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学術用語としての「役割」の概念

宮台真司氏が「連載第一四回:役割とは何か?」で語る「役割」という概念を考えていきたいと思う。この概念は、果たしてどのような目的の下で提出されているのだろうか。

宮台氏は、「「役割」とは、ヒトに与えられるカテゴリー」だと語る。あらかじめ「役割」が分かっている他者は、その「役割」が与えるイメージによって何らかの「予期」を持つことが出来る。このような「役割」を持った人間ならば、こういう行動をとるはずだという「予期」だ。近代社会が、「予期」のコミュニケーション(選択接続の束)を基礎にしてそのシステムの秩序を保っているとすれば、その「予期」に影響を与える「役割」という概念は、「予期」がどのようになってそれが現実の行動にどう影響を与えるかを教え、システムの秩序の方向を把握することに役立つものとなるだろう。

「役割」の説明の中に、「遂行性」という概念も紹介されている。これは「社会的事実としての同一性」として定義されている。これは「行為の意味的同一性」にも相当するという。ここで重要になるのは「社会的」ということなのではないかと僕は感じている。行為の「意味」とは、その選択接続の束で与えられ、すべての組み合わせの選択が選ばれるのではなく、特定の選択肢だけが接続されるというつながり方にその「意味」を見ている。その選択接続の束は、個人がそのように認識しているだけでなく、社会全体でみんながそう思っているという受け取り方が必要なのではないかと思う。




これは「制度」という概念の説明のときにも出てきた発想だが、「社会」という言葉には、個人が勝手にそう思っているのではなく、誰もがそういうふうに思うのだということが、少なくとも個人の頭の中にそういう思い込みのようなものがあることが「社会」と個人のつながりをもたらすように思う。このような思い込みが「誰にも」あるときそれを「制度」と呼んでいるのだろうと思う。この場合の「誰にも」という判断は、厳密に行われるのではなく、たとえば統計調査のようなものである程度の割合が示されれば、「誰にも」という判断がされるのだろうと思う。

「役割」という言葉も、社会学の中で登場するということは、これも個人が勝手にその「役割」があると思っているのではなく、社会全体でみんながそう思っているはずだということが基礎にあるものが重要なのだろうと思う。宮台氏はそういうものを「制度役割」とも呼んでいる。この「制度役割」が、本当にみんながそう思っているという「制度」の中での役割であれば、これが正当にその機能を働かせている時、社会の秩序が維持されるという帰結は常識的で納得のいくものになる。学問というのは、常識的な判断をより厳密に行うものという面がここで見られるのではないかと思う。

しかし、この「役割」はしばしば裏切られる。これは「役割」というものが「ヒトに与えられるカテゴリー」だということに関係しているのではないだろうか。人は、意志の働きによって機械的な反応だけではなく、あえて規則に反する行動を取ることが出来る。「意志の自由」というやつだ。この規則に反することがらが社会の秩序そのものを破壊するか、秩序が維持される例外としてやり過ごせるかは「役割」に対する信頼が大きく関わってくるのではないだろうか。

この発想を、いま話題になっているいくつかの問題に適用して解釈してみると、現実解釈として新たな視点が見えてくるような気がする。僕も教員をしているのであまり他人事とは言えないのだが、大分県での教員採用試験での不祥事は、不正をした人間たちの「制度役割」への期待に反する行為だったといえるだろう。試験の結果を改竄して、あらかじめ予定していた人間を合格させるというのは、試験を正当に行う「役割」を担っていた人々が、その「役割」を果たしていなかったということを意味する。

このとき、道徳的・感情的な非難に流れるのではなく、その「役割」の違反がシステムとしてはどのようなメカニズムで起こっているのかということを理解するのに、この「役割」の発想が役に立つのではないかと思う。「役割」という観点から考えると、彼らは、社会的な「制度役割」は果たさなかったけれど、個人的に頼まれたという、依頼に対する行為としてはその「役割」を果たしていると考えられる。贈賄した人間の期待に応える「役割」を果たしたといえるだろう。

この「役割」は、社会的にみんながそう思っている「役割」ではないので、あえて呼ぶなら宮台氏が紹介する「個人役割」というような呼び方になるだろうか。個人の利益になることが密約されて、ある種の不正が行われる結果となっている。社会全体の「役割」を考えれば、それが不正であることは明らかであるから、「制度役割」の自覚があれば、彼らもそのようなことは行わないというブレーキが利いたはずだ。それがなぜブレーキが利かなくなってしまったのか。

これは「個人役割」と「制度役割」の複雑な絡み合いがそのような結果を招くメカニズムを作っているのではないかと思う。確かに「不正」という面でその現象を眺めれば、個人的な利益に関わる部分は「個人役割」と呼ぶにふさわしい感じがするが、あの不正が「大分県だけではない」といわれることの意味を考えてみると、個人の不正行為に見えたものが、実は教育界の隠れた常識を物語る、社会の「制度役割」と違う、もう一つの狭い社会(「教育界」という狭い社会)の「制度役割」と矛盾を起こしていたのではないかとも考えられる。

