言語化する以前の概念というのは想像することがたいへん難しい。どのような概念を思い浮かべても、その概念を示す言葉が頭に浮かんできてしまうからだ。何か分からないがぼんやりと頭に浮かぶようなもの、というものが想像できない。言語のあふれる世界の中で生まれて育った僕には、言語のない世界などは想像を絶するものだ。なぜなら、想像の対象でさえ、それは言語によって思考しているからこそ想像できるのだと言えるかもしれないからだ。概念は、言語化するからこそその差異を認識できるのであって、言語化する前のラベルのない概念は、混沌として差異を認識できないのではないだろうかという思いが消えない。したがって、概念をまず捉えて、その後に言語で名付けるという過程はありそうもないような気がしている。我々は対象を言語で名付けることによってその概念も同時に獲得しているというソシュールの考えが正しいような気がしている。
その想像が困難な「何か」としての名付けられない概念は、どうしたら想像可能になるだろうか。それは、名付けられるまではどこまでも「何か」としか表現できない概念だ。この「何か」は、名付けられる以前に、果たして僕の認識の中に「あらかじめ与えられた概念」として存在することが可能かどうか。それは名付けることが出来ず、「何か」としてしか表現は出来ないが、「何か」だという認識を持っていたら、「あらかじめ与えられた概念だ」ということが出来るだろうか。 「何か」という対象を想像することは難しいが、いままで考えてもいなかった新しい概念を、それが分かったと思った瞬間は、その概念がその理解以前に自分の中にあったとは思われないが、理解と同時に概念が僕の認識の世界には生まれたという感じがする。たとえば「無意識」という言葉について、これを内田さんの本で知る以前は、僕は「無意識」に対して本当の理解をしていたのではなく、それゆえ本当の概念をつかんでいたのではなかったのではないかと感じた。内田さんの説明によって、「無意識」という言葉の意味がまったく変わってしまったからだ。内田さんが説明するような意味での「無意識」は、内田さんの言葉を読むまでは僕の中になかった。それは「あらかじめ与えられた概念」ではなかった。内田さんの言葉の意味を知ることによって同時に僕の中に生まれた概念だ。 この概念の誕生の過程を反省することで、そのような過程を経ない、「あらかじめ与えられた概念」が果たして存在しうるものか論理的に考察することが出来ないかという発想が浮かんだ。「あらかじめ与えられた概念」は、それをそのままの形で想像することはなかなか出来ないが、それでないもの、つまり言葉を知ることによってはじめて獲得した概念というものは、自分の体験もあるし、実感を反省することも出来そうだ。そうでないものを理解することによって、「あらかじめ与えられた概念」の姿を想像してみようと思う。 さて、「無意識」という言葉を僕は以前は辞書的に理解していた。その概念は、「自分には気づかないものの、行動のあらゆる面に影響を与え、何気なくどうしてもしてしまうような、そのような行動の理由の根拠となるようなもの」というイメージを持っていた。だが、これは果たして本当に「無意識」と呼べるような対象を指しているだろうか。この辞書的解釈は、「無意識」を「意識がない」つまり、自分では気づかないという面を理解して概念化していた。 これは、「無意識」という対象を指して言語化したのではなく、「無意識」が引き起こす現象を言語化しているような気がする。それは「無意識」そのもののイメージではなく、「無意識」が引き起こす現象のイメージになっている。これは、果たして「無意識」の概念を持っているといえるだろうか。 これを他の概念と比べてみよう。たとえば「魚」のイメージは、「えらで呼吸をしている」とか、「水の中を泳ぐ」とか「卵を産む動物である」とかいろいろある。概念というのは、これらのイメージを総合して、魚とそうでない存在とを区別する指標として働く。概念を持つということは、それがたとえ間違っていようとも、魚と魚でないものが区別できる判断を持つということだ。概念を持つということは、結果的に差異を評価できるということで、それを言語が表現しているのであれば、言語は本質的に「示差的」であるといってもいいかもしれない。 そうすると、「魚」のイメージが行動面だけであるなら、それは他の存在と区別する指標としては足りなくなるのではないだろうか。これは「魚」という言葉が実体を表す名詞であるということも原因しているが、どうしても実体の属性のイメージがなければ、実体としての区別が出来なくなるのではないかと思う。 「無意識」という言葉も、それは行動を表す動詞でもなく、状態を表す形容詞でもない、実体をあらわす名詞になるだろう。そうすると、行動面を示すイメージだけではなく、どうしても実体的な属性のイメージを持たなければ概念としては不完全なのではないだろうか。 しかしここでまた難しい問題が起こる。「魚」の場合は、それが「実体」であることは、人間の意識と独立に存在していることが、人間の五感を通じたりして確かめることが出来る。現実に存在する「実体」であることがその属性を見ることを容易にし、「名詞」としてのイメージをつかむことを可能にする。だが、「無意識」はそもそも「実体」であるかどうかさえわからない。それは五感でつかむことが出来ないので、実体的に扱って属性を見ることが出来ない。どうやって概念をつかんだらいいだろうか。 「無意識」という概念はあらかじめ与えることが出来ない。それはそもそも存在するかどうかも分からないぼんやりとした対象だ。見えるのは、「無意識」が与える影響から生じる行動面だけだ。その行動の原因として「何か」があるのではないかという想像から「無意識」というものをフィクショナルに設定しているだけだ。 