ソシュールは言語学を科学として確立したといわれている。それまでの事実の寄せ集めを解釈していただけの言語理論を、科学という理論体系として打ち立てたと評価されているのだろう。この解釈学から科学への飛躍は、その研究対象として「ラング」というものを提出したことに求められている。「ラング」の発見こそが言語学という科学を生む基になったというわけだ。
「科学」という言葉の概念は、人によってかなり違うところがあるだろう。僕は、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんからその概念を学んだ。その概念は、「科学」と科学でないものを明確に区別し、科学の有効性をはっきりと分からせてくれるものとして、僕は板倉さんが語る以外の概念で「科学」を捉えることが出来なくなってしまった感じがする。そこで、板倉さん的な概念でソシュールが語る言語学が果たして科学になるものかというのを考えてみたいと思う。 板倉さんが考える「科学」というのは、「仮説実験の論理」というものを経て、それが一般的・普遍的な真理であるということが確立された命題あるいは命題群(理論体系)のことを指す。「科学」というのは、現実の対象に対して成立する「真理」を意味する。そして、その真理は一般的・普遍的であることが特徴で、ある時間・場所・対象がたまたまそうであったという偶然成立した真理とは区別される。 「仮説実験の論理」というのは、仮説を証明するための実験という検証についてのものだが、これは単に事実を発生させるということを目的として対象を操作しようとする「実験」ではない。それは必ず「未知の対象」に対して問いかけるという行為になっている。それまでの法則や知識を確認するために実験をするのではないのだ。「仮説」として提唱されている命題が、未知なる対象に対しても成立するかどうかを検証するための実験だ。この実験が確かに成立することが確認されれば、その事が「仮説」が現実的な真理になるということを示すものだと受け取る。それが「仮説実験の論理」というものになる。「未知なる対象」というものが、論理的には「任意の対象」と重なるものになり、それによって命題の真理性を現実に確認しようとするものだ。 これは形式論理としては論理の飛躍になる。具体的な対象に対して確認したものは、それが「未知なる対象」であっても、形式論理としては決して「任意の対象」にはならない。しかし、それを「任意の対象」として解釈することに蓋然性があるという判断から、この蓋然性が、エンゲルスが言うところの「相対的真理」をもたらし、その真理性によって「仮説」を「科学」だと判断する。「科学」が真理だというのはそのような意味で言うのである。 ソシュールの伝記的な事実には、比較言語学の分野において、今は失われてしまったがかつてあったであろう発音を予測していたというものを読んだことがある。ソシュールは、若い頃から、真理としては単に現象を解釈して整合性を取ったものではなく、未知なるものの謎を探り、一般的な理論から予測される個別的な「事実」というものを予測するという理論活動をしていたようだ。これは「仮説実験の論理」に近い行為のように僕は感じる。 板倉さんは、「大地・球形説」というものを「科学」の中に入れている。これは、地球が丸い(球形だ)という命題が真理であることを主張するものだ。これは一見個別的な事実を語っているように見える。普遍的真理である「科学」と呼ぶのがためらわれるような感じがするだろう。しかし、この命題の結論には、一般的・普遍的に成立する法則が求められ、それを現実に適用することによって論理的な帰結として地球が丸いということを語っている。結論は個別的なことに関する言明であっても、その理論活動は、一般的・普遍的な真理が求められ、その部分を「科学」と呼んでもいいのではないかと思う。 地球が丸いことは、地球の中にいて、そこから離れられない人間には、直接視覚によって確認することの出来ない事実になる。これは、地球上にいる限り、論理によって結論せざるを得ない命題となるだろう。これは、月食の観察や船から見える山の観察など、さまざまな推論を元にして論理が展開されるが、詳しく考えるのは項を改めてからにしよう。 いずれにしても「仮説実験の論理」によって、一般的・普遍性のある真理が求められるというのが「科学」の必要十分条件となる。それは、未知なる対象に対して実験をする場合でも、常に成立することが確かめられるという経験がなければならない。経験していないことに対しては、経験する前に事実としての結果をいうことは出来ないが、予想することは出来る。そしてその予想が常に正しいというのが「科学」の必要十分条件だということになる。 さて、このようにして確立された「科学」はいくつかあるが、まだ「科学」であるかどうかがはっきりしていないものに対しては、それをどう受け止めればいいだろうか。一つにはカール・ポパーが語ったような「反証可能性」を考えて、その理論を反証する試みが不可能だと結論されたときに、「それは科学ではない」と結論するという考えがある。 これは「仮説実験の論理」から派生する見解としても理解できるので、一つの評価方法として納得できる。ある実験結果が反証を示しているように見えても、どんな反証を提出されても反証されないのであれば、「仮説」を検証する「実験」に意味がなくなり、それは現実に対する真理とはならない。そうであれば「科学」ではないと結論できる。しかし「反証可能性」を確認するための論理は非常に難しいのではないかと思う。 その命題がつまらないものであれば、「反証可能性」はすぐに理解できる。しかし、それが現実世界の複雑な対象を深く捉えたものであるなら、その「反証可能性」を見ることは極めて難しい。「反証可能性」という言い方は、方法の一つとしては納得が出来るものの、実際にそれである理論を評価しようとすれば、なかなか評価できる理論がないというのが実際ではないかと感じる。 