形式論理学では、命題の真理値を用いてそれで数の計算に似たような論理の計算を考える。論理として正しいかどうかを、真理値を割り当てて、その値によって評価しようとするものだ。その命題が正しいとき、すなわち真であると判断されると真理値として1を与える。それが正しくない、すなわち偽であると判断されると真理値としては0を与える。1や0を与えるのは、命題の論理計算が、数の1や0の足し算やかけ算に相当するので便利だからだ。
<または>や<かつ>で示される命題の真理値は、元になるAやBの命題の真理値が決まると次のように考えられる。 A B AまたはB AかつB 1 1 1 1 1 0 1 0 0 1 1 0 0 0 0 0 これは<または>と<かつ>の日常言語的な意味とだいたい合うような感じがして受け入れられる人が多いだろう。<または>ではA,Bともに正しくないときに、<または>とは言えないという判断は賛成できるのではないだろうか。どちらか一方が成り立っていなければ<または>という接続語を使うのは変だという言語感覚だ。 <かつ>の方は、両方とも成り立っていなければ<かつ>にならないという言語感覚があるだろう。形式論理学は、日常言語をそのまま論理語にしたものではないが、それが日常言語の感覚によく合うものであれば、その形式論理は現実にも応用できるものとして考えられ(日常言語で表現される現実世界のモデルとなる)、形式論理を具体的に思考の対象とするときも、そのような現実的なイメージがあると思考の展開に役立てることが出来る。 また上の<または>と<かつ>は、それぞれ数の加法と乗法によく対応する。 A B AまたはB AかつB 1 1 1+1=1 1×1=1 1 0 1+0=1 1×0=0 0 1 0+1=1 0×1=0 0 0 0+0=0 0×0=0 <または>の最初の「1+1=1」が、普通の数の計算とは違うが、数が1と0に制限されていることを考えると、他はすべて普通の数の計算とうまく合っているので、この真理値の与え方は合理的なものだと思える。これによって正しいか正しくないかを計算で確かめることが出来るので、この真理値の割り当ては形式論理にとっては有効性を持つ。 さて論理用語の<ならば>についてもこのような真理値を考えることが出来るのだが、これはかなり直感に反するところがある。次のような表でその真理値が割り当てられる。 A B A<ならば>B 1 1 1 1 0 0 0 1 1 0 0 1 <ならば>で作られる命題は仮言命題と呼ばれ、「A<ならば>B」は、もしAで語る命題が正しい(真)ならば、Bも必然的に正しくなるということを語っていると普通は理解される。だから、Aが真でBが真ならば「A<ならば>B」も真になるということはいいだろう。そして、Aが真でBが真でなければ、Bが必然的に真になるということが導かれていないので、これは「A<ならば>B」という仮言命題としては正しくない、つまり偽であると判断していいだろう。 上の表の2段目まではこのようにして直感とよく合うことが分かる。しかし、Aが偽の時にこの仮言命題「A<ならば>B」は、形式的に真だと判断されるということを上の表の3,4段目は語っている。Aが間違っているのに、仮言命題は正しくなるということは著しく直感に反する。 なぜなら、日常言語でこの仮言命題を使う場合は、Aが間違っている場合に使うということはまずあり得ないからだ。仮言命題を使うときは、前提の正しさを自明のものとして我々は使う。前提が間違っているのに仮言命題を使う人間は、まず論理的に正しく思考できないのだと思われてしまう。 また、上の真理表に従って仮言命題を作ると、前件であるAと後件のBが全く無関係の命題であっても、それを<ならば>で結んで命題とすることが出来て、その真理値を決定することが出来る。日常言語では登場する可能性が全くない命題でも、形式論理では、形式的に作ることが可能になる。戸田山和久さんの『論理学を作る』(名古屋大学出版会)という本から例を拾うと、次のようなものがあげられている。 ・1+1=3<ならば>火星には知的生物が存在する。 これは全く関係のない命題が<ならば>でつながれているが、この仮言命題は、「1+1=3」が明らかな間違いで偽なので、仮言命題全体としては真理値として1(つまり正しい)と判断されてしまう。また ・1+1=3<ならば>1+1=4。 は、前件と後件につながりはあるものの、どちらも明らかな間違いである。しかしこれも形式論理の世界では、形式的に仮言命題としては正しいと判断されてしまう。これは直感的には全くおかしなことだと感じないわけにはいかない。 このような直感的なおかしさの感覚に対して、戸田山さんは「要するに、真理値の組み合わせだけで「ならば」を近似しようというところに無理があるということだ」と語っている。つまり、この論理用語としての<ならば>は、日常言語としての「ならば」と全く重なるものではなく、必ず真理値を割り当てなければならないという論理的世界からの要請を受けている言葉であり、そこに違いがあるのだから日常言語の「ならば」と意味がずれるのは仕方がないのだと言っているのだ。 このことはとてもおもしろい考察のきっかけを与えてくれる。それは、<ならば>という論理語が、日常言語の「ならば」から抽象されてきたものであることは確かなのだが、それは日常言語の「ならば」をすべて観察して最大公約数的な概念を抽出して作り上げたものではないということだ。もしそうであれば、論理語の<ならば>も、日常言語の「ならば」の性質をどこかで必ず持っていて、うまく対応するはずだ。