宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」で提出する「行為」については、すでに一回説明されたものである。その時は、外に現れる客観的観察の対象としての「行動」に対して、意味的な要素をもつものとして「行為」が定義された。つまり、「行動」としては同じだと見なされても、その意味が違う場合があり、「行為」としては違うという判断がなされるときがあるというわけだ。
「行為」の同一性の判断には意味の判断が伴うので、「行動」の同一性の判断よりも難しくなる。「行動」というのは、外に現れた形で同一性が判断できるので、客観的な測定可能なデータで同一性の判断ができるだろう。時間や位置情報を測定してデータとし、それが同じであれば「行動」としては同じだと判断することが出来る。ある意味では、そこにこめられた「意味」を捨象して、意味に関係のないデータで判断するのが「行動」だともいえる。「行為」と「行動」は、それぞれの概念が互いに否定あるいは補完の関係にあって概念が確定される。ソシュールの指摘にかなうような性質を持っている。 この「行為」の概念は抽象的ではあるがイメージはしやすい。意味が理解できれば、「行動」は同じだが「行為」としては違うということも想像できる。宮台氏は、「馬鹿だな、お前は」というような言葉を言うことが、その意味の違いによって「愛情表現という行為」になったり「軽蔑の行為」になったりすることを指摘していた。これが「行動」としては同じだが、「行為」としては違うというイメージだろうか。もちろん、意味が同じだと見なされたときに「行為」も同じだという判断がされる。 この「行為」というのは、選択接続の連鎖を考えることで、社会におけるシステム(つまり「行為」という要素間に成立するループの存在)を見るための道具になる。社会をシステムとして捉えて、そのシステムがどういう性質を持っていて、どのような方向に向かって運動していくかという思考の展開において重要な対象となる。その概念をうまく運用することで、社会をシステムと考えた場合の論理が展開される。 論理の展開の道具として概念を考えた場合、それを固定的に捉えた実体的な見方よりも、変化を捉える機能的な把握の仕方のほうが役立つように思える。意味という概念も、それがどのような機能を持っているかで理解して、「選びなおし」「否定性」「示差性」「二重の選択性」などという側面から同一性を判断したほうがやりやすいという便利さがあった。「行為」についても、実体的な捉え方の概念はイメージしやすいが、論理の展開のための運用に便利な形で捉えるには機能的な側面に注目したほうがいいのではないかと思う。 そのような機能的な側面からの捉え方は、次のような宮台氏の説明から読み取れるのではないだろうか。 「意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、選び直しを可能にする機能でした。これを踏まえると、行為の意味とは、行為の潜在的な選択接続の可能性の束によって与えられます。選択接続をコミュニケーションと呼びます。」 「行為」の持つ意味を、「潜在的な選択接続の可能性の束」によって考えるということが「行為」の機能を把握した見方になるのではないだろうか。「行為」が「行為」として捉えられたとき、その物理的なデータを表現するだけの「行動」ではなく、意味を含んだ対象として捉えたとき、その意味は次の行為の選択につながる「選択接続の可能性」という機能を持つという捉え方がここで語られているように思う。「行為」は個々の「行為」が独立してその意味を問われるのではなく、次の「行為」につながる意味をその機能として持っている。このつながりが、システムのループに関係しており、システムの考察を進める論理の展開という、概念の運用に役立つのではないだろうか。 このあたりを宮台氏の説明で読むと、次のようになるだろうか。 「例えば打撃行為は、投球行為を先行させうる限りにおいて、かつまた走塁行為を後続させうる限りにおいて打撃なのです。だから社会システムが行為からなるとは、潜在的に可能な選択接続(コミュニケーション)の総体の、一部が定常的に実現するということです。 そして、その一部の実現の仕方が確率論的な非蓋然性を示す度合に応じて社会秩序があると称し、かつまた社会秩序が一定の条件を満たす場合を社会統合があると称します。」 「行為」の選択接続の可能性の機能を概念としてまとめた言葉は「コミュニケーション」として語られる。これがシステムを考えるための道具となる概念だ。この概念をよりはっきりさせるために、宮台氏は「体験」という概念も提出する。これは「行為」とは違うもので、「行為」の概念を補完するものになっている。この概念を把握することによって、「行為」という概念がよりはっきりしてくる。「行為」という対象だけをただ眺めているのではなく、このような言葉で他の概念を指し示すことによって、「行為」によって切り取られる世界の一部がよりはっきりしてくるのだと思う。ソシュールが指摘することをこの考察の経験から確認できる。 「行為」には出来事性と持続性が観察できると宮台氏は指摘する。