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ソシュールの命題(主張)の論理的理解

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』には次のようなソシュールの言葉が引用されている。


「もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。」


これは一つの命題として考えられる。この命題は仮言命題の形になっており、「ならば」でつながれている。この仮言命題は、「ならば」の前の条件が成り立つとき、必ず結論が成立すると言えるだろうか。つまり、この仮言命題は真であるということが論理的に確認できるものになるだろうか。それを考えてみたい。



「あらかじめ与えられた概念」とはどのようなものだろうか。ソシュールは、「名付けられることによって、初めてものはその意味を確定する」と考えていたと内田さんは語っている。ここで言う意味とは、そのものが何であるかを示すもの・すなわち概念だろうと思われる。つまり、ソシュールの考えは、ものを名付けることと概念の発生は同時に起こるのだという主張ではないだろうか。ものを名付ける前に、「あらかじめ与えられた概念」はないと考えていたのではないかと思われる。

そうすると上の命題は、ソシュールの考えに反して、「あらかじめ与えられた概念がある」ということを前件としている。これは、一種の背理法を語った命題だと考えられる。つまり後件である仮言命題の結論の方を否定することによって、前件を否定するという論理展開になっている。ソシュールは、上の命題に続けて「しかし、現実はそうではない」と語っているからだ。

上の命題は、「あらかじめ与えられた概念というものはない」ということを結論するために立てられた仮言命題なのだ。この結論を引き出すためには、上の仮言命題が真であることが保証されなければならない。上の仮言命題が真であるからこそ、背理法によってその前件が否定されるのだ。

さて、この仮言命題は本当に真なのであろうか。「あらかじめ与えられた概念」というのは、言語の発生の前の概念として想定されている。言語が発生する前の概念は、どこでも同じものになるという必然性があるだろうか。

もしそのような必然性があるのなら、どこの国でも、言語になる前の概念は同じものが見出せることになる。そして、言語が「あらかじめ与えられた概念」に名をつけるようなものであるなら、同じ概念には、その内容が重なる言語が、別の国語の中にも見出せるだろう。概念が同じなのだから、それを指す語も、意味は同じものになるはずだ。「まったく意味を同じくする対応物を見出す」ことが出来る。

「あらかじめ与えられた概念」というのは、ソシュールはないと思っている。ないと思っているものを想像するという難しさはどのようにして克服すればいいのだろうか。概念というのは、頭の中にある認識の像として構成されているものだと思われる。それは、外に存在する対象を視覚などの感覚で捉えて、頭の中にその捉えた感覚を再現するような象が生まれる。この像の特徴を整理し常に同じ像を結ぶようなものとして概念となるという想像が出来る。この概念を言葉で呼ぶならそのイメージも湧いてくるのだが、言葉で呼ぶ前の「あらかじめ与えられた概念」として想像すると、それはどのようなものになるのだろうか。

これは混沌として得体の知れないもののように見える。もし得体が知れる単純なものであれば、同じものが見えているのではないかという気もする。もしそこに違うものを見て概念化していれば、その違いがどこかで分かっていなければならないのではないだろうか。そうでなければ「違う」という判断ができるという気がしない。だが、もやもやとした、区別する印を持たない概念は、違いが認識できるだろうか。

概念は、言語という印をつけることで区別されるのであって、その印がない概念、もしも「あらかじめ与えられた概念」というものがあるのなら、それは区別のつかない同じ概念になるしかないのではないだろうか。それはある意味では、外に存在する物質の忠実なコピーとしての反映であって、忠実なコピーであるということから同じものにならざるを得ないと結論できるのではないだろうか。

「あらかじめ与えられた概念」というのは、本当はないような気がするが、もしあるとするなら、それはどこで認識されようとも外界の忠実なコピーとして同じ面を見ているのではないだろうか。だから、もし「あらかじめ与えられた概念」というものがあるのなら、そしてそれに名前をつけるということをすれば、どこの国でもその概念に重なる、その概念につけた名前としての言語が見つかるはずだ。というのが、ソシュールが語るこの命題の解釈なのではないだろうか。

あらかじめ存在しているものがあって、そこから「あらかじめ与えられた概念」が生まれ、それに名前をつけるということが言葉の働きだとするのは「名称目録的言語観」とソシュールは呼んでいるらしい。もしこの言語観が正しいのなら、上の命題とあわせて、どこの国の国語であろうとも、その「あらかじめ与えられた概念」に対応する言葉があるはずで、ある国語にはあるが、他の国の国語には見つからないという言葉はないということになる。しかし実際にはそういう言葉がいくつも見つかる。

