世界というものを命題の集まりであると考えたとき、最も基礎的な命題から他の命題が論理的に導かれるという構造になっていたら、つまり公理的体系になっていたら、その世界は全体像の把握が容易に出来るだろう。数学というのはユークリッドの幾何学を第一歩として、そのような公理的体系を作り出して発展してきた。
このような公理的体系は、その全体像の把握が容易ではあるが、そのことは逆にその世界が完結したものであることも示している。それは完結した世界であるから、もはやそれ以上の広がりを持つことはない。まだ定理として真理性が確定していない事柄であっても、それはまだ確定していないだけであって、それの発見によって世界が広がっていくことはない。それはすでに世界の中にあったものだがまだ知られていなかっただけというものになる。そうでなければ全体像の把握というものにならないだろう。 ゲーデルの定理によって、自然数の公理系にはそれが真理であっても証明することの出来ない命題が存在することが証明された。そのような命題は、未知なるものとしてその発見が自然数の世界を広げることにはならないだろうか。これは、ある特定の命題が、いろいろと調べている内に証明不可能であることが発見されたということなら、その知識が世界に新たな特徴を加えてその広がりをもたらすかもしれない。しかしそれは今ある公理系の世界を、全く違う新たな公理系として違う世界を考えることになり、世界の拡張として捉えるかどうかは微妙なものになるだろう。 世界の拡張というものを、今ある世界の中での可能性の広がりとして考えると、数学的な完結した論理の世界ではもはやそのような広がりは望めない。世界を広げるためには、一度その世界から外に出て世界の境界を眺める必要がある。世界の内側にいるだけでは、その世界のどこをどう広げていけばいいのかが分からない。完結した閉じた世界では、その境界は内側にいる人間には見えない。どのようにして外側の世界を想像できるかが世界を広げる鍵になるのではないかと思う。 数学の世界は、人間が人為的に設定した世界なので、それを作った人間には境界が見えている。だから、その世界内だけで生きているのではないということが言える。そうであればこそ、公理は単なる前提の一つであって、自明な真理ではないという自覚があって、それが公理的体系以外の他の世界の認識をもたらし、より広い数学的世界に飛び出せることになる。もし公理を自明な絶対的真理だと捉えてしまうと、その公理の世界から外に抜け出せなくなり、その公理的体系の世界だけが世界だと思ってしまうだろう。ユークリッドの幾何学は、長い間そのような存在で、そこでの公理は自明な絶対的真理として考えられ、それゆえに幾何学の世界はユークリッドの幾何学だけであるという状況が長く続いた。 この自明さに疑問が提出され、その自明さを破る他の公理系を見つけたとき、つまり違う公理による違う幾何学の世界が発見されたことによって、幾何学の世界はユークリッドの幾何学の境界を越えて世界を広げることが出来た。自明さに対する疑問というのは、世界を広げるきっかけを与える発想かもしれない。 ユークリッド幾何学はギリシアがその発祥の地だが、ここでは哲学も生まれたといわれている。哲学というのは、その定義を簡単にすることは難しいが、一つの特徴としては、それ以前は神話的な物語として説明されていた世界の多くの事柄について、合理的な理由を見つけ出し、論理的に説明しようとしたと言えるのではないだろうか。哲学誕生以前の世界では、世界を説明する命題は宗教が与えたが、哲学はそれに疑問を提出し、合理的という論理によってその説明をしようとしたと考えられる。 このような疑問がなぜギリシアで生まれたかという歴史的経緯は難しいと思うが、結果的にそうだったという観察は出来るのではないかと思う。万物は神が作ったという説明で安心していた人々の中に、それでは納得しない人間が出現し、最初の哲学者といわれるタレスのように、万物は水で出来ていると語る人間が出てきたのではないかと想像できる。タレスの偉大さは、万物の根源を説明する答えを求めたことにあるのではなく、自明だと思われていた事柄に異を唱え、合理的に考えて自分が納得するような答えを求めようとしたということにある。いつの時代においても、そのような発想をする人間は貴重な少数派になるものだと思う。 タレスはおそらく自らの経験を反省して、生物の存在には水が欠かせないものであり、自分が知りうる存在のどこにでも水が発見されるという事実を見出したのだろう。この経験した世界がタレスの世界のすべてであり、その経験を合理的に説明する原理として、万物の根源に水を見たのではないかと思う。神話的世界の宗教では、人間に知り得ないような事柄というのはすべて神のなしたことと解釈され、昔からそう言われているからという理由で人々はその説明を信じただろう。それは合理的思考の対象になるものではなく、まさに宗教だからこそはじめに信じるという行為が来なければならないものだったと思われる。 この自明性の影響というのはきわめて強いものではないかと思う。自明なものを疑うことがいかに難しいかは、共産主義思想の失敗に端的に見られるのではないかと思う。マルクスとエンゲルスが提唱した共産主義思想は徹底した合理的なものであったように思われる。しかし、それを受け取った多くの人は、それを合理的思考の対象として見るよりも、偉大な真理を信じるという態度で受け入れたように感じる。