僕は夜間中学に勤務をして今年で18年になるが、その間大部分を日本語を教えるということをしてきた。夜間中学には外国籍の人が多く、まずは普通の会話が出来るようにして、日常生活が送れるようにしなければならないという要求がある。そのために、本来は義務教育の中学校では教えない日本語を教えるようになっている。
この日本語教育はすでに長い歴史を持っているのだが、昔から言われてきたことは、彼らの外国人としてのアイデンティティを大事にしなければならないという主張だった。日本語を教えることは現実的な要求からなので仕方がないが、その事によってアイデンティティを失わせて、日本に同化させるような結果になってはいけないということだった。これは一理ある考え方だが、「同化させる」という内容をどう捉えるかで、もしかしたら不可能な遂行的命題になっていないかということが疑問として湧いてきた。 「同化」ということを、一切の日本的なものを排除して、あくまでも自分の国のものの考え方の枠を守っていくという純粋なものと捉えると、日本語の学習はまったく出来なくなってしまうのではないかと感じるようになった。ソシュールが語るように、言語というのは、それを学ぶことによって認識の仕方や思考の仕方に大きな影響を与え、その言語を使うことによって世界が変わるような経験をする。そして、それが意識せずに行われるところに、その言語を自由に扱うという現象が見られる。意識的にその言葉を使うことを考えながら話している時は、実はそれはその言語を自由に扱っていることにはならない。 言語を自由に扱うには、その言語が規定してくるような制約を忘れて、主観的にはまったく自由だと感じながら言語規範の制約を受け入れなければならない。それが出来ない間は、なかなかその言語が口から出てくるということがない。その外国語を聞いて、頭の中で自国語に翻訳して、聞いたことを理解することは出来るが、いざその外国語で話そうとすると自国語の思考の枠が発話を邪魔するというのは、自分が学んできた英語が、本を読むのならある程度理解できても会話ができないということから、そのとおりだなと感じるものだ。 外国語を学ぶには、その外国語が規定してくるものの考え方にまず同化する必要があるのではないかと思う。そして、同化して外国語がある程度自由に扱えるようになってから、どうしても同化しきれないところがあったときに、それに伴う言い方にこだわるというような態度で学習することが効率的なのではないかと思うようになった。「同化する」ということが悪いことで、最大限これを避けなければならないという前提で学習すると、それはまったく効率の悪い学習になってしまうのではないかと感じるようになった。まずは同化することこそが必要なのだと思う。その同化したことの評価は、外国語が自由に扱えるようになってから考えるしかないだろう。もし同化がいやなら、外国語を学ぶことをあきらめたほうがいいのではないかと思う。 日本的なものの考え方の同化に、人称代名詞の問題があるような気がして、あるときこんな質問をしてみた。日本では、夫婦の間でお互いを「お父さん」「お母さん」と呼んだり、自分の父母を「おじいさん」「おばあさん」と呼んだりすることがある。実際僕もそうだった。これは、自分の子どもから見た見方で対象となる相手を呼んでいることになる。自分から見れば「お父さん」であるのに、子どもから見ると「おじいさん」だから、いつしか自分の父親を「おじいさん」と呼んでしまうことがある。 このような習慣は外国にはあまりないということを聞いていた。実際に中国からきた人にたずねたら、このような言い方はしないという。アメリカ人なども夫婦の間は名前で呼び合うし、夫婦だけでなく、親しい間にある人はお互いを名前で呼ぶようだ。中国では「その子のお父さん」とか「その子のお母さん」というように、子どもの名前をつけたりして呼ぶことはあるそうだが、自分のお父さんじゃないのだから、「その子の」という言葉なしにはそういう使い方をしないそうだ。 だが、長い間中国で暮らして引き揚げてきた残留孤児の一人が、孫が生まれて孫の相手をしている間に、いつしか自分のことを「おじいちゃん」といい、妻のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになったという。その人は通訳をしてくれるほど日本語に堪能になったのだが、中国で生活している間は、すっかり日本語は忘れてしまっていたという。日本で日本語を学び、それが上達するにつれて、やはり日本的なものの考え方が浸透してきたという感じがする。また、そのように浸透したからこそ日本語がうまくなったとも言えそうだ。 日本では子どもの目線で人称代名詞を使うということがある。また、人称代名詞そのものも、辞書的な意味ではすべて「私」と重なるのに、不必要だと思えるくらいたくさんあるような気がする。「私」を意味する言葉では、「おれ」「じぶん」「わし」「わたくし」「あたし」「うち」「われ」「あちき」など、中には方言のようなものもあるが、英語のように I だけで済ますということをしない。「私」という主体はいつも同じなのに、日本ではその「私」が人間関係の中で、どう名乗るのがふさわしいかということを考えながら言葉を使わなければならないという社会の要請があるのではないかと思う。そのために、辞書的には同じ意味なのに、多くの違う言い方が存在するという言語になっているのではないかと思う。 去年の流行語では「KY」と呼ばれるような言葉があって、このKは「空気」という言葉を表していた。日本では「空気」と呼ばれる場の雰囲気を敏感に察知して、その場にふさわしい言葉を使うことが要求される。それが「空気を読む」ということになる。