宮台真司氏が「連載第十二回:社会統合とは何か?」で解説するのは「社会統合」についてだ。これは、「社会」の「統合」について説明しているものと考えられる。この二つのうち「統合」のほうは「二つ以上のものを合わせて一つにすること」と辞書的には説明される。この言葉に特に専門的に特別な意味は含まれていないように思われる。
しかし「社会」という言葉には、その視点の違いによってさまざまな異なる見え方があるように思う。その見え方の違いによって「社会統合」の概念が違ってくるだろう。「社会」というものをどのようなものとして見るかで、その「統合」すなわち「何によって構成されているか」という、何が合わさって一つの「社会」という存在が見えているのかというイメージが違ってくるだろう。 仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが、社会科学について語るとき、社会というものの難しさは、個人の感覚がそのまま拡大して社会の法則性が予測されることがないということだと指摘している。社会は個人の延長として見通すことが出来ない。目の前に見ている事実から、ある種の判断をしても、それは特殊な側面を見ているだけで、社会全体を見ていることにならないことが多いということだ。個人に当てはまることが必ずしも社会には当てはまらない。社会を見るには、全体を把握するための道具が必要で、板倉さんはそれを「統計」というものに見ていた。 板倉さんが論じた社会の法則に「道徳」と「法律」の問題がある。「道徳」というのは、個人にとってそれを守ることがよいこととされる規律のことだ。それは時に破られることがあるが、それを守るという意志は、あくまでも個人の倫理観という主体性に委ねられている。それを破ったときに、社会的な非難の目を浴びるかもしれないが、実質的な懲罰を受けることはないのが「道徳」だ。それに対し、「法律」を犯した時は、強大な権力によってその罪に対応した罰を受ける。ある種の強制的な力によって守らせるというのが「法律」にはある。法律は、社会全体の意志に関わっているものとして捉えられる。 道徳的に正しいものを法律にした場合、社会はどのようになるかを考察したものが板倉さんの『禁酒法と民主主義』『生類憐れみの令』という授業書だ。どちらも道徳的には正しい主張なので反対することが難しい内容を持っていた。しかしそれが法律化されることによって社会には大きな混乱がもたらされた。「禁酒法」のほうは民主主義的な手続きによって、「生類憐れみの令」のほうは一人の権力者の命令によってできたという違いはあるものの、どちらもその法律が守れなくて困る人を多く出してしまった。 この法律の混乱は、法律がなければ、道徳として主体的に「禁酒」も「動物愛護」の精神も守れたかもしれない人が、この法律によって守れなくなってしまうという皮肉な結果、つまり法律があることによって道徳的な退廃が起こるという、目的とは逆の結果を招くということがもたらされているように感じる。ここに、個人の法則と社会の法則の大きな違いを感じるものだ。板倉さんは、「規則を増やせば違反者が増える」という格言も語っているが、このような感覚こそが社会を見る目を育てることになるだろう。規則を作ることによって道徳的な意志を貫徹しようと思っても、守ることが難しい規則ならば、かえって違反者が増えて道徳性は退廃する。規則(法律)というのは、道徳のように「善きこと」を述べるのではなく、最低限これだけは守るという合意の下に作られるべきものになるだろう。それが社会の法則だということだ。 さて、このように個人とは違う社会というものの全体性は、個人をただ寄せ集めただけの集団(集合)が社会だという「統合」のイメージではまったく分からなくなる。そのような「社会」のイメージは、こうであってほしいという期待を裏切る混沌としたものになるだろう。どのようなイメージを持てば、単なる個人の寄せ集めではない社会のイメージがもてるだろうか。社会は何が統合されているのか。そのイメージが正しければ、社会に出現する多くの現象を、その意味をもっと深く理解することが出来るようになるだろう。これを論じるのが、この回の講義の目的ではないかと思う。 ここの存在(実体)が寄せ集まったものというイメージは、構造の入らない、ものの集まりという性質だけを持った、数学における集合の概念に通じるものだ。社会を個人が集まったものという漠然としたイメージで捉えると、数学的な集合として捉えているという比喩が使えるだろうか。これでは全体性を捉える「社会」のイメージは論理的に導出できない。個々の部分を観察して、個々の要素がどのようなものになっているかという視点しかもてないだろう。全体性の把握が出来ないのではないかと思う。 全体性を把握するには、数学においてもその集合に「構造」というものを考えなければならない。たとえば単に数字を寄せ集めたものとして数の集合を考えるのではなく、そこに演算が成り立つことを考えると、演算の構造を数の集合を見る視点として導入したことになる。足し算や掛け算が成立したり、そこでの方程式に必ず解が存在するという構造が見られたりする。数学的には群という代数的な構造を数の集合に見ることになる。これは数の集合を全体として捉えた見方になる。 「社会」というものの全体性を見るのも、そこに何らかの「構造」を見ることが必要なのではないかと思う。その「構造」が見えないと、「社会」全体を見ているようなつもりでも、結果的にはある特殊な側面からの一面的な見方をしていることになってしまうのではないだろうか。この「社会」の「構造」は、宮台氏がこれまで語ってきた、「社会」が持っているシステムとしての面に見ることが出来るのではないかと思う。システムは、互いに前提を供給しあう要素がループをなしているという「構造」を持っている。この「構造」を捉えることが、「社会」の全体を捉えることにつながるのだと思う。 