「連載第一九回:宗教システムとは何か(下)」で宮台氏は、「〈世界〉内の事象は基本的に偶発的ですが、大抵は事後的な前提挿入により馴致可能です」と語っている。これは、偶発性がある種の合理的解釈で片付けられるなら、それによって不安がもたらされることなく、それはやり過ごせるものになることを教える。「「病気に罹ったのは不摂生だったからだ」というとき、「自分だけ病気に罹る」という偶発性は「不摂生だった」という前提が持ち込まれることで、受容可能に加工されます」というわけだ。
すべての偶発性がこのように解釈で切り抜けられるなら、その個人には不安もパニックもないだろう。しかし、「偶然の出会い・不慮の死等は、そうした前提挿入を以てしては納得不能な、前提を欠いたものとして現れ得ます。「個別の出来事」のみならず、なぜ「その」法則、「その」道徳が存するか、という具合に「一般的枠組」も前提を欠いたものとして現れ得ます」と宮台氏が語るように、すべてをやり過ごすことは、複雑化した現代社会では難しい。この、不安とパニックを起こしそうな偶発性に対して、それを無害化し受け入れ可能にする機能として宗教が存在する。 「前提を欠いた偶発性は、期待外れの衝撃を吸収困難にし、意味あるものに意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定」にする。これを無害化するシステムがあれば、社会はその働きによって安定し秩序を保つことが出来るだろう。これが宗教というものの、社会システムに対する基本的な存在の理由になる。システムとしてその存在を捉えるなら、このような機能を持つ装置として考えることがもっともふさわしい。 この回の講座では、宮台氏は「前提を欠いた偶発性の現れ方は、社会システムのあり方に応じて変化します。また、受容可能なものへと馴致するメカニズムにも複数の選択肢があります。前提を欠いた偶発性の「現れ方」と「馴致メカニズム」の組み合わせが、宗教のバリエーションを構成します」と語り、宗教の実際の現れ方を、その機能面の分析から捉えようとしている。 「原初的宗教では、前提を欠いた偶発性が共同体にとっての個別の出来事として問題に」なるという。原初的宗教の段階では、日常的な経験を破る突発的な出来事が、合理的解釈で処理しきれない偶発性になるだろう。たとえば、「天災・疾病・飢饉・狂気など」を「日常の慣れ親しみ(自明性)を破る出来事」として宮台氏は挙げている。これは原初的宗教では「聖俗二元図式を用いた一連の共同行為(儀式)による聖なる時間・空間への隔離(聖化)」による「儀式化の段階」が無害化の機能の現われとなる。それは宗教的に聖なるものであるから、我々に知ることが出来ない偶発性があっても仕方がないものとして受け入れられる。 これは、よく考えると論理的には逆ではないかと思うが、気持を納得させるためにはむしろ逆の発想のほうがうまく行くだろう。つまり、偶発性があって、しかもその合理的な理由がつけられないからこそ、それを聖なるものとしてしまうことによって、合理的理由がないことをやり過ごせる。だが、これは理屈でそう受け止められるだけであって、実際に偶発性にパニックになっている人間は、このような理屈を考え出すことが出来ない。そのような人間は、むしろそれが「聖なるもの」であるということを前提なしに受け入れて、「聖なるものであるがゆえにそれは、非日常であっても仕方がないのだ」という受け止め方をした方が、それを受け入れやすいのではないかと思う。論理的には逆だと思うが、現象としては、それが「聖なるもの」であるという観念のほうが先行しているというふうに見えるのではないだろうか。 だが、最初人々に受け入れやすいと思われていたこの前提が、やがて前提そのものに考察が及ぶ再帰性を帯びてくると、この前提そのものの偶発性が今度は気になってくる。「他でもあり得るのに、なぜ「その」図式なのか」ということに今度は合理的な説明をしなければならない。そのために持ち出される図式は「神によって秘蹟化された戒律」という了解形式として提出される「戒律化の段階」といわれるものだ。これが我々が普通にイメージしているキリスト教などの宗教になるのだろう。 この段階の次に現れるのは、宮台氏に寄れば次のように説明されている。 「中世的宗教になると、階層分化により社会が複雑化し、処理枠組が、共同体より個人のものとして意識され始めます。社会内に異なる信仰を持つ者が増え、戒律を秘蹟化する唯一神も、個人の主観に対応するものだと理解され始めます。これが「信仰化の段階」です。」 みんなが同じように感じ・考えていた時代から、それぞれの個人に違いが生れ個性的になり、心というものがあると信じられるようになると、このように宗教にも個人的な意味が与えられるようになるのではないだろうか。宗教システムが共同体の機能であった時代は、社会システムとの分化はあまり進んでいないように見える。宗教システムが、このように個人のものとして機能する段階にまで至ったとき、それは高度に分化した近代の下位システムとして捉えられるのではないだろうか。 「全体社会が宗教システムと無関連に作動するようになること」を宮台氏は「脱呪術化」と呼んでいる。宗教システムが個人のシステムになっていけば、それは全体社会との関連を失っていくのではないかと思う。さて、このように分化した宗教の姿を現代日本での宗教のあり方と重ね合わせてみると、「個別的問題設定」と「縮約的問題設定」と捉えられる二つに分岐するという。「前者は「世俗的=利益祈願型」、後者は「非世俗的=意味追求型」」だと宮台氏は語る。 個別的問題というのは、特殊に個人的に関わってくるもので、「なぜ自分がそのような偶発性に会うのか」ということで問題化される。