しかしそれが対応しないということは、論理語の<ならば>においては、現実の抽出ではなく捨象の方が先行して、実際に観察できる性質を拾い上げているのではなく、論理としての取り扱いやすさを先行させて、そのために余分な邪魔ものを切り捨てるという捨象をして<ならば>が抽象されていると考えた方がいいということだ。 論理的世界では、真理値を割り当ててその真理値の計算が出来るということが、体系の完結性にとって合理的だ。だから、日常言語では考えもしない「ならば」の例が、形式論理では入り込んできてしまっても、それによって真理値の計算がいつでも合理的に出来るのであれば、その方が便利だと考える。日常言語での有意味性というものを捨てても、なお論理的な有効性が残る方を選んだと言えるのではないかと思う。真理値を割り当てるというのは、さらに考えれば、命題に対して真か偽のどちらかが必ず割り当てられるという二値原理、あるいはその基礎になる排中律の成立などを形式論理が要請しているということが関係している。つまり、このように無理な解釈は、形式論理という世界が持つ構造としてどうしても満たさなければならない必然性を持っている。 このあたりの事情が、「マイナス×マイナス=プラス」になるという、負の数のかけ算の計算が数の集合が持つ構造から要請されていたというのとよく似ていると感じるところだ。仮言命題の真理値が持つ違和感は、かつて多くの人が「借金×借金=財産」という計算に感じた違和感に通じるものかもしれない。構造からの要請というのは、その全体像をとらえた後でなければ、その必然性というものがとらえられないからだ。 それでは初学者は、この違和感のところで躓いたままで終わるのだろうか。このときある意味では、この躓きを記憶としてとどめておきながらも、ちょっと無理をして通過する方向を選ぶ。「マイナス×マイナス=プラス」を計算規則として覚えてしまうという方法をとったり、実例をいくつか考えて、そうだなと納得した感じを作って通過しようとする。この実例は、一つや二つ確かめてみたからといって、それだけで負の数の全体を確かめたことにはならないのだが、気分的な納得をして通過するということが教育的には大事だという気がする。そのようなものとして戸田山さんの本に書かれていたものがあった。これを読むと、負の数のかけ算と形式論理の仮言命題の真理値との学習における難しさという共通点をさらに感じるものだ。ちょっと長いが引用しておこう。 「たとえば、父親が子供に「今度の算数のテストで100点を取ったら、ファミコンを買ってあげよう」と約束した場合を考えてみよう。このように金品で釣って勉強させてはいけないというのは育児のイロハであるが、他によい例が思いつかないので仕方がない。ともかく、この約束に関しては次の4つのケースが起こりうる。 (1)子供ががんばって100点を取り、父親がファミコンを買ってやったケース。 (2)子供が100点を取ったにもかかわらず、父親がファミコンを買わなかったケース。 (3)子供は100点を取れなかったが、(がんばって勉強した褒美に)父親がファミコンを買ってやったケース。 (4)子供は100点を取れず、父親はファミコンを買わなかったケース。 さて、父親が約束を破った、つまり嘘を言ったのは(2)のケースだけであり、それ以外は父親は約束を守ったと言える。これは「→」の真理表が教える結果と一致している。 厳密に言えば、この議論は「→」の真理表の正当化としてはインチキだ。まず第一に、命題の真偽と約束を守る・守らないということは、関係はありそうだが一応別物じゃないだろうか。また、約束を破ったと言えないということがすなわち約束を守ったということだ、とも直ちには言えないだろう。しかし、きちんとした正当化を行うまでは以上の説明で自分を納得させて、とりあえずここは先へ進んじゃおう。」 この説明は、戸田山さん自身も語るようにかなり「インチキくさい」。しかし、嘘ではなかったということを偽ではないというものと重ねて解釈すると、真理値の割り当ても納得できそうなケースがあると感じられる。そうすれば直感的な違和感は少しは薄れていき、この抽象に妥当性があるようにも感じられる。この感じを一度味わって納得することが学習における理解というものにとって非常に重要だ。 理解よりも記憶を重視する学習の考え方もあり、受験勉強などはそれで成功するケースが多い。しかし、学習が喜びとなるようにしたいと思えば、この納得するという過程は、喜びを得るためには重要なものだと思う。どのようにすれば違和感を感じていたものを、「腑に落ちた」と感じられるような納得が得られるようにするか。学習において最重要な問題ではないかと思う。僕は、論理の学習がそのような納得をもたらすと思っている。論理を、その飛躍が小さくなるようにたどる技術を持てば、たいていのことは理解・納得可能だ。だが、論理そのものの学習においても、このような違和感が生まれる箇所がある。 このときに、正確な理解は学習の終わりでなければ味わえないが、途中ではちょっとインチキくさくても、何となく納得できてしまう学習が有効な感じがした。もちろん、この納得は本当のインチキであっては困る。インチキくさいのだが、本質は外していない、もう少しで本物になるというものが欲しい。そのようなものが求められれば、教育においては大きな成果が得られるのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-08-14 13:16
| 論理
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