さて、そうであれば「社会」というものを、何が「統合」されていると考えるかは、そのループという構造をなす要素として何を考えるかということになってくるだろう。ループをなす要素が「統合」されている、そのようなものが寄せ集まって「社会」をなしているという見方が「社会統合」ということの概念になるだろう。 「社会」においてループをなす要素としてこれまで提出されたものに「行為」というものがある。これは、ある行為の後に続く行為というものが、ランダムに何でも起こるというものではなく、社会の秩序に従って選択肢が限定されているという観察に基づく。この「行為」の選択の連鎖がループをなすことによって社会に秩序がもたらされ、「社会」の全体性を構成していると考えられる。「行為」というものは、「社会」を構成する要素としては一つの候補になるもので、「社会統合」は「行為」が統合されていると考えることが出来る。 しかし、「行為」の選択肢において、それが限定されているのは、動物のように本能的に選択肢が決まっていて、相手の「行為」を刺激として、その反応として自分の「行為」が選ばれているのではない。人間は、意味を通じてさまざまの判断をすると宮台氏は指摘する。相手の「行為」の意味を受け取り、その意味に応じて次の自分の「行為」を選ぶ。この選択に関わって判断の基準として考えられているのは、「予期」というものになる。「予期」があるからこそ「行為」の選択にループの構造が生れると考えられる。そうであれば、「社会統合」は、「行為」の統合というよりも、本質的には「予期」の統合だと考えたほうがいいのではないか。宮台氏の解説はそのような方向になっている。 「社会システム理論でも「社会秩序」は行為の織りなす秩序ですが、連載で述べた通り行為の同一性は「どんな行為に後続しうると予期され、かつどんな行為を後続させうると予期されるか」で決まるので、最終的には予期の配列と無関係に社会秩序を記述できません。 お気づきの通り、社会統合を「行為の統合」だと見做す立場は、連載第八回で紹介した社会秩序の「合意モデル」と結びつく一方、社会統合を「予期の統合」だと見做す立場は社会秩序の「信頼モデル」と結びつきます。社会システム理論は、もちろん後者です。」 と宮台氏は語っている。この解説の後半部分は、論理的な理解はやや難しいのではないかと思われる。「行為の統合」がどのような論理展開で「合意モデル」と結びつくかがすぐには浮かんでこないからだ。社会の要素が「行為」だと考えた場合は、「行為」と「行為」が選択の連鎖で結ばれているときに、その選択の仕方は、こうなるだろうという「予期」の判断よりも、こうなっているはずだという「合意」を前提として「行為」が選択されると受け止められるのだろうか。 「社会統合」を「行為の統合」だと見なす立場は、「予期の統合」を排除する立場として提出されるのだろうか。もしそうであれば、「予期」を排するということから、「こうなるだろう」という判断が排除され、したがって「こうなるべきだ」という「合意」が前面に出てくることになると考えているのだろうか。 「予期の統合」は、これから起こるであろうことの判断について「こうなるだろう」と思うことになるから、それは「信頼モデル」と結びつくというイメージが納得できる。しかも、「こうなるだろう」という「予期」の判断が、第三者がそう思うはずだという「制度」と結びつけばその信頼性は高まり、ループとしての繰り返しはより強まっていって、社会の秩序は安定したものとなることが了解できる。 逸脱行為に対する対処の仕方、それが社会の秩序を壊してしまうかどうかという判断においても、「合意モデル」か「信頼モデル」かで大きな違いがあった。合意モデルでは、逸脱行為が合意そのものを壊すと判断されるので、これは秩序の破壊として深刻に捉えられる。しかし、信頼モデルでは、それはたまたま信頼が裏切られた例外的行為であると受け止められ、信頼そのものはまだ保たれていると判断されることもありうる。信頼モデルでは信頼そのものが壊れた、つまりその逸脱行為が例外的なものではなく、それが定常的なものになってしまったという認識にならない限り、システムのループが壊されたとは考えない。逸脱行為に対して、それにすぐ反応してパニックにならずにすむ。免疫性を持つことが出来る。その逸脱行為の現象から、何かを学ぶという姿勢が、信頼モデルの社会の場合には導き出せる。 この信頼モデルの学習については、「真理システム」と「法システム」というまた興味深い概念があるようだが、これは後で詳しく語られるらしい。いずれにしろ、予想外の出来事に接したときに、感情的に混乱してしまってパニックになるよりは、そこから何かを学んで、今後そのような予想外の逸脱行為が生まれないようにするほうが社会にとってはいい方向のように思われる。そのためには「合意モデル」より「信頼モデル」のほうが有効になるだろう。したがって、「社会統合」の概念を、「行為の統合」ではなく「予期の統合」としてみる見方を自分のものにすることが重要ではないかと思う。この見方は、感情に流されて現実を見るのではなく、論理の展開からこれから起こるであろうことを正しく予想させてくれるものになるのではないだろうか。概念が思考に与える重要性を感じるものだ。概念を持つことによって現実を論理的に把握できるようになる。現実をじっと眺めたからといって、その概念が自然に自分の中に生まれてくることはない。概念(言葉)によって現実世界を切り取って理解するというソシュールの言い方が、実感として正しいのだという経験が出来るのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2008-07-18 10:17
| 宮台真司
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