「自由」については、すでに「連載第7回 選択前提とは何か」で語られていて、それは「選択前提が与えられているが故に「滞りなく選択」できる状態だ」と定義されていた。具体的には
(1)選択領域(選択肢群)が与えられ、及び/或いは (2)選択チャンスが与えられ、及び/或いは (3)選択能力が与えられた状態を指す と説明されていた。基本的には、「自由」の概念は、この定義で与えられるイメージによって理解される。それを再度「連載第一六回:自由とは何か?」で論じるのはどうしてか。それは、「自由」に対して、そのようなものがありえないという主張に反論するためであるように見える。 人間の選択にはある種の制約があり、どうしても「自由」にならない限界が存在するのだから、「自由」というものが人間にはありえないのだという主張がいくつか語られる。この主張は、「自由」の概念の根源に関わるものだが、「自由」を、完全に制約から逃れているもの、つまり何ものにも縛られていないのだというイメージで捉えていれば、そのイメージにそもそも現実には「自由」がありえないということが含まれてしまう。すべての制約を取り外すということは、現実に存在しているという現実性を捨象してしまうことを意味する。それが現実に存在しているのなら、現実のある時間・ある場所を占めているということだけで、そこには制限が生じてしまうのだから、現実性を棄てない限り、すべての制約(しがらみ)から逃れることは出来なくなる。このような「自由」の概念は、原理的に現実性を持つことが出来ない。 すべての制限がなくなった「自由」は抽象的な観念の世界にしか存在しない。それを、宮台氏は、現実にも「自由」が見つけられるのだということをこの回の講義では論じている。あるいは、別の観点で宮台の主張を理解すれば、現実に存在するであろう「自由」の概念をここで説明しているということになるだろうか。完全な抽象性を持った「自由」ではなく、現実性を持った「自由」という抽象概念を説明していると理解することも出来る。 さて、「自由」を否定する主張を宮台氏は3つ紹介しているがその第一は、「自己決定は、問題ある既存秩序を補完することで、理想秩序が与える筈の選択前提(選択領域/選択チャンス/選択能力)から人を遠ざけるから」というものだ。これは自己決定における「自由」がありえないという主張になる。具体的には、「自己決定的な援助交際を批判するフェミニストの議論」の中にこの主張を見ている。 宮台氏は、援助交際と呼ばれる少女売春について、それが自己決定で行われているという解釈で、その決定に際して「自由」な自己決定の選択が行われていると見ていた。しかし、それに対して「その振舞いのせいで家父長制が温存される」という批判が提出されていた。買売春に関しては「「プロの女だけ売れ」という議論」によって、家父長制と結合していたと宮台氏は指摘する。確かに、買売春一般は、「その振舞いのせいで家父長制が温存される」という面を持っているように見える。だが援助交際と呼ばれる少女売春には、買売春一般とは違う特殊な性質が見られるとも指摘している。 少女売春は、「旧来の売春と違い、家父長制が想定する妻や娘のイメージを裏切ります」という。それは「プロの女」が売るものではなく、家父長制のもとではむしろ家父長の所有物として、他のものの侵害を許さない妻や娘を家父長の支配下から引き剥がすものとなる。家父長制が温存されるどころか、それを突き崩すものとなる。したがって、家父長制の温存のために、その反動としてそれを選択せざるを得ないという「不自由」から選択された売春ではなく、「自由」に自己決定で選ばれたのだと解釈することも出来るということだ。 「自由な自己決定があり得ないとされる第二の理由は、自由(自己決定)は秩序(共同性)を脅かし、自由の前提を壊すから」というものだ。ある種の選択が「自由」に見えるのは、その選択を邪魔しない秩序というものがあって、邪魔されないがゆえに選ぶことができるという見掛けがあるだけだという主張だ。本当は、いつでも邪魔が入る可能性があり、本当の「自由」が社会に実現してしまえば、その秩序そのものまで破壊する「自由」までもが登場する可能性がある。「自由」によって「自由」が破壊されるという矛盾を「自由」ははらんでいる。だから、このような(ある意味で完全な)「自由」は存在しないという主張のようにこれは見える。 この発想はホッブスに始まるというが、それは「「秩序のためには自由の断念が必要」とする観点であり「自由と秩序のゼロサム理論」と呼ばれる。この発想では、秩序が存在するなら、そこには「自由」はありえないという結論になる。まさに「ゼロサム」の関係に「自由」と「秩序」があるということになるだろうか。 これに対し、宮台氏は、「脳死を巡る「死の自己決定」の現場を見れば分かるように、死を共同的に生きる親族が、本人を思いやって告知しないことで、告知さえあれば自己決定で選べる筈の「共同的に生きられた死」から、本人が遠ざけられてしまうという逆説」という具体例を出して反論する。これは、「自由」と「秩序」が「ゼロサム」であると思っていたのに、状況によっては、自分の体についての正確な知識という「秩序」があるほうが、「共同体的な死」を自己決定で選択するという「自由」がもたらされるという逆接を語っているものと受け取れる。 これは、まさに「必然性の洞察」が真の「自由」をもたらすという具体例になっているだろう。自分の体が死を迎えつつあるという事実をまったく知らないほうが、自分の死について「自由」な選択ができるという「ゼロサム」関係はここにはない。秩序がないほうが「自由」だとはいえないのだ。 「自由と秩序のゼロサム理論は、近代の再帰性を踏まえない実に幼稚な議論です」とこの考え方を宮台氏は批判する。