この「無意識」を内田さんは、二つの部屋とその間を通過させるかどうかを担っている番人という比喩で語っていた。これはフロイト自身の比喩かもしれないが、僕は内田さんの説明ではじめて理解したものだ。この説明によって、僕は「無意識」を実体的に想像することが出来た。それは「意識化された心的現象」と「無意識のままにとどまっている心的現象」を入れる二つの部屋であり、その部屋の間に立っている番人という者が「無意識」の実体だというものだ。 これは誰かが見たものではない。まったくの想像でフィクショナルなものだ。それは誰も見ることが出来ないのでフィクショナルに設定するしかない。しかしこのフィクションは、「無意識」というものの本質をイメージさせるものになっているので、これこそが「無意識」の概念として実体的な属性を引き出すことの出来るものとなっている。本当にそんなものが存在するかどうかは分からないが、それがあると思って考えると、「無意識」が持っているいろいろな性質を理解する助けとなる。 この番人がどのように部屋の通過を判断するかは、自分にはまったく分からない。だからこそ「無意識」と呼ばれ、意識することが出来ないという属性を持つことになる。「無意識」が自分に理解可能になるというのは形容矛盾ともいえる出来事になってしまう。だから、内田さんが語る「構造的無知」という現象も「無意識」の働きとして理解が出来る。外から行動という現象を見ている人間は、その行動をする人間の「深層心理」を読むことが出来るが、本人は自分の「深層心理」は決して知ることがない。「無意識」の番人が、それを「意識化する部屋」に決して入れないように働いているからだ。最大限の努力を注いで「無知」でいようとする、と内田さんは表現していた。 二つの部屋と番人というイメージが僕の中に生まれたとき、僕には「無意識」の概念が生まれたと思った。このイメージは、「無意識」という言葉があったからこそ理解できたイメージのように感じる。もし「無意識」という言葉なしに、そのような番人を言葉の上で想定しようと思っても、その番人がなぜそのような働きをするかということを直感的につかむことは出来ないのではないかと思う。「無意識」という対象をフィクショナルに設定しようとするところに、この概念を生み出す原動力があるのではないか。それに対し、「無意識」という対象がどこかにあって、それが認識されて言葉にされていくという流れでは、「無意識」というぼんやりしたものを概念化することは出来ないのではないか。まず「無意識」という言葉があることが、この概念の誕生には決定的に大事なのではないか。 これは数学の虚数にも通じるようなものだろうか。虚数というようなものが数学的世界の中にあって、それが発見されて数学の対象として概念化されたのではなく、虚数という言葉でその対象を積極的に作り上げていったのではないだろうか。それを虚数という言葉で呼ばない間は、それは存在しないものとして数学の世界には入ってこなかったのではないだろうか。つまり、概念化されることはなかったのではないだろうか。 実体として存在していないような対象は「あらかじめ与えられた概念」にはならない。それは言語化することによって概念が作られたと考えられる。それでは、あらかじめ実体として存在している対象は、積極的に言語化することなく、実体から概念が引き出されてくるような認識の仕方が出来るだろうか。 この想像に devilfish という概念の問題が役に立つかもしれない。この概念は日本語話者の中にはなかった。実体としてのエイやタコの概念は日本語話者の中にはある。しかしそこに実体が存在していても、devilfihs という概念は、その実体から引きだれて「あらかじめ与えられた概念」としては見つからない。 内田さんは、生活の役に立たないような雑草に対して名付けていない人たちのことも書いていた。その名付けていない雑草は、その人々にとっては存在していないも同様だった。実体としては認識していても概念化されていないといえるのではないだろうか。 その存在が、生活の中で意識の対象として出てこなければ、それが物質的存在として感じられているという認識はあっても、それは概念化されないと言えるのではないだろうか。それは区別される必要がないからだ。そのような対象は、結果的に言語化されることがない。そこから概念化されてもいないのだ、「あらかじめ与えられた概念」ではないのだといえるのではないかと思う。 そうすると最後に残るのは、現在言語化されている対象の中で、「あらかじめ与えられた概念」として認識されているものがあるかということが問題になる。 人間にとって、それまで概念化されていない新しい対象は、言語を知ることによって新しい概念として獲得されるように見える。少なくとも、経験的な事実においては、新しい概念は、言葉なしに獲得したようには見えない。 現在言語化されている対象は、「あらかじめ与えられた概念」を言語化したように解釈しても、現実的には整合性を壊すようには見えない。そうも解釈できるように見える。しかし、現在言語化されている概念が、それが誕生したとき・すなわちまったく新しい概念の獲得であった時は、経験的な事実から見たように、言語化すると同時にその言語のおかげで概念が獲得できるという関係だと解釈したほうが本当のような気がする。誕生の瞬間がうまく想像できる言葉というのはないだろうか。言語が生まれたときというのがうまく想像できれば、ソシュールが語ることをもっとよく理解できるかもしれない。
by ksyuumei
| 2008-06-30 09:24
| 言語
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