それが出来ないと「空気が読めない」といわれるわけだ。そして、空気を読んだかどうかは、同じ意味であるのに、どのような言葉を使ったかという「言葉遣い」の違いでも判断される。 日本語は、辞書的な意味は同じであるのに、実にいろいろな使い方があり、しかも一つの言い方だけ覚えておけば大体は大丈夫だという便利な言葉が少ない。まったく無関係な人間と、単に買い物をするだけとか、自分の生活に影響のない会話をするのではなく、特定の人間関係を築こうと思ったら、その相手にふさわしい言い方は何かということを知らなければならない。 日本語に敬語の言い方が多いのは、相手をどう思っているかが相手に伝わるような「言葉遣い」があって、その言葉を使うだけで日本ではコミュニケーションが円滑にいくようになっていることが原因しているのではないかと思う。日本はそういうふうに、相手の気持を「忖度」して、自分の気持ちを相手に伝えることを重視する社会なのではないかと思う。だから、そのような配慮に欠ける「言葉遣い」をすると、自分ではそのような意識はないのに、相手はそこから悪意を読み取ったりして誤解されることが多いのではないだろうか。 日本語は一つのことを伝えるのに多様な言い方を用意している。その一つ一つに、その表現をした人間の気持がこまやかに反映する。これは日本語の長所の一つでもあり、文学的表現には実に有効な言語ではないかと思える。一つの表現からさまざまな想像が浮かんできて、そこに込められた人々の気持が多様に伝わってくる。豊かで深い表現が可能な言語として日本語はあるのではないだろうか。また、解釈の余地がたくさんあるために、論理的には曖昧になるという欠点も伴っているかもしれない。 外国人が日本語を学ぶときに「助詞」の使い方が難しいというのはよく言われることだ。これは、「助詞」というものが文法的に存在する言語が少ないので、まったく新しい概念でもあるので難しいということがあるだろうが、辞書的にはどちらの「助詞」でも意味は変わらないのだが、その場にふさわしい「助詞」はこちらのほうだという、「助詞」の使い方の問題も難しさの一つではないだろうか。「が」と「は」の使い分けの問題などは、そのようなものを感じる。多様な表現がある中で、どれを選ぶかというのは、日本的なものの考え方(相手の気持を「忖度」し、自分の気持ちを正しく伝えようとする。しかもそれをあからさまに伝えるのではなく、ほのめかす程度でも伝わるようにするという)が分からないと、どうしてそのような言い方をするかということが分からないのではないだろうか。 これは若い世代では弱くなっているのではないかと感じる人もいるかもしれない。若い世代は、自分たちとは違う世代に対しては、このような言葉遣いの配慮をしていないように見えるからだ。しかし、若い世代は、同世代の間では空気を読むことに神経を尖らしているのではないだろうか。自由にものを言っている人間はあまりいないのではないだろうか。これは、日本語というものの体系(言語規範の特徴)が、そのような特質をもっているため、日本語を使う限り避けられない制約となっているのではないだろうか。 日本語を学習するには、このような感覚の同化がどうしても一度は必要なのではないかという気がしている。そして、もう一つ重要だと感じるのは、今度校内研修でも扱うのだが、「うなぎ文」と呼ばれる日本語の使い方も、極めて日本的な感覚から来るものではないかと思うのでこの感覚にも一度は同化する必要があるのではないかということだ。 「うなぎ文」というのは、蕎麦屋での注文を聞くときに、「僕はうなぎだ」と答えるような日本語の使い方だ。これを文字通り辞書的に解釈すると、人間である「僕」が実は魚の「うなぎ」だったということになってしまうが、日本人でこのような解釈をする人はいない。これは「僕が注文する料理はうなぎだ」という意味で了解される。このような長ったらしい表現が省略されて「僕はうなぎだ」ということになる。 日本的感覚では、相手との関係で分かりきっていることは省略されるというものがある。これが日本語の使い方にも反映される。こまやかな感覚を伝えるために助詞の使い方にも気を使う日本人が、これは分かりきっていると思えば、その言葉を省略して表現しないのだから、外国人には難しいだろう。 英語では「I love you.」という言葉があるが、日本ではこのような言い方はしないだろう。二人きりで男女がいる場合、わざわざ一人称と二人称をつけて「私はあなたを愛している」という日本人はいないだろう。もっとも、「愛している」などという言葉自体も日本人は使わないかもしれないが。それは言葉に出さなくても、目と目を見れば伝わるという感じなのかもしれない。だが、言葉に出して言うならただ「愛している」という言葉だけだろう。「私」と「あなた」という言葉をつけると、何と他人行儀なと感じてしまうだろう。「本当に愛しているのかしら」と疑われてしまうかもしれない。だが英語で I や you を省略することは出来るだろうか。これは出来ないのではないだろうか。 英語は主語というものを絶対的に必要とする言語で、日本語で言えば主語なしに「雨が降っている」という状況の表現だけですむのに、「 It rains.」と、「It」という主語がなければならないという。これがおそらく英語という言語が規制してくる「ものの考え方」なのだろうと思う。 ソシュールが言うように、言語というのは人間が世界をどう見るかという認識に大きな影響を与えてくる。ある言語を使うということは、その言語を身につけた人間の世界を規定してくる。自由に世界を認識し思考しているわけではない。それは本当なのではないかと思う。この規制は、言語を自由に扱える人間にはまったく意識されないので、言語が自由であることが思考の自由