本来はその真理性を納得して信頼するべきであったのに、あまりにも偉大さの方が大きくて、自明な真理として人々の間に流通してしまった。 その結果として、明らかに変だと思われるような論理的帰結であっても、それが論理的帰結であることから真理性が否定できなくなった。それでも、三浦つとむさんなどは、神話的になっていた当時のスターリンやレーニン・毛沢東などを批判して、その言説を合理的に受け取るべきだという警鐘を鳴らしていた。 しかし、その三浦さんであっても、レーニンまでは疑うことが出来たが、マルクスやエンゲルスにまでさかのぼって疑うことは出来なかったという批判をされることがある。これは残念ながら批判としては正しいように思われる。それだけマルクスとエンゲルスが偉大であり、間違いが少なかった人だったと言えるのだと思うが、時代の限界から来る間違いはどこかにあったという発想がなければ、その真理性を信じる宗教に転化してしまうかもしれない。 自明性を持った命題が公理的に作用している世界において、その自明性を持った命題を疑うことは、世界の境界を自覚させ、その外に出て世界を眺めるきっかけを与える。そしてそのことによって世界そのものを広げることが出来る。世界広げるための発想というのはおそらくそのようなものだろうと思われる。だがこの発想は、このように簡単に抽象的にまとめられるほど簡単なものではないような感じがする。三浦さんのように優れた人でさえも、後の時代の人から見るとやはり限界となる部分を乗り越えられなかったように見える部分がある。時代が変わって振り返ってみればその自明性の壁が分かるものの、時代のまっただ中にいるとその壁は疑問を提出することさえ難しい。どのようにしてそれを克服できるだろうか。 かつて日本が戦争をしていた頃は極端な精神主義が自明な命題として君臨していた。そのおかしさは今の時代から過去を眺めれば容易に分かる。だがその当時にその世界のおかしさを理解した人は少なかった。国家こそが個人の人生にとって最重要なもので、国家のために働くことを目的とすれば、他のすべてを犠牲にしてもかまわないということが自明の命題として、その世界にはあった。この命題は今の時代にはない。それは敗戦という価値観の大転換をする事柄を経てそうなったのだが、三浦つとむさんなどは、戦争当時からその自明な命題は全く信じていなかった。これは当時の言葉で言えば、三浦さんは「非国民」ということになるのだが、そう言われたとしても揺るがないだけの自分に対する自身が三浦さんにはあったようだ。このような発想が世界を広げるためには必要だが、それはどのようにすれば身につくのか。 内田樹さんがあるときに書いていたことだが、マルクスの優秀さに対して、マルクスがなぜあれほど賢かったかという理由を、エンゲルスはマルクスが天才だったからということに求めていたというものがあった。これは確かに説明としては成り立つかもしれないが、その説明は全く無内容なものになる。天才だったということは、なぜそうなったのかという理由を説明するものではなく、結果として優秀だったということを語っているに過ぎない。だから、マルクスの優秀さを天才だったということで説明すれば、マルクスは「優秀だったから優秀だった」というトートロジー(同語反復)を語っていることになってしまう。 三浦さんの世界を広げる発想も、なぜそれが出来たかを説明するのに、三浦さんの優秀さを持ち出せば、それは他の人がまねの出来ることにはならなくなる。しかし、欲しいのは、そのような発送を可能にするための技術なのだ。三浦さんと同じくらいに優秀でなければ発想できないのであれば、大多数の凡人はその発想をあきらめなければならない。 世界を広げる発想そのものを自分一人で作り上げることはかなりの優秀さが必要かもしれないが、誰かが発想したものを理解し、それが確かに世界を広げるものであることを納得して支持することが出来れば、それは多くの人にとって利益となるだろう。誰が優秀であるかを判断する技術というのは、誰にでも身につけることが出来るものにならないだろうか。 今自民党総裁には5人の候補者が出ているが、彼らの内の誰が最も広い世界を見ることが出来ているだろうか。自分が利益を代表している狭い世界の判断しかできていないとすれば、そのような人間を日本全体のリーダーとして仰げば失敗をするだろう。誰が最も優秀であるかを判断する鍵はどこにあるか。彼らの見ている世界の全体像は果たして説明できるかどうか。 また民主党の小沢さんと、これら自民党の総裁候補とを比べると、どちらの方がより広く・深く世界を認識しているだろうか。民主党にとっては、目先の選挙での勝利というものと、政権を担ったときの長期の日本の統治のプランとの整合性はどうなっているだろうか。その世界が今の時点で考えられ得るあらゆる可能性を含んだものになっていれば、その言説の信頼性は高まるだろう。普通の人々である庶民に、そのような判断が出来るだろうか。公教育という大衆教育が配慮すべき最重要な面は、このような判断力を持った大衆を作り出すことではないかと思う。世界を把握する命題の認識という面から、論理をどのようにして学ぶかということとあわせて考えてみたいものだと思う。誰がより広い・深い・正しい世界を見ているのか。それが判断できるような論理的能力を身につける学習を考えたい。
by ksyuumei
| 2008-09-18 09:47
| 方法論
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