内田さんが語るソシュールには言語の「価値」という概念が登場する。この「価値」は辞書的な・日常的な意味とは違うものを含んでいる。そこには新しい概念が表現されている。この「価値」という言葉によって新たに発見された概念は、思考の展開においてどのような利用のされ方をしているだろうか。そして、この概念があるおかげで、言語現象の複雑な側面がよりはっきりと見えてくるということがあるだろうか。もしそのような有効性をこの概念がもたらすなら、人間は新たな概念を生み出す言語によって、現実世界を人間に理解できる形で切り取ったといえるのではないだろうか。
さて「価値」というのは、それが何か貴重な、人間にとって大事だと思えるような性質を持っているというときに「価値がある」という言い方をする。だから、「言語の価値」という言い方を辞書的に受け取ってしまえば、「言語がいかに貴重で大事か」ということを指し示すものと解釈されてしまう。しかし、このような意味ならばわざわざ新たな概念として考える必要はない。辞書的な、それまであった概念で理解していても十分だ。 ソシュールが語る「価値」は、それが個別的な性質として大事だとかいう感覚を生むものとして捉えられているのではない。つまり、自分にとっての個性的な「価値」を語っているのではない。社会の中で、誰もがそれを欲するというとき、多くの人がそれを欲望するということが確認されるとき、その対象は、他の欲望されないものよりも「価値がある」という判断をされる。この「価値」は、他の存在との比較によって相対的にそれが高いか低いかが判断されるものとして想定されている。 この「価値」にとって重要な性質は、それがその対象固有の属性によって「価値」の高さが判断されるのではなく、他との比較によって判断されるということだ。「価値」の高さは、その対象物が現実世界の全体の中で占める位置によって決定される。同じ対象物が、違う位置にあるときには「価値」が変化すると考える。 内田さんが語っていた例では、タイタニック沈没の場面のボートの「価値」と、公園の池でレジャーを楽しむためのボートの価値との比較だった。タイタニック沈没の場面では、それこそボートの「価値」は命と引き換えと言っていいくらいだから、全財産を出しても惜しくないくらいの「価値」を持つだろう。だが、池で楽しむためのボートに全財産を出すような人間はいないだろう。同じボートでも、そこでの「価値」はまったく違う。 この「価値」の考え方は、経済学などでも「商品の価値」という新しい概念をもたらす。商品は物質的存在として固有の「使用価値」をもっている。その「使用価値」は、その使用の目的に一致する欲求を持っている人なら、その人に対しては大きな「価値」を持つ。だが、この個別的な「価値」の概念では、資本主義における商品の分析をすることが出来ない。商品というのは、多くの人がそれを欲するという「需要」が「価値」の大きさに関係してくる。この意味での「商品の価値」は、やはりその商品に固有のものではなく、それがどの程度供給されるかという相対的な関係も考慮して決定される。 このように「価値」に新たな概念が発見されると、現実世界で、昨日まではそれほど「価値」が高くなかったものが、いま信じられないくらいに高い「価値」を持ったというような不思議な現象を見たときに、整合的な説明をつけることに成功する。新たな概念が、複雑な現実を理解するのに役立つという経験が出来る。 このような新たな概念がもたらす有効性を、「言語の価値」という概念によっても経験することが出来るだろうか。もしそれが経験できるなら、ソシュールによって発見されたこの新しい概念は、ソシュールの偉大さを示すものとなるだろう。 ソシュールが考える「言語の価値」も、他の存在(この場合は言語になる)との比較から生まれる「価値」になる。固有の使用価値(言語の場合は、何らかの意味を伝える媒体としての「価値」と考えられていた)を指しているのではない。しかしこの「価値」は、商品の場合のように、誰もが欲するという欲望の対象として想定することは出来ない。言語は商品ではないからだ。誰でも使おうと思えば自由に使える。財貨を差し出してその代償として手に入れるものではない。 言語が、それに内在する固有のものと違って、他の言語との比較によって持ちうる「価値」とはどのようなイメージになるだろうか。それは示差性というもので語られていた、「他のもの(言語)ではない」という性質を指しているもののようだ。言語の「価値」というのは、その言語が指し示すもの(意味)が何であるかということをイメージするのではなく、それがどのようなものではないかという意味をもたらすものとして捉えられている。このように、否定の範囲を示す記号として言語の「価値」を捉えると、それはいったいどのような思考の展開をもたらしてくれるのだろうか。 言語の示差性が「価値」の違いを示すという発想は、言語が現実世界と対応して表現されるという前提を置いたとき、現実世界の差異という現象が、言語の示差性として反映するという考えに結びつく。そして、これを反映という受動的な性質に止めずに、より積極的に言語の示差性によって現実世界の差異を明確にしていくという逆転の発想に結びつけることが出来る。 言語の「価値」は、現実世界の差異を捉える認識と関係させることが出来る。「価値」の違う言語を持つことによって、現実の差異をどう捉えているかという違いもそこから読み取ることが出来る。