「反証可能性」よりも見やすい視点として、その理論の構築が、現象が起こった後に解釈をするという「事後的解釈」が常に伴うものであるかどうかを見たらどうだろうかと思う。「仮説」というのは、未知なる対象に対して、その現象が起こる前に予測をするために提出される。事後的な解釈をすることが出来ないというのが「仮説」の基本的な特徴だ。もし、その理論が予測をするものではなく、事後的な解釈しか出来ないような体系になっていれば、それは「仮説」を設定することが出来ず、未知なる対象が従う法則を提出して予測することも出来ず、決して「科学」にはなりえないだろう。 言語学というのは、三浦つとむさんの言語学でさえも、それはすでに観察された言語現象をよく観察して、その中から法則を読み取るという「事後的解釈」をするものだった。ある言語法則を「仮説」として打ち立てて、その法則を未知なる言語現象に対しても適用して、それが必ず成立するかどうかという「実験」はなされていない。板倉さんの言う意味での「科学」にはなっていない。 三浦さんは自分の言語学が「科学」だと言っていたようだが、板倉さんが語る意味の「科学」の概念は、最後まで三浦さんは持ち得なかったとかつて板倉さんが語っていた。だから、本人がその言語学を「科学」だと呼んでいても、僕はそれはまだ「仮説」の段階にとどまっていたと思っている。では、その「仮説」の段階の三浦さんの言語学を「科学」という真理にするための「実験」はどのようにすればいいだろうか。これはきわめて難しいのではないかと思う。 言語現象には、言い間違いや例外というものが極めて多い。何らかの法則を提出しても、その法則に反する現象がいくらでも見つかる。そして、それが例外であって、法則の本質は保てるのだと判断しようとしても、その言い間違いのほうが社会的に流通してしまえば、言い間違いが言い間違いでなくなってしまうという現象まで現れる。言語現象は、原理的に、それが正しい言語の使い方であるかどうかが証明できないという本質を持っているのではないだろうか。そのような本質があるからこそ、どうしてそうなのかは分からないけれど、みんながそう思っているということが社会的に「真理」になるような、ウィトゲンシュタイン的な「言語ゲーム」の考え方も生まれてくるのではないだろうか。 言語現象は、原理的にそれを「事後的に解釈するしかない」のではないか。それを予想しようとしても、予想に反するものが肯定的に法則化されてしまうのではないだろうか。このようなものには、一般的・普遍性のある法則が求められないのではないだろうか。 似たような理論体系に心理学というものがあるような気がする。心理学が対象とするものは、人間の「心」というものだが、この「心」というものは客観的に観察することが出来ない。「心」にどのようなことが起こっているかは、すべて主観の判断を通して知るしかない。そうであれば、どのような心理現象を予測しても、その予測に反するような主観を持つことが可能になるので、実験が成立したかどうかが信用できなくなる。 フロイトが発見した「無意識」の考え方は、心理学において非常に重要な言明であり、それは心的現象を理解するのに有効性を発揮すると思う。しかし、「無意識」の存在を科学的に証明しようとしたり、ある心的現象が、「無意識」というものが存在するから起こるのだという法則を証明しようとすれば、それは「仮説実験の論理」による証明にならない。「無意識」は、その定義から言って、本人には決して意識化できない・分からないものだ。そして、外から観察できるのは「無意識」ではなくて、その人がどのように行動したかという姿が見えるだけだ。「無意識」の影響によってそれがおきたというのは、いつも事後的に解釈されることになる。 日常生活における心的現象や言語的現象を対象にする限りでは、心理学も言語学も、板倉さんが言う意味での「科学」にはならないような気がする。心理学や言語学を「科学」として確立するためには、そのような対象を棄てて、新たに「科学」としての対象になるような概念が必要だろう。心理学では行動主義と呼ばれる考え方が、科学として確立できるような対象を発見しようと努力したらしい。しかしこれはあまりうまくいっていないようだ。 心理学が個人の心理という個別的・具体的な対象を扱っている限りでは、これは「科学」にするのは難しいかもしれない。むしろ、広告業界などが、どのような広告が多数の人に影響を与え、購買意欲という「心」の作用を掻き立てるか、などという問題設定をした方が「科学」としての心理学に近いものになるのではないだろうか。ヒトラーの宣伝活動などは、心理学の対象としては興味深いものになるかもしれない。 同じように、言語学も、個々の言語現象を対象にしていたのでは「科学」になりえないのではないかという気がする。ソシュールが個人の言語活動を、その研究対象から排除したのは、このような考え方があったのではないだろうか。一般性や普遍性を求めるには、個人を超えた言語の対象を設定して、そこに見出せる法則性をこそ求めるべきだと考えたのではないだろうか。ソシュールが設定したラングという新しい概念が、言語学を「科学」にするために役立ったのかどうかの評価はまだ出来ない。ラングについてそう判断できるほどの知識がないからだ。しかし、そのような視点でラングについて調べてみようかという意欲は湧いてきた。 適切な概念は「科学」の成立に大きな貢献をする。原子論という「科学」には、原子の概念が重要な役割を果たした。言語学という「科学」において、ラングがそのような役割を果たしているだろうか。調べてみたいことだ。
by ksyuumei
| 2008-07-05 21:35
| 科学
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