二十歳前後の学生の頃、自分の教養を高めたいと思い、そのためにはどのような学習をすればよいかを考えたことがあった。とにかく優れた人物が語ることを理解して、それを通じて教養を高めるということがいいのではないかという結論に達した。しかし、どの人物が優れているかというのは、その時点ではどうにも判断が難しかった。そこで世界の名著と言われているものを片っ端から読んでいこうと思ったものだ。
手始めに手に取ったものが文学全集だった。数学科だったにもかかわらずと言おうか、あるいは数学科だったからこそ教養と言えば文学かなと思ったのか、世界や日本の文学全集から手当たり次第に読み始めた。世界の方では、ホメロスやダンテから始めて、ゲーテやシェイクスピア、バルザック、ロマン・ロランなどを読みあさっていた。最も気に入ったのはドストエフスキーで『罪と罰』は何度も読み返したものだった。 日本の作家では夏目漱石が気に入った。それまでは数学や自然科学系の本しか読まなかったので、最初は小説を読むのが苦痛だったが、一冊なんとか読み通すことが出来ると、後はそれほど苦に感じず読むことが出来た。最初に読んだ小説は志賀直哉の『暗夜行路』だったが、これは読み終えるのに一ヶ月くらいかかっただろうか。『罪と罰』を読む頃にはかなり慣れてきたのでこの分厚い本も2,3日で読むことが出来た。 小説を読み込んだ結果が教養として定着したかどうかは分からないが、最初は何が優れているかが判断がつかなかったものが、ある種の文章が気に入るという判断が出来るようになった。これは優れているものに違いないという前提で読んでいる間は、それが気に入ろうがつまらなく感じようが、とにかく読み通すことに価値があると思って読んでいたが、世間の評価がどうであれ、この文章は気に入ったというものが見つかるようになった。 その最初のものは、遠藤周作さんが書いた一連の純文学作品と呼ばれるキリスト教の信仰を扱った小説だった。信仰を持ちたいと思いながらも、自らの心の弱さに挫折する主人公の姿というものに共感し、ある種の自己嫌悪に結びつきそうな感じを抱きながらも、そのような主人公を肯定してやりたいという思いも強く感じてその小説に心惹かれていった。 遠藤周作さんが日本文学史の中でどのように評価されているのかは分からないが、自分が心惹かれた人が優れた人であって欲しいという思いは強い。気に入ったということと優れているということは短絡的につなげることが出来ない特徴ではあるが、自分の教養が高まっているなら、それは重なる部分があるのではないかという期待もしていた。小説の分野ではこのときに他に心惹かれたのは前述のドストエフスキーに加えてカフカやソルジェニーツィン、フレデリック・フォーサイス、ダニエル・キースなどといった人たちだった。 このようなときに、三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本にも出会った。論理学は自分の専門であったこともあり、三浦さんが優れた人だという判断は、文学が専門外のことで判断に自信がなかったのとは違い、かなり自信を持ってそうだと思っていた。しかし、三浦さんは世間ではあまり知られていない無名な人のようだったので、どうしてこれほど優れた人があまり知られていないのだろうと思ったものだ。むしろ三浦さんが批判していたソシュールの方が世間では高く評価されていて優れていると言われている面が語られていた。 世間ではソシュールの方が多く語られているのに、僕は長い間ソシュールのどこが優れているのかということが分からなかった。それを分かりやすく説明してくれる人がいなかったのだ。内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本でようやくソシュールのどこが優れているかを納得することが出来た。そのときに、若い頃に優れた人の優れたところを学ぶために、評価がある程度定まった古典的な名著を学ぼうと思ったことを反省的に振り返ることが出来た。 自分の中にまだ判断力がない時代は、ある程度評価が定まった人から、何が優れているという判断の基準になるかというのを学んだ方がいいと思う。しかし、自分の中にある程度の判断力が育ったときは、実は真摯に一つのことを極めようとしている人ならば、必ずその人の語ることの中に貴重な優れた言葉を見つけることが出来るものだということに気づいた。問題は、その人が真摯に真理を求めているかということにかかっているのだ。そうであればその人からは何か学び取るものを見つけることが出来る。 今の自分の中にある思いは、世の中には実に優れた人物が多いということだ。見つけようと思えばどこにでも優れた人は見つかる。だがその優秀さを見つけるきっかけは、偶然そのときに自分が何に関心を持っていたかで決まってくる。関心がない分野では、その人がいくら優れた人であろうが自分にはなかなか見えてこない。だが、関心を持って調べている分野では、誰かそのように優れた人に出会えば、それこそ最初の数行の文章を読んだだけで、その人のすごさが伝わってくるのを感じる。宮台真司氏の文章を最初に読んだときも目眩がするほどの激しい衝撃を感じたものだった。 宮台氏は、そのような感覚をミメーシスという言葉で表現していたが、教養を高めるということはこのミメーシスの感覚を育てることになるのではないかとも感じる。僕は、ミメーシスを感じた人の書いたものを手に入る限り探し求めて読むというような読書をしていたが、そのような人を思いつくままに書き出してみると、次のようなリストができあがる。僕がその人のどこに最もミメーシスを感じたかも思い出す限りで記録しておこう。 