宮台真司氏は「連載第三回:システムとは何か?」の中で「システム」というものについて語っている。「システム」については、これまでも何度か考えてきたが、その概念をつかむことの難しさを今でも感じている。
「システム」という言葉を辞書で引くと「制度。組織。体系。系統」などという言葉が並んでいる。そのイメージは、それを構成する要素相互の間に関係がつけられていて、全体が一つのまとまったものとして機能する「全体性」を持ったものが「システム」と呼ばれているもののようだ。 「身分制度」などという制度を考えてみると、それは社会における一つのルールのようなものとして現前する。生まれつき決まっている「身分」というものがあって、社会の中の誰もがその「身分」にしたがって生きていく。「身分制度」という「制度」としてのシステムは、誰もが「身分」に従って生きるという社会の秩序を維持する機能をもっている。個々の「身分」の人々の振舞いを規定する「身分制度」は、全体として社会のある秩序を維持するものとして働く。このようなイメージがシステムというようなものになるだろうか。 学校という「組織」などは、それを構成するもの、たとえば人で言えば教員や生徒であり、物でいえば校舎や校庭、さまざまな道具(机・いす・黒板など)が、それぞれの役割を担当して、全体として教育という機能を持った秩序を維持する働きをする。これらの具体的なシステムは、その機能や役割・全体性を想像することは易しい。具体的なイメージで捉えられるからだ。 しかし、宮台氏が語るシステムは、このような具体性を持った特別な文脈の下に語られるものではなく、自由な文脈の下でどのような対象であろうとも語ることの出来る一般性を持った概念として提出されているようだ。一般的存在としてのシステムを語り、その概念を使って一般理論としてのシステム論を展開するという論理の流れになっているようだ。 この文脈自由なシステムの概念というのが、文脈が自由なだけに、具体的なイメージがすべて捨象された抽象的なものになっている。そのイメージはなかなか明確に頭に描くことが出来ない。ここに宮台氏が語るシステム概念の難しさがある。 宮台氏が語るシステムの定義は次のようになっている。 「「システム」とは複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ(の網)です。」 特定の文脈のもとにある具体的なシステムを観察すると、そこにはいつでも「同一性のための前提」を供給し合う要素が見つかり、しかもその前提をつないでいくと一つのループ(円環的に閉じた関係図)が見出せるということが、この定義を立てる根拠となっているのだろう。そのような観察があれば、その現実から抽象される対象を「システム」と呼びたくなるのではないかと思う。 だが、この定義はあまりにも抽象的過ぎて、「システム」が見せる現象がこの定義から導かれるという論理的整合性がまったく見えてこない。たとえば、現実のシステムが見せる「秩序維持」という機能が、どうやってこの定義と結びついてくるかを理解するのはたいへんだ。「身分制度」が維持される、「学校」という組織において一定の教育効果が期待できるという秩序の現れは、どうやってこのようなシステム概念から論理的に導かれていくのだろうか。 実際の秩序維持が、このシステム概念と関係なく、現実を観察することによって得られる事実に過ぎないのであれば、何もシステムなどという概念を抽象化する必要はない。このシステムという概念は、それを論理の操作の中で運用することによって、システムの一般論を展開できるようなものになっているはずだ。それこそがシステムという新たな概念を設定することの意味・意義になるのではないだろうか。 宮台氏は、システムの秩序に関する考察は、後にエントロピーという確率的な考え方を元にした概念で定義する。つまり、システムは最初の定義の段階では、そこに秩序があるという性質を定義の中には含んでいない。定義で確認されているのは、 ・互いに前提を供給する。 ・その前提供給の関係がループになっている。 という二つのことを要請しているだけだ。秩序に関係していると思われるのは、互いの前提供給が、相手の「同一性」をもたらす前提になっているということだ。この「同一性」というものが、宮台氏では「秩序」という概念と同じものとして提出されている。システム全体の「秩序」ではなく、個々の要素の「同一性」という「秩序」が実現されるということがシステムの定義として提出されている。 この要素の間に成立する「秩序」が、それがループになっているという性質から、システム全体の「秩序」として展開されるという論理の流れが、宮台氏が解説するシステムにはあるような感じがする。このようなシステム概念が、個々の要素の「秩序」にとどまらずに、全体の「秩序」をもたらすというのは、ちょうど数学の定理のように、この定義から論理的に導かれるものとなっているのではないだろうか。それがあるからこそ、システムの定義はこのような語られ方をするのではないだろうか。 