第388回のマル激では飯尾潤氏(政策研究大学院大学教授)をゲストに招いて、自民党政権の評価をしていた。その中で面白いと思ったのは、自民党政権には構造的な欠陥があるということだった。たとえば、自民党政権のもとでは赤字がふくらんでいくという現象が見られたのだが、それは与党というシステムの欠陥がもたらしたものであると飯尾さんは説明していた。
自民党は長期にわたって政権党だったことによって、内閣における大臣職というものが、その専門的な能力によって指名されているということになっていなかった。大臣職は、当選回数によって、その功績に報いるために与えられるものとなっていった。当然のことながら大臣になったからといって、その省庁を指導し国家全体の利益の正当性を第一の基準にして判断するなどという能力を持つ人間が大臣になるということは稀だった。結果的に、官僚をコントロールして省庁の仕事をまっとうに進める大臣ではなく、官僚にコントロールされて、その省庁の利益を代表する存在となっていった。 大臣がこのような存在になっていくことによって、実は各省庁がその力を恐れて意向を伺うような存在が、大臣ではなく「族議員」と呼ばれるようなある種の力を持った議員になっていった。この「族議員」というのは、省庁に不祥事があったときに責任をとる立場にはない。責任をとるのは大臣であり、「族議員」は、省庁に影響を与え、その決定に関与するにもかかわらず責任をとらなくてすむ。このような存在がその力を行使し、自らの望む方向に各省庁の動きをコントロールしようとすれば、国家全体の観点から考えるよりも個人のエゴからの視点で考えるようになるだろう。 この与党体制は、エゴが横行するようになれば、それを押さえるような権力が見あたらないので偏った利益の配分が起こることになる。そして結果的に赤字がふくらみ一部の利益のために全体が損害を受けるということになる。この説明は論理的な結びつきがあるように感じられ、自民党が政権党になり、与党というシステムを続けている限りでは財政赤字は解消できないという結論になりそうな気がする。 小泉さんは自民党をぶっ壊すといって登場したが、このようなシステムをこそ壊さなければ本当の意味での構造改革にならなかったのではないかと思う。現状を見ると、自民党の政治力は低下し、権力を持つ組織としての自民党は壊れたけれど、破滅への道を歩む元凶としてのシステムはそのまま残っているのではないかと思える。道路特定財源の問題は、明らかに一部の利益のために温存されたエゴのシステムのように見えるが、自民党政権ではこの改革が出来ていない。 民主党については、自民党に比べてその能力が必ずしも高くないという批判があるものの、エゴのシステムについても、自民党に比べて弱いのではないかとも思えるので、とりあえず破滅への必然性を持つこのシステムに終止符を打つためだけにも政権交代という道を国民は選んだ方がいいのではないかと、僕は飯尾さんの説明を聞いてそう感じた。小泉さんでさえ壊せなかったこの与党というシステムは、これをうまく運用する能力のない民主党を与党にすることによって壊すきっかけがつかめるのではないだろうか。このシステムを早く壊すことが出来なければ、もはや取り返しのつかない破滅状態にならなければシステムの変換が出来ないという厳しい結果が出てしまうのではないかと思う。 飯尾さんが指摘する自民党のシステムとしての欠陥のもう一つは、福田首相が辞任をしたくなった原因ともなったねじれ国会の処理についてのものだ。飯尾さんが語っていたのは、ねじれ国会を決して不正常なものとは考えていなかった。それは選挙の時期が違ったりするのであるから、そのときの状況の違いによって衆議院と参議院の多数派が違ってくるのは可能性として十分あり得ることであり、今まで自民党が両院の多数派を握っていたことがむしろ稀なことであると受け取った方がいいということだ。 衆議院で多数派を占めている自民党は、そもそもが郵政民営化を巡っての議論の時に当選した議員が多数派を占めているものだ。確かにあのときの議論では、小泉さんの郵政における改革を国民は支持したが、その支持はその論点に関する支持であって、その後の国会で議論された様々な政策に対しても支持しているとは言えない。だから、本来は総選挙をやって、自民党が決定した様々な政策が国民に支持されているかを問わなければならないはずだった。それがなされなかったために、参議院選挙では自民党に対立する民主党に支持が集まったと解釈しなければならないだろう。ねじれの現象は、正当な支持を集めていない衆議院が無理な決定をしてきた結果が現れているだけなのだ。 飯尾さんは、このねじれ国会の解決は、衆議院で正当な政策決定をして、それを総選挙で国民に問いかけることで、参議院が「何でも反対」という姿勢ではいられないようにすることだと説明していた。正しい政策をすることによって国民の支持を得ることが出来れば、それに対して参議院が反対するというのは簡単にはできなくなる。国民に支持されている政策に反対するということは、政治家として間違った行動であると国民に映ってしまうからだ。 総選挙で、自らの政策が正しいということを問いかけることなく、郵政問題での選挙で得た圧倒的多数という数を頼りに強行採決などの方法でエゴを通すことが続けば、参議院で多数派を占める民主党が自民党の政策に反対しても、その理由が正当に成り立つ。このエゴを通すという無理を押し通そうとするのも、責任をとるべき人間が責任をとるシステムになっていない「与党体制」というものが大きな影響を与えているという指摘はなるほどと思えるものだ。 今のねじれ体制は、民主党が衆議院でも多数を占めればねじれ自体は解消する。