宮台氏が挙げる例は、「病気になった際「不摂生だった」という現実的関係を前提挿入できないと前提欠如が露呈します。この時「水子の祟り」等の超現実的関係を代替的に挿入するのが個別的問題設定です」と語られるものだ。これは、「現実/超現実の混同ゆえに「浮遊系」宗教」と呼んでいる。 「これに対して、縮約的問題設定とは、自己と〈世界〉との関係一般に予め言及しておくことで、個別の出来事による期待外れに備えて、事前の免疫化を行うものです」と説明されている。これが縮約的と呼ばれているのは、後の説明で出てくるが、世界を縮めたり、自己を縮めたりして、世界の解釈を工夫して偶発性を処理しようとしているからだろうと思う。この縮約的問題を処理する宗教は、まずは自己を縮め、世界に対してほとんど無力なものとして解釈してしまうものだ。宮台氏は次のように書いている。 「第一は「〈世界〉における包括」。〈世界〉の側を拡張することで自己と〈世界〉の関係を規定可能化するものです。〈世界〉は決められていて自己には極小の自由しかないとする把握です。教義学的には黙示録的で、覚悟を要求するので「覚悟系」宗教と呼べます。」 自己の縮約は世界にとっては拡張となる。逆に自己を拡大していくと、相対的に世界は縮まっていく。次の宗教は世界の縮約として解釈される。 「第二は「自己における包括」。これは自己の側を拡張して自己と〈世界〉の関係を規定可能化します。何かが辛いのは、辛い出来事があるよりも、辛いと感じる境地があるだけとする把握です。教義学的には仏教的で、境地の操縦を目指す「修養系」宗教になります。」 この発想では、自己がほとんど世界と重なるくらいに拡大されている。逆に言えば、世界は自己と重なるくらいに縮められている。世界は、自己のコントロールでどうにでも出来る存在になってしまうのが、「修養系」と呼ばれる宗教ではないだろうか。 「浮遊/覚悟/修養系」という3つの宗教の類型は、個性によってどれを選択するかが決まってくるようにも感じる。現世利益的なものを求め、現実に遭遇した偶発性をやり過ごせれば、気分は幸せになれる、ということを好むならば「浮遊系」の宗教を選びたくなるのではないだろうか。これを宮台氏は、「「幸せになりたい!」に応える「行為系宗教」」とも指摘していた。その意味は、このように考えられるのではないだろうか。 「覚悟系」の宗教では、最終的に、「世界はそうなっている」というあきらめの気持がなければならないような気がする。黙示録的な宗教では、世界の終わりが語られていて、それは避けられないものとして覚悟を求めている。これは、そのような覚悟が納得した後に生れるのか、それとも黙示録を信じるということから生れるのか。それを信じたことのない自分には実感としては分からない。 「修養系」の宗教の前提となっているのは、自分の世界という個別的なものこそが本当の意味での世界なのだという、独我論的な考えがあるのではないかと感じる。自分の世界こそが世界なら、それを自分がコントロールできてもいいはずだ。世界の存在はすべて自分の精神の反映だと思えば、精神を鍛えて修養することこそが偶発性の無害化ということになるのだろう。 この宗教の現れは、人間に対して「超越」と「内在」という二つの重要な概念も生んでいる。「超越」というのは現実の世界を「超えている」ことで、「内在」とは現実の世界の「中にある」ことを意味する。このうち、「超越」というのは論理的には矛盾を帰結する厄介な概念となる。宮台氏は、「なぜ世界があるのか」という世界の存在に対する問いを例に挙げているが、この問いの答えが世界の中に見つかると考えると、それは世界を外から眺めていることにならないから、この答えは世界の外になければならない。すなわち答えは「超越」的だ。しかし、世界とはありとあらゆるものを指す。少なくとも人間が知ることが出来るのは、世界において遭遇するものだけで、世界の外にあるものは知ることが出来ない。したがって、「超越」は想像をすることは出来るが、決して見ることの出来ないものになる。概念はあるのに、それが存在するかどうかは決して分からない。 このような「超越」の代表的なものは宗教における「神」になる。キリスト教では神の存在証明と言うものが問題にされたが、それは原理的に証明できないものだ。しかも、原理的にそれを否定することも出来ない。このような不条理な存在に対して、証明せずに、まずは信じるという態度を持つことが「信仰」というものになる。宗教を主体的に生きることが出来るかどうかは、この「信仰」がもてるかどうかにかかっている。宮台氏も、 「従って近代社会における分化した宗教システムは、「信仰」というメディアが、超越/内在という二項図式を前提としつつ超越へと向けた動機形成と期待形成をなすことを通じてコミュニケーションを触媒することによる、コミュニケーションの閉じだと見做せます。」 のように語っている。これがおそらく西欧的なキリスト教という宗教の現実の現れになるのだろう。しかし、「日本では、黙示録的意味論を有する「覚悟系」宗教としてのキリスト教以外に、「浮遊系」や「修養系」宗教が、大きな比重を占めています」と宮台氏は指摘している。このことは何を意味するか。宮台氏は「日本について見る限り、前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置としての宗教は、西欧キリスト教文化圏とは違って、「信仰」というコミュニケーションメディアによって閉じた下位システムを構成しているとは、到底言えません」と語っている。日本では、宗教においてもまだ分化が不十分だということだろうか。
by ksyuumei
| 2008-07-26 23:08
| 宮台真司
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