出来事性の部分は「行動」と同じものと考えられるのではないだろうか。それはそのときのデータとしては記録されるが、「行動」としての現実が終わってしまえば出来事性は消える。これは持続しないという点で持続性と違う概念として捉えられる。「行為」の意味に関する部分は、それが持続するという持続性に関わってくる。意味は「選びなおし」によって修正されなければ、一度選ばれたものが持続する。その行動が終わったときに消えることがない。 このような考察を下にして、「行為」と違う概念である「体験」を、宮台氏は次のように定義する。 「「出来事」性を「持続」性へと回収する際に「帰属処理」が行われます。システムに生じた「出来事」がシステムの選択性へと帰属処理される場合がシステムの「行為」であり、そうでなく、システムの環境の選択性へと帰属処理される場合がシステムの「体験」です。」 これも機能的な捉え方の定義になっている。これは機能として捉えているので、実体的に捉える辞書的な定義とはまったく違うもののように見える。この機能的な定義は、概念の運用において便利だと思われるが、実体的な辞書的な定義とどう関連しているかが見えないと、この定義そのものがイメージしにくくなるのでそのあたりのことを考えてみよう。 この定義による「行為」と「体験」が具体的にはどのような現れ方をするかというと、宮台氏は次のような例を語っている。 「法実務の場面を考えれば分かります。男Aの強盗行為と見えたものが、裁判過程を通じて、ボスBの脅迫行為によって「強盗させられる」という男Aの体験だったと分かり、罪を免じられることはよくある話。そこにあるのは、判事Cによる認定(帰属)行為です。 さらに判事Cの認定行為に見えたものが、後になって別の男Dの脅迫行為によって「認定させられる」という体験だったと分かることもあり得ます。「分かる」と言いましたが、分かるという私の体験が、観察者の観点から行為として帰属処理されることもあり得ます。 つまり何かが行為であるか否かはいつも議論の余地があると同時に、何かが行為であると言うときには必然的に「帰属処理されるシステム/帰属処理するシステム」のペアが前提とされています。その際、帰属処理されることは体験で、帰属処理することは行為です。」 出来事の持続性・すなわちその意味がコミュニケーション(選択接続)としてどこに帰属するかが「行為」の判断に機能的に関わってくる。その選択が、コミュニケーションとしてシステムのものだと判断されるとシステムに帰属されると判断される。そうなれば、その選択をしたことの責任は当然システムにあると判断されるだろう。だからこそそれはシステムの「行為」である、つまりシステムに責任があると帰属されると考えているのではないだろうか。 その帰属先がそのシステムにはなっていない時は、その選択はそのシステムがしたのではないと判断され、システムには責任がない・すなわち主体的な意味での「行為」になったのではなく、受動的にそれを経験したという「体験」と判断されるのではないだろうか。 強盗という行為が、実行犯個人の選択で行われたのであれば、その選択が帰属するその個人(人間をシステムと捉えれば一つのシステムになる)の責任であり、個人の「行為」であると判断される。しかし、その個人を含む集団のボスの命令で行った行為であれば、その選択の帰属先は、その集団のシステムであり、ボスの権限が大きければボス個人の選択として帰属することになるだろう。その場合は、実行犯の行為は、選択の余地のないものとして主体性のない「体験」として分類されるというわけだ。「行為」と「体験」を、その選択の帰属先を決める機能を持つものと把握することによって、コミュニケーションの連鎖を捉えることが出来る。論理の展開に役立つ概念となっているのではないかと思う。 この「行為」と「体験」の概念は、社会における何らかの行為における責任の問題を考える上で役に立つ概念ともなるだろう。それが逸脱行為という、社会の秩序を乱すような行為であれば、その責任を追及して正すことは社会の秩序維持にも貢献するだろう。正しい判断が秩序のためのコミュニケーションのループを作るなら、社会学の発想が社会に貢献することにもなるだろう。 最後に宮台氏は文脈の問題を提出している。これは、行動として同じものに見えても、その文脈によって意味が違ってくる、違う「行為」となるものの問題だ。これは、それが逸脱行為にあたるものなのかという意味の了解において重要になってくる。逸脱行為なら、その責任が誰のものであるかという「行為」の帰属先が問題になる。しかし、それが逸脱行為ではなく、文脈から理解すれば当然のことであったり、止むを得ないアクシデントだったりすると了解できる場合もある。この場合は、「行為」の帰属先がどこであろうと、その責任を問うことや非難することは間違いになる。文脈の問題は複雑な現代社会で生きる我々には深刻で重要な問題になると思う。この後説明される「役割」という概念と関連させてよく考えてみたい問題だ。
by ksyuumei
| 2008-07-19 13:27
| 宮台真司
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