自明性が確立していて、他の選択肢を考えもしないという状況であれば、選択肢がないことを我々は残念に思うこともない。そのような意味で我々は、そのような状況では「不自由感」を持たない。だが、それは近代以前の社会までだと宮台氏は指摘する。今まで自明だと思ったことに常に選択肢が生じるというのが、近代の再帰性というものだ。「自由」と「秩序」を対立させて「自由」を考えるのは、単に「秩序」を外れた選択肢を考えたこともないという、選択肢がないがゆえに「不自由感」を感じないというだけの「自由」であり、それは低レベルの「自由」であって、近代以後の社会ではそれを越えた「自由」が存在する。 「自由な自己決定があり得ないとされる第三の理由は、自由に自己を決定できる自己など、存在論的にあり得ないから」というものを最後に考えてみよう。これは、まさに「完全な意味での自由」というものが現実にはありえないという主張をしているものと思われる。だから、これに反論するには、ここで考えている「自由」の概念は、そういう抽象的な完全性を持ったものではなく、現実に存在しうるものとして設定されているのだと反論すればいいのではないかと思う。 これは、完全なものではないというイメージから、不完全なものだと思ってはいけない。そのようなイメージでは、現実性を持たせるためのご都合主義的な定義だといわれても仕方なくなる。それは不完全な「自由」ではなく、むしろ「自由」というものの本来の意味を持ったものとして提出されていると理解しなければならない。 宮台氏は、「世界が因果的に決定されているのなら(カント自身が信じるニュートン的世界観)自由意思などあり得ません」と指摘する。因果律によって、世界のあり方がすべて決定されていて、ただ人間の今の段階ではそれが知られていないだけだと、現実の世界のあり方を受け止めると、法則に支配されて「自由」のない人間というイメージが生れてくる。果たしてこれは「自由」の本来の意味になるだろうか。 このような考え方に対して、宮台氏は「因果帰属と選択帰属との混同」という答え方をしている。売春少女の例で言えば、少女が売春をせざるを得ない社会的構造など、因果律的にたどれる何ものかがあったとしても、それが少女の選択を決定したとするのは、「因果帰属と選択帰属との混同」になるのだと思う。そこに複数の選択肢があって、「どの選択肢を選ぶことも出来た」という情況があるのなら、その選択は少女自身に帰属するはずだ。この可能性の問題としての選択肢が存在していればそこには「自由」があったのだと判断するのは、たとえ因果的にはそうなると結果が読めていても、人間はその予期に反して行為を選ぶことが出来るという意味で「自由」なのだと判断するのではないかと思う。 このように「論理(純粋理性)と倫理(実践理性)を分離した」のがカントであると宮台氏は指摘している。「人倫の世界では、意思が妨げられていない以上、別の行為を意思できた筈だと了解されます。その限りで、当事者に自由意思があった──殴らない選択も意思できた──と見做され、責任が帰属される訳です」という論理が、「自由」の本質を語った論理になるのではないかと思う。つまり、「自由」とは、意志によってどれを選ぶことも可能であるという選択肢が存在したとき、そこには「自由」があるといえるのだということだ。これは、「自由」の機能的な側面を語った定義になるが、それこそが「自由」の本質であると僕にも思える。ある特定のどれかを選ばざるを得ないという状況の下でも、そこに複数の選択肢が、可能性が0(ゼロ)でないという形で提出されていれば、そこには人間的な意味での「自由」が存在するのである。 この「自由」の概念は、「必然性の洞察」が「自由」のもっとも高い段階であることを改めて教えてくれる。なぜなら、「必然性を洞察」したものは、その選択肢が一つであることを自ら了解し納得しながらも、積極的にその選択肢を選ぶことが出来るので、まさに自由意志で最適な選択が出来ることになるからだ。「必然性の洞察」によって一つの選択肢しかそこにないことが理解できても、それをいやいやながら選ぶのではなく、それが最適の選択だと理解できれば、気持の上でも最高の「自由」を味わうことが出来るだろう。 宮台氏は、この回の講義を次の言葉で結んでいる。 「結論。第一に、システム理論的な行為概念を踏まえた上で、自由ないし自己決定が因果帰属でなく選択帰属上の概念であることを弁えるべきです。その上で第二に、自由の前提たる秩序の確保をも自由な選択の対象と化する近代の再帰性に、十分敏感であるべきです。」 「自由」が選択肢の存在という概念であることをわきまえて、今までは自明性として存在していた秩序の前提に対しても、複数の選択肢の可能性を与えることこそが「近代の再帰性」として語られていることではないだろうか。自明なものに選択肢が与えられて自明でなくなれば、予期が揺らいで不安になる。気持ちの上では「不自由感」が生れてくる。何を選んだらいいのかという選択能力の点で「自由」を感じられなくなるからだ。しかし、この「不自由感」は、人間の「自由」そのものが否定されたのではない。むしろ、新しい段階の「自由」へと進んだために、古い「自由」における必然性が分からなくなり「不自由感」が生れたのだ。この場合は新たな必然性を求めることが「自由」の回復になるだろう。我々は「自由」をそのように捉えなければならないのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-07-24 23:19
| 宮台真司
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