それは、人間が概念を作るときに、どのような具体的な生活をしているかということが大きな影響を与えるからだ。生活の中で魚が重要な位置を占めている国では、魚という存在の細かい面を見て認識することになり、魚から多くの概念が引き出されて言語化される。この概念は、「あらかじめ与えられた概念」ではなく、言語化することによって概念化されたものだとソシュールは主張する。

生活習慣の違いが言語に反映するということは結果的に分かる。だが、この違いは、概念化においては影響を与えないかどうか。ソシュールの主張は、この概念は言語化することによって同時に概念として成立し、その生活習慣を持っている国の人間が概念として頭の中に持つことが出来るという。この概念は、言語化していない間は、物理的に見ていても、認識としては見えていない。つまり、「あらかじめ与えられた概念」としては成立しないとソシュールは見ている。「あらかじめ与えられた概念」は、あくまでも単純なもので、ぼんやりと大きな違いを認識しているだけのものになっているのではないか。だからこそそれはどの国でも同じものになってしまうはずだと考えているのではないかと感じる。

「あらかじめ与えられた概念」というイメージがどうしても今ひとつうまくつかめない。だから、もしそれがあるとしたらどうなるかという想像がうまく出来ない。結論としては、そのような概念はないのだと言いたいのだが、それが直接はいえない。だから間接的に背理法で「ない」ということを言っているような気がするのだが、「ない」ものを前提にして想像することの困難さを強く感じている。

ソシュールのこの命題が真であると理解しようとしているのだが、とても難しい。もっと簡単に解釈して理解する方法があるのかもしれないが、どうも見つからない。だが、これが真であると認めるなら、次のソシュールの命題とのつながりを見るのは難しくない。


「あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語の持つ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。」


これは具体的には devilfish とエイやタコとの比較で確認している事実だ。「語の持つ意味の厚み」という言葉で語られるそれぞれの国語の語彙の違いが、「概念はあらかじめ与えられているのではなく」ということを、最初の命題から導いているという関係になっている。異なる国語の中に、「まったく意味を同じくする対応物」を見つけられないからだ。

このような論理展開から最終的に結論されるのは、


・概念は示差的である。


という命題だ。これがソシュールの主張の最も重要なものになるだろう。これは、その意味をより詳しく説明すると次のように書かれている。


・概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。


内容によって概念が決まるなら、それは「あらかじめ与えられた概念」として想定できる。ある種の内容を認識して、それが概念を形作るのだと考えれば、言語なしに認識だけで概念が成立する。「あらかじめ与えられた概念」になってしまう。しかし、「あらかじめ与えられた概念」というものがないのなら、概念は、そのように内容で決まるのではないと結論しなければならない。内容で決まるなら「あらかじめ与えられた概念」が出来てしまうからだ。

概念が、言語化すると同時に生まれるものなら、言語化したことによって言語体系(語彙など)の中で、それは他の概念と比較されるものになる。そしてそこに差が認識される。その差こそが概念を形成する決め手になるというのが、「概念は示差的である」という言葉の意味ではないかと思う。この主張は、概念と言語が同時に生まれるということから論理的に導かれてくるのではないだろうか。

ソシュールが語る命題の中で、どうしても最初の命題の論理的な理解が難しい。それが成り立つことさえ確認できれば、その後の命題は、最初の命題の正しさから導かれていくもののように見える。最初の命題の難しさは、本当はないと思っているものがあるかのように想像されるとどうなるかという、実現不可能な事柄の論理展開を伴っているからではないかと思う。もしもっと分かりやすい観点があるのなら、それを学んでみたいと思うが、今の段階ではここまでの思考の展開しか思い浮かばない。

「概念は示差的である」という結論は、今のところは確信を持って納得したとは言いがたい。しかし、正しいのではないかという気持もどこかにある。もし納得することが出来るような、論理展開を追いかけるような理解が出来たら、僕はソシュールの偉大さを深く感じることが出来るようになるだろう。正しいことを適切に語る人間は、偉大な知性の持ち主だと思うからだ。そういう理解に一歩でも近づきたいと思うものだ。
by ksyuumei | 2008-06-27 00:47 | 言語


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