このシステム概念は、システムが「秩序」を持つということから抽象されて得られたのではないか。互いに前提を供給しあうループが存在するというのは、それは実際のシステムを観察するときに発見しやすい性質として捉えられるのではないだろうか。もしそうであれば、このこと(互いの前提供給のループが存在するという構造)が根拠になって、なぜ「秩序」が存在するかという問いに答えることが出来るのではないだろうか。 これは逆に言えば、その前提供給のループが崩れたときに、それによって維持されてきた「秩序」も壊れるということを意味するだろう。これは一つの科学的な「仮説」となりうる。システムの中に前提供給のループを見つける、あるいは見つけられないという前提が確認されれば、その前提から、そのシステムでは「秩序」が成立する、あるいは「秩序」が壊れてしまうということが予見できるようになるのではないだろうか。 このシステム概念が、本当にそれが「秩序」成立の根拠となるものだという論理的な展開はまだ確認していない。それは宮台氏が語るエントロピー概念と秩序概念を検討した後に、そう結論できるかどうかを見なければならないだろう。だが、この段階でも、もしそのような論理展開であるならば、このシステム概念の定義にはしかるべき理由があるのだということは理解できる。もしそのような理由がなければ、このシステム定義は、何か恣意的で勝手にとりあえずそのようにしてみただけなのだというふうに見えてしまう。 数学における公理の設定も、その理論体系の全体を見て、何がその体系の定理であってほしいかという見通しがなければ、恣意的に勝手に公理を設定したように見えてしまう。公理など、そこに論理的矛盾が生じなければ何を公理にしてもいいのだという、絶対的な自由が公理の選び方にあるかのような錯覚を起こすだろう。実際には、数学においてはどのような体系を構築しようかという目的によって、ほとんど選びうる公理というものが決まってしまう。これこそがシステムの持つ秩序というものかもしれない。 宮台氏の語るシステム概念が、論理的にどのような特質をもっているかを考えることは、エントロピーと秩序を語る回までとりあえず保留することにして、システム概念にとってそれ以外の重要な指摘を考えてみることにしよう。宮台氏は、システムを機械的なものと有機的なものの二つに分けて考察を進めているように見える。 機械的なシステムは静的なものであり、それは均衡(釣り合いを取っている)という言葉で示されるイメージになる。一度秩序が確立されれば、それは均衡状態が続く限り静止した秩序を持つ。そこには変化というものがないという意味で秩序が成り立っている。変化がないのでいつまでも同一のままなのだ。 これに対して有機的なシステムでは、そのシステムは外部とのコミュニケーションのもとにあり、何かが入れ替わるという変化が常に起こっている。変化が起こっていれば、それは秩序が破壊されているという結果を招く場合もある。同一性が維持されないと思われるからだ。しかし、有機体的システムでは、何かが変化しているにもかかわらず、その全体性は維持されている、つまり同一性が保たれていると判断される。 このようなシステムを宮台氏は「定常システム」と呼んでいる。この定常システムにおいて、システムの本質的な概念である「ループ」というものが深く影響しているような気がする。「ループ」があるために、変化しているにもかかわらず、やがて元に戻ってくるという「定常性」を持つことが出来るのではないだろうか。 社会学が対象とするシステムは「定常システム」として捉えられるという。これは後に「人格システム」「法システム」「宗教システム」「政治システム」などと呼ばれる対象として具体的に語られる。これらの同一性という秩序維持が、これらがシステムを構成しているということから導かれるものかどうか。もしそうであれば、これは社会学が提出する一つの「科学」的命題となりうるのではないだろうか。詳しく考えて見たいと思う。 システムの概念は非常に抽象的なものであり、それを言葉で理解しただけでは頭に浮かんでくるイメージは貧困なものにとどまるだろう。この概念は、システムを利用した理論体系の全体像を把握した後にようやく明確に見えてくるものになるのではないだろうか。システムの構造がシステムの秩序と安定性に関わってくる。それが理解できたとき、システムの概念も捉えられたといえるのではないだろうか。とりあえずは、システムを単純な構造として、「前提供給」と「ループ」という言葉で理解しておこう。そして、これが「秩序」にどう関係しているかを、これからの社会学講座の展開で追いかけていくことにしよう。システム概念は、あくまでも秩序という現象の理解の道具として使われるという視点でそれを考えていこうと思う。
by ksyuumei
| 2008-07-08 00:44
| 宮台真司
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