これは総選挙で自民党が負けるということだが、この負けは長い目で見れば大きな勝ちに転換できる負けになるとも飯尾さんは指摘する。今の自民党がだめであるということは、かなりの部分明らかになってしまったので、これ以上自民党に政権を任せておけないという空気はかなり広がっている。また自民党自体にこれを自力で何とかする能力は今のところありそうにない。 だが今の日本の政治状況は、民主党が政権を担ったとしてもうまく運営していくのはかなり難しい。民主党自体も、国家全体の利益を第一に優先して、長期的な観点から利害を図るという能力を持った政治家が少ないように見えるからだ。民主党もまた、支持母体のエゴを代表するような政治家がたくさんいるように見える。自民党と同じような欠陥を民主党もまた持っているように思われる。 民主党がこのような政党であれば、自民党としてはこの難しい状況の時に民主党に政権を渡して、民主党が明らかな失敗をしたときに復活できるように、自民党自体は欠陥を修正していくためにあえて政権を手放して下野した方がいいと飯尾さんは語っていた。将来の大きな勝ちのために、目先の小さな負けをあえて選ぶという賢さが必要だという指摘だ。しかし、今の自民党にはこのような発想は見られないようだ。 かつての自民党はこのような発想が出来たという例として、飯尾さんは吉田茂首相の時のことをあげていた。吉田首相の時は、自民党は当時の社会党に政権を渡して、社会党が政権運営がうまくいかないのを見て、やはり自民党でなければ政権担当が出来ないのだというイメージを強く与えたという。それがあまりに強かったので、その後自民党以外の政党は政権担当が出来なくなってしまった、そういう体制がずっと続いたと飯尾さんは指摘していた。 自民党の総裁選の論議を見ていても、そこに本質が語られていないという指摘は多い。議論しているように見えるだけの茶番だという評価がほとんどだ。この姿も、もはや自民党には今の状態を改善する能力がないのだということをさらけ出しているようだ。飯尾さんは、ごまかしという言葉を使っていたが、結局正しい日本の進路というのを示すことが出来ずに、目先の利益をごまかしてでも守りたいという、国家の政治という大きな問題を考える人間にはふさわしくない姿勢が政治家に蔓延しているのではないだろうか。 原産地偽装問題に続いて、不良品とも言える汚染米が食用で売られていたという一連の問題も、目先の利益を得るためにごまかしをするという発想から生まれたもののように見える。この目先の利益は、不正がばれなければぼろもうけともいうべきものが得られるが、不正が明るみに出れば、すべての利益がゼロになるどころか、賠償責任などを考えれば、マイナスの利益になるようなものが長期的なものとしては見えてくるだろう。 日本の各部署において、長期的な利益よりも目先の短期的な利益だけを見る指導者が増えているようだ。政治家の忍耐力のなさも、長期的な利益が見えないので、今の困難な状況が我慢できないのではないかとも感じる。このような時代において、指導者でない庶民はどのような期待を抱けばいいのだろうか。長期的な視点を持った優れた指導者の登場を待ち望むのが、とるべき方向だろうか。それは期待できる願望になるだろうか。 小泉さんというのは人気の高い指導者ではあったが、その能力の大部分は、小泉さんが語っていることに注目させ、何かすばらしいことを言っているように見せかけるというエンタテイナーとしての部分に集中していた。何をやったかという結果を見ての検証をしてみると、小泉さんがやったことで日本が長期的な観点で良くなったように見えるものは何もない。その方向に行く可能性があった改革もあったものの、肝心の部分ではエゴを守る勢力がうまくその利益を守ったように見える。 小泉さん以上に優れたように見える指導者というのは、今後期待することは難しいのではないかと感じる。その小泉さんが出来たのがあの程度のことであれば、現代日本というのは、もはや一人の指導者の正しい判断に期待するには、あまりにも複雑で難しい問題を抱えすぎているのではないかと思う。 優れた指導者に判断をゆだねることはもはや期待できそうにない。だが、庶民がすべてのことに対して正しい判断を持つということはもっと期待できそうにない。指導者ですらすべての判断において、大きな観点から正しい判断を下すのは難しい。そうすると期待できることは何もなさそうに見えてくる。しかし、個々の判断がたとえ間違っていても、それをフィードバックして新たな判断に組み入れるシステムの構築は出来るのではないだろうか。 もし判断が間違っていたときに、その判断がそのまますぐに反映するのではなく、一つのクッションが置かれ、その評価がフィードバックされるようなシステムが構築できないものかと思う。個人の判断はもはや絶対の信頼は出来ない。だから、それが間違いがあるかもしれないという前提で、間違いの影響が大きく出ないようなシステムを作らなければ、今の日本の政治状況が抱えている問題は解決できないのではないかと思う。 かつて、テープレコーダーの録音をするときはボタンを二つ押さなければ録音できなかった。テープレコーダーでは、録音をすると、前に録音された音声は消えてしまう。だから、大事な録音を間違えて消してしまうということを防ぐために、録音の手順をわざわざ面倒にしていた。それによって間違いの可能性を下げようとしていた。このようなシステムの配慮によって、間違いの可能性を下げることが出来ないだろうか。誰かそのような発想をしている人がいないだろうか。探してみたいものだ。
by ksyuumei
| 2008-09-17 10:03
| 政治
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