「価値」の概念は、人間が現実世界をどう捉えているかという認識の問題を考えるという思考の展開をもたらす。これは「価値」という概念なしに捉えるのは難しい、かなり複雑な現象ではないだろうか。 数学で数を学習するときに、数の言葉が乏しかった人間集団の例を出すときがある。その集団では、数の言葉としては1と2しかない。3以上はすべて「たくさん」という言葉で一括して表現されてしまう。また0(ゼロ)はたいへん難しい概念なので、このような乏しい数の語彙の集団ではもちろん0(ゼロ)という数の言葉もない。0(ゼロ)は概念化されていない。この集団では、1は一人称に対応する「私」と関係し、2は二人称の「あなた」と関係していると考えられている。三人称以上はすべて一括して同じだと捉えられている。 この人々にとって、世界は1と2と「たくさん」という3つに区切られていることになる。1や2は、固有の性質からそれが考えられているように見えるが、「たくさん」は、固有の性質というよりも、それは「1ではない」「2ではない」ということから「たくさん」だと判断されている。客観的な物質的存在として網膜に映っている像としては同じでも、我々と世界の切り方が違う人々の姿がここには見られる。「世界の切り方が違う」という判断は、言語の「価値」という概念からもたらされるものではないだろうか。 ソシュールが考える「価値」は、商品で言えば「使用価値」に当たるものではなく、「交換価値」に当たるものになる。これは、商品ではその商品という物質的存在に内在するものとは考えられていなかった。他の商品との比較によって、現象として現れるものとして捉えられていた。したがって、そこに「価値がある」というのは、ある意味では妄想であり、人間の頭の中にしか存在しない「価値」だと言ってもいいかもしれない。 言語の「価値」という概念からも、言語が持つこのような妄想性が思考の展開としてもたらされるのではないだろうか。言語で表現されたことというのは、現実を反映して、現実に存在するものに名前をつけたのだとする解釈が出来るような経験が多い。そうすると、言語で表現することによって、そこで表現されたものが実在するという錯覚を起こしやすい。このとき、本当は存在しないものが存在すると考えてしまえば、それは妄想としての「価値」が、言語に内在する実体であると受け取ってしまった誤謬になるのではないだろうか。言語の「価値」は、言語によって引き起こされる「妄想」の理解に役立つかもしれない。 宮台真司氏が憲法9条を論じるときなどに、それをベタに文字通り受け取るのではなく、ネタとして戦略的に解釈すべきだという主張をすることがある。これは、言語が持つ「価値」が妄想的になることをうまく利用すべきだと理解すると分かりやすいような気がする。 憲法9条が、日本が国家としていかなる戦力も持たないと語っているのは、その固有の意味を了解すれば、戦争を行う能力のある軍隊は持たないという宣言だとしか理解できない。つまり、自衛隊といえども、憲法9条をベタに解釈すれば憲法違反になるもので、持つことが出来ないと考えなければならないだろう。 しかし、この文章の「価値」は、日本が戦争に負け、しかもその戦争によって多大な被害を、交戦国だけでなく自国民にも与えたという状況の下で考えられなければならない。軍隊という戦力は、自国を守るためのものではなく、そのような大きな被害をもたらした原因となるような戦力を持たないという意味で、その「価値」を理解しなければならないだろう。 言語表現を、その「価値」にしたがって意味を理解すると考えるなら、憲法9条で宣言したからといって、一切の戦力が日本からなくなると考えるのは「妄想」にしか過ぎないと理解したほうが正しいだろう。「戦力」という言葉は、その時々の状況によって、「何ではないか」という「価値」によってその意味が理解されるものになるのが言語の本質として正しいだろう。 宮台氏によれば、朝鮮戦争の際に、アメリカが日本に対して戦争に協力し、参戦するように求めたという歴史があったらしい。しかしその要求に対し、時の首相の吉田茂は、憲法9条を盾にとって、アメリカの参戦要求を突っぱねたと言っていた。憲法9条をネタとしてうまく利用したのだという評価を宮台氏はしていた。確かにそのとおりだなと僕も思う。 言語表現の解釈が時と場合によって変わるというのは、言語の「価値」の違いからもたらされる。それは、世界の切り取り方が違うことから生まれるものだ。だから、言語表現というのは、それを固定した意味で考えていても正しい評価は出来ないだろう。「価値」を正しく受け止めてこそ言語表現の評価も出来るのではないかと思う。 このソシュールの「価値」の概念は、ウィトゲンシュタインが語る独我論において、個々人によって世界が違うという主張の解釈も整合的に行えるような感じがする。言語の理解というのは、共通部分が多いものの、個々人によって「価値」の違いが微妙に存在するのではないかと思う。それが、個々人の世界の切り取り方を違えてしまい、それぞれ独自の世界だと思わせるような根拠を生むのではないだろうか。ソシュールの「価値」という概念は、ソシュールの基本的な主張を支える重要な概念になっているのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-07-04 10:14
| 言語
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