有力者を通じて口利きをしたり、試験の結果が公式に発表される前にそれを知ったりするということが、「教育界」では公然と行われていて、誰もそれが不正だとは思っていなかったようだ。したがって、それを請け負う「役割」を持った人間が「教育界」ではあちこちにいたようだ。そのような人間の「役割」は、社会全体の「制度役割」との関係で見れば「個人役割」と判断したくなるが、狭い社会である「教育界」で考えれば、そこでの「制度役割」になってしまいそうな気もする。つまり、個人の良心でそれを防げるようなレベルの問題ではなくなる恐れがある。不正の温床がすでにシステムの中に秩序として盛り込まれてしまっているようだ。社会全体の秩序を壊す不正という行為が、実はその部分のシステムには、不正こそが秩序になるようなシステムとして組み込まれてしまっているような感じがする。

このシステムの問題はかなり深刻な気がする。不正をすべて排除するためには、「教育界」のシステムをすっかり変えてしまうような、ある意味ではいまのシステムの破壊が必要だろうが、破壊が行き過ぎてしまえば、社会全体の利益となっている部分まで破壊されてしまう恐れがある。これをどの程度で良しと判断するかは難しい問題だ。明らかに不正で合格したという教員の資格を取り消すのは、不正を正す意味で正しいが、グレーゾーンにあるような教員に対して、それをどの程度で許容するかという判断はかなり難しいだろう。もっと大きな社会というシステムを破壊しないようにシステムの手当てをすることが難しい。

すでに大分の教育界では、どの先生が不正で合格したのかということが、人々の疑心暗鬼として、教育界の信頼がすっかり落ちてしまったようだ。この信頼をもう一度取り戻すための「制度」の復興はかなり難しいだろう。「個人役割」と「制度役割」との弁証法的同一性とも呼べるようなこの矛盾の処理はたいへん難しいだろう。

宮台氏は、「役割」についてこの他に「行為役割」と「体験役割」というものも紹介している。これは、「行為」というものがその「行為」を選択したものに責任が帰するという意味で、選択接続の束がどのシステムに属するかで、「行為」を選んだシステムと、選ばざるを得なかったシステムに分けて考えられている。「行為」を主体的に選んだと思われる人間が担う役割が「行為役割」であり、「行為」を選ばざるを得なかった、選択肢は他になかったという役割を担うものが「体験役割」と判断される。

これは責任を追及するときに、「行為役割」を持った個人が見つかれば、それは個人の責任を追及するということになるだろう。果たして大分県の不祥事はどの個人が「行為役割」を担っているのかを見るのは重要だろう。組織が「行為役割」を担い、個人は組織の中でそうせざるを得なかった面があったのなら、個人の責任は少しは免罪されるだろう。個人が「体験役割」を担う時は、責任の大半は「環境」というものにあることになる。「環境」が「行為役割」を担うことになる。

「役割」の概念は、その「役割」を果たしていないような出来事が社会に起きたとき、それをどう理解したらいいのかというヒントを与えてくれるような気がする。秩序の乱れに感情的に反応するのではなく、その秩序の乱れが根本的に社会を揺るがすものなのか、単に「制度役割」を理解していない個人の責任を追求すれば「制度」そのものは維持されて秩序が回復するものなのか。どちらにしても冷静に対処できる発想を与えてくれるだろう。

この「役割」の概念は、人間の歴史としては、社会が小さな時代は個人としてよく知っている人間の間の信頼を基礎にした「個人役割」が、社会の拡大とともに「制度役割」にとって変わってきたと見ることが出来るだろう。このあたりのことで興味深いことを宮台氏は次のように書いている。


「制度役割の出発点は原初的社会における血縁的続柄にあると考えられます。レヴィストロースが明らかにしたように原初的社会の婚姻規則は血縁的続柄によって詳細に指定されています。血縁的続柄は一つの形式で、複数の個人役割が入れ替え可能になります。」


レヴィ・ストロースが主張した親族の基本構造なるものが、僕にはどうもピントこないというか「腑に落ちる」という経験が出来なかった。そのような構造が今の社会には見られないので、実感としてその構造に支配されているという感じがしなかったこともあるが、婚姻の相手が「制度」として決められていて、それが社会の秩序を保っているというイメージが今ひとつつかめなかった。

しかし、その婚姻の関係というものが、「制度役割」として個人に与えられたものだと受け止めると、その「役割」に違反して物事を考えるのは、主体性を持った個人というものが生れてこなかった時代は、ほとんど不可能だったのではないかという気もしてくる。つまり、婚姻の規則は、レヴィ・ストロースが考察した対象の人々にとっては、まさに「制度」として確立していたのだろうと思えると、これがちょっと腑に落ちてくる感じがする。

宮台氏は結びのところで次のように記述している。


「血縁原理の支配ゆえに個人役割と制度役割とが未分化な原初的社会では、人格的信頼とシステム信頼も未分化のまま、潜在的可能性は使い尽くされていません。血縁原理が極限まで縮退する近代社会になって、初めて潜在的可能性が開花します。
近代社会では見知らぬ他人との相互行為の頻度が飛躍的に高まりますが、制度役割こそが、見知らぬ他人との相互行為に依存した複雑なシステム構築を可能にします。そのことが、匿名的相互行為の増大を疎外として扱う大衆社会論や管理社会論を生み出しました。
しかし実際は匿名圏と親密圏の創出が並行します。両者は血縁原理が十分縮退する19世紀以降初めて潜在性を開花させます。見知らぬ者を制度役割ゆえに信頼可能な社会で初めて、コミュニケーションの履歴のみで個人役割を帯びた者を信頼できるようになるのです。」


「役割」という概念を使うと、このような帰結が論理的に導かれてくるような気がする。このあたりの論理構造については、もっと詳しく考えてみたいと思う。
by ksyuumei | 2008-07-22 10:22 | 宮台真司


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