さんの主張が、正しいと思えるような一般論を、この総裁選にも適用して麻生さんの曖昧さを肯定することが正しいと結論しているようなら、それにはちょっと疑問を感じてしまうのだが、残念なことに今のところ僕のパソコンでは内田さんの文章を見ることが出来ない。内田さんの文章が読めるようになってから改めて考えてみたいとは思うのだが、表題を見る限りでは、「私の好きな」という言葉が入っているので、正しいことの主張というよりは、一般論を元にした自分の感想(感情)を語っているだけなのかなとも思える。そうであれば、どのような感想を持とうとも、感想を持つことは自由なのだということにもなるかもしれない。それが自分が抱く感情とは違うものであっても、他人と自分は違うのだから仕方がないという結論に落ち着くかもしれない。いずれにしても、早くブログの表示が出来るようになって欲しいものだと思う。
by ksyuumei | 2008-09-26 09:57 | 政治


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