三浦つとむ…弁証法の優れた解説者、特に初学者が難しい概念を理解することに優れた解説をしていた。 本多勝一…世の中に見られる様々な社会現象に対し、短絡的に感情的な反応を語るのではなく、その意味を社会の全体性や人間の原理(最も大切な面)から見るということを教えてくれた。 河合隼雄…カウンセリングという行為が、人間の心のナイーブな面に対する深い配慮からのものであることを説得的に語っていた。人間の心という分かりにくいものをきわめて論理的に説得力のある説明をしていたように感じた。 鎌田慧…社会を見る視点が、常に権力とは反対側から見ることが、表面に現れない真理を見つけることであることに共感していた。本多さんに比べれば、全体性という点ではやや不足しているかなとも思ったが、ある立場を徹底させることが社会において忘れられている真理を見逃さないために大事だということを語っていたように思う。 佐高信…読書から得られる教養というものが、自分独自の判断に結びつくものであり、そのまま他人の知識を受け売りしているだけのものではないということを、佐高さんの書評から学んだ。佐高さんを通じて知るようになった著者は多い。 千葉敦子…佐高さんを通じて知った。自分の生き方に厳しく、絶対に筋を曲げないその強さに敬服した。論理展開の見事さも感じた。この論理展開の見事さというのは、僕がミメーシスを感じる一つの要素のように思う。 佐藤忠男…映画に対する深い愛情が、映画評論家という職業に結びついた幸運な人で、その文章から感じられる映画への愛に共感した。また、専門的な教育を受けていないのだが、素朴な直感から結びついたその論理の展開は分かりやすく、論理の進め方のお手本として学ぶことが出来るのではないかと思う。自分の感性を、何とか論理的に正しいものとして説明したいという意欲がいつもその文章からは感じられる。 板倉聖宣…仮説実験授業の提唱者。科学史を専門としており、その深い教養から科学というものに対する洞察の見事さを学んだ。三浦さんの直系の弟子でもあり、その発想には、僕は三浦さん以上に大きな影響を受けた。板倉さんの発想こそが、僕の発想にも重なるものであって欲しいと思っているくらいだ。 宮台真司…その論理展開の見事さに衝撃を受けて以来、その書くもの・語ることに注目している。現代社会に対する解釈としての現状認識では最も信頼が置けると思っている。 内田樹…構造主義というものを初めて分かるように解説してくれた人として印象的な人だ。その語ることはかなり難しいにもかかわらず、何か分かりやすく書いているような印象がある。三浦つとむさんに近い感じだろうか。曖昧で不正確な表現だと批判する人もいるが、専門的ではない語り方で難しいことを語ろうとするとそのような限界があるのは仕方がないのではないかと思う。 仲正昌樹…いつも一歩離れた位置から物事を見るというその姿勢に共感する。僕もそのような傾向がある人間だからだ。客観的で、相対的な観点から物事を見ることで、先入観で論理的判断を誤るという傾向に注意を向けてくれている感じがするので、その指摘にいつも納得するものを感じる。 野矢茂樹…ウィトゲンシュタインを学ぶには最も分かりやすい解説者だと思った。論理学に関しても、その技術的な部分の解説も、原理的な思想の部分の解説もともに面白く分かりやすく語ってくれる。論理学の分野では最も優れた人だと感じる人だ。 戸田山和久…論理学を学び直そうと思ったこの夏に出会った。論理学の全体像をこれほど細かく解説する人を見たことがない。しかもそれが面白いというのはすごいことだと思った。これからさらに注目していきたい人だ。 このほかにもその時々に注目して読みあさった人が何人かいる。宮台氏を通じて読むようになった社会学者の小室直樹氏などは、もし宮台氏の師でなければその著書を手に取ることはなかっただろう。極右の思想の持ち主ということで敬遠していただろうと思うからだ。しかし、その論理の見事さはさすがに宮台氏の師だということはあると感じさせてくれる。 またこの小室氏と宮台氏が高く評価している人に山本七平氏がいる。以前は山本氏に関しては本多さんが批判していたこともあってほとんど僕自身は評価していなかったのだが、優れている面を探せばあるものだということを最近は感じている。実は僕は高校生くらいの時だったろうか、山本氏が書いたといわれていた『日本人とユダヤ人』という本をとても面白く読んだ記憶がある。このときはまだ本多勝一さんの批判を知らない頃で、後にその批判を知ったときに、子供の時に面白がったのはまだ判断力がなかったからだろうかと思ったりしたものだ。しかし、今では、山本氏の文章にもやはり優れたところがあって、そこを面白がったのだろうと思っている。 自分が優れていると判断している人は、何か基準があって判断しているというよりも、ミメーシスを感じた直感的なものになっている。だからその判断をある種の技術にすることは難しいだろう。むしろ、誰にでも見つけられる優れた面を、どのように発見していけばいいかということの方が技術としてまとめられそうな気がする。人間は誰でも優れた面を持っている。それはどのようにして発見できるだろうか。 自民党の総裁候補や民主党の小沢さんは、そのあらを探して叩くということが今はマスコミなどでは多いようだが、彼らの中のどこに優れた面があるかを発見するような発想で見てみたいものだと思う。そして、その優れた面の比較で積極的に、誰がリーダーにふさわしいかを判断する評価というものもしてみたいものだと思う。果たしてそのような発想が出来るだろうか。
by ksyuumei
| 2008-09-19 09:51
| 雑文
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