みつひろさんという方から「ソシュールの命題(主張)の論理的理解」というエントリーのコメント欄に、「示差的」ということに関するコメントをもらった。このコメントは、「示差的」という言葉の意味を理解するにはたいへん分かりやすい指摘になっている。「示差的」というイメージは、おそらくここで語られているような内容を指すのだろう。言語のもっている「差異」のイメージが、その概念理解をもたらすということは納得できる。
これはこれで納得できるものの、ある種の引っかかりも感じた。それはこのエントリーの表題にもあるように、「示差的」という性質は、言語の現象を事後的に観察して得られる解釈なのか、それとも言語現象にはなくてはならない、それを欠けばもはや言語としての性質を失うというほど重要な「本質」なのか、という問題だ。ソシュールは、この「示差的」という性質を「本質」として捉えているように感じる。それならば、僕も同じように、これを「本質」だと感じられるだろうか。 「本質」に対立する言葉に「現象」というものがある。「本質」でない性質は「現象」を記述しているだけと解釈される。それは事物の一面的な真理ではあるが、全体を貫く強い真理ではなく、末梢的な・捨象してもいいような真理として捉えられる。「本質」という概念を理解するのに、このような対立的な「現象」という概念の理解が役立つというのは、ソシュールのいう、言語が「示差的」であるということの一つの証拠にもなっているような気がするが、事実としてそういうこともあるなあという理解では、それはまだ解釈の段階にとどまる。それが確かに真理であるという確信に至るには、論理的な整合性をもう少し詳しく確認する必要があるのではないかと思う。それを考えてみようと思う。 「示差的」という性質が言語の持つ「本質」なのかという問題を考える前に、そもそも「本質」というのはどのようなときにそう判断できるのかということを考えてみたい。そのための材料として、武谷三男さんの三段階論における「現象論的段階」と「本質論的段階」の区別などを思い出してみたい。「現象論的段階」というのは、科学の発展において、まずは科学が生まれる最初の段階として、「現象」を記述する段階があるという指摘だった。それはもっとわかりやすい言葉を使えば、見たまま(観察したこと)を、何らかの表現によって記録するということになるだろうか。 それは言語による記録が中心になるだろうが、絵や写真での記録もあるだろう。とにかく、感覚で捉えた「現象」を、その捉え方に近いものが残る形で記録する。武谷さんが例として出していた「太陽系の運動」に関することでいえば、たとえば太陽がどのように運動しているように見えるかの記述が「現象論的段階」というものに当たる。それは、東の空から上ってくるように見え、地球の周りを回転しているように見える。「現象」としては太陽が動いているということが観察される。 この「太陽が動いている」という記述は、実は太陽系の運動においては否定される判断でもある。地球上に立っている人間の視覚的な真理という面から言えば肯定されるが、地球外の別の立場からこれを観察すれば否定されるという判断になっている。つまり、そう「見えるだけ」の判断ということで、末梢的であり・だからこそ「現象」だという判断がされる。 実際には、相対的な運動としては太陽の方が固定的であり、その周りを地球が回っていると解釈したほうが、地球外から見たときの運動としては正しい。太陽が地球の周りを回っているように見えるのは、実は地球そのものが自転という回転運動をしているからだということが分かる。そのような解釈をした方が、天動説的な解釈よりも、地球の運動を含む多くの運動を全体的に正しく解釈することが出来る。「現象」を受け取るだけの天動説的な解釈は、その「現象」に合う部分だけは正しいように見えるものの、その「現象」をちょっとはなれるような視点で太陽系を見てみると、とたんに解釈が整合性を持たなくなる。「現象」というのはそのような性質を持っている。 それでは、太陽がむしろ中心にあり、その周りを地球が回っているのだという地動説的な解釈は、太陽系の全体の運動をうまく説明するものになっているだろうか。武谷さんは、このような段階をケプラーの段階あるいは「実体論的段階」と呼んでいた。ここではまだ「本質」という言葉は使っていなかった。それはどうしてだろうか。 この「実体論的段階」では、目に見える「現象」の解釈をするのではなく、「実体」としての太陽の大きさ・質量などが考察の対象に入ってくる。地球よりもはるかに巨大な太陽が地球の周りを回る運動をするという整合性に対する疑問が考察の中に入ってくる。この「実体」の性質を考慮することが、太陽が動いているように見えるのは、「ただそう見えているだけ」なのではないかという疑問を生む。「現象」を「現象」として捉えるきっかけをもたらす。 ただ、この「実体論的段階」は、あくまでも現実に存在する「実体」を離れて論理を展開することが出来ない。その判断が適用できる範囲は、あくまでも太陽系という具体的な対象に対するものに限られる。これがケプラーの段階を「本質」と呼ぶことのためらいにつながり、それは「実体論的段階」だと呼びたくなる理由ではないだろうか。「本質」というのは、より抽象的で、より全体を貫く真理として提出されなければならないのではないか。 武谷さんが語る「本質論的段階」は、ニュートン力学の段階がそう呼ばれている。ニュートン力学では、太陽系の運動を、太陽や地球という具体的な「実体」を対象にした記述にはしていない。それは、質量を持つ物質を支配する運動法則として記述されている。質量を持つ物質ならどれでもニュートン力学の法則に従うものとして記述される。この普遍性・一般性が、科学における「本質論的段階」として捉えられている。 世界の捉え方において、運動する物質・すなわち質量を持つ物質というものが存在する世界において、その世界の全体を貫く法則(世界のすべての存在が従う法則)というものがあるなら、それこそがその世界の根本を記述する「本質」だと捉えるのが、武谷さんが語る「本質論的段階」というものになるのではないだろうか。このような理解でソシュールが語る「示差的」という性質が「本質」であるかどうかを考えると、次のような理解になるのではないだろうか。 言語を「現象」的に観察する場面というのは、人間が生活の場面で言語を使うところを観察し反省すればいくらでも「現象」を見ることが出来る。しかし、言語全体を集めた世界を貫く、全体性を持った性質というのは、個々の観察だけでは得られない。まずは現象が観察される「実体」をはっきりさせ、その「実体」から抽象される世界の本質を求めなければならない。世界はどのような存在で構成されているのか。太陽系の運動の例でいえば、ニュートン力学という「本質」に到達するためには、世界を質量を持つ物質の全体として捉えることが必要だったように感じる。言語の世界を実体的に捉えるなら、それは個々の具体的な言語現象にはならず、ソシュールが想定したラング(言語規範として理解されるような存在)こそが言語の「本質」を見るための「実体」的な世界になるのではないだろうか。 そしてこの「実体」のすべての対象に成立する法則として、「示差的である」という記述がされているのではないだろうか。ニュートン力学が、質量を持つ物質のすべてに対して成立している真理であることから、それが「本質」であると理解されたように、「示差的である」ということが、ラングという世界に存在するすべての言語に対して成立しているなら、それは言語の「本質」であると判断できるのではないだろうか。果たしてこれは確認できることになるか。 これは、言語がすでに確立した世界では事後的に確認できる。現在の日本人は、日本語が成立している世界で生きている。おそらく日本語で表現される事柄をすべてくまなく調べてみても、いまある日本語だったらすべて「示差的」であると解釈できるだろう。これは、「示差的である」という性質が「本質」であることの証明になるだろうか。僕にはちょっとした引っ掛かりがある。これだけでは足りないのではないかという思いがある。 事後的に行うのは、どこまでいってもやはり解釈になってしまう感じがするからだ。ニュートン力学が、物質の世界で常に成り立つというのは、我々にとって未知の物質があった場合でも、それが質量を持つものであれば必ずニュートン力学に従うのだという主張が正しいと認めるからこそ、それが真理であり、その真理が「本質」を捉えていると評価するのだと思う。この真理性は、「仮説実験の論理」によって確認されるのだが、「示差的」ということの判断でも、同じように「仮説実験の論理」で確認されるような性質であると考えられるだろうか。 未知なる物質に対応するものは、未知なる言語あるいは未知なる概念ということになるだろうか。それが言語として・概念として確立したときに、必ず「示差的になる」ということが論理的な帰結として求められるだろうか。これは想像が難しい。物質的存在としてそれが未知であっても、それが質量を持っているという前提を想像することは難しくない。そのようなものは十分可能性の世界の中で思い描くことが出来る。 だが、まだ確立していない言語・概念というものは、確立していないだけに思考の対象にもなってこない。ウィトゲンシュタイン的にいえば、思考の限界を超えてしまっている。言語で表現できないものは思考することも出来ない。「示差的である」ということは、事後的に確認は出来るが、論理的な帰結として結論することが出来ない。そうすると、この主張は科学的真理として成立させることが難しくなる。「本質」だと結論することが難しくなるのではないか。 三浦つとむさんは、「差別語」を論じたときに、すべての言語は対象の差異的な面を捉えて表現すると考えた。もし言葉が違うものとして表現をするなら、それは違う言葉によって差異を捉えたことを表現していることになると考えていた。つまり、三浦さん自身も言語というのものは「示差的」であることが本質だと考えていたような面がある。言語で表現するということは、対象の差異を捉えたということを意味する。だからすべての言語は、本質的に「差別語」としての側面を持っているのだというのが三浦さんの主張だった。具体的な言語現象を論じる際に三浦さんとソシュールが同じ主張をしているように見えるのは面白い現象だ。これは、具体的な問題を論じる限りでは、真理を捉えた命題は同じものになるということの現われなのだろう。 「示差的である」ということは、言語現象の「本質」であるように見えるのに、科学的な証明をすることは困難だ。それはどうしても事後的な解釈のように見える。事後的な解釈のように見えるので、「示差的である」ということを極端に主張すれば、すべての言葉の定義は「循環定義」になってしまう。たとえば男を「女ではない」と定義し、女を「男ではない」と定義すれば、これは「示差的」な定義になっているが、この定義によって男の概念も女の概念もどちらも理解されることはない。概念の理解には、どちらかを循環定義に入り込まないようなものとして定義しなければならない。ある辞書では女のほうを「子を産む能力を持つもの」としていたように記憶している。これを一方の定義に使えば、男のほうは、そのような能力がないものとして定義される。 「示差的」というのも、それだけが成立すると考えると論理的に困ることが出てくる。どのような理解をすれば、これが言語の本質だと納得できるだろうか。もう少し深く考えたくなった興味深いものだと思う。
by ksyuumei
| 2008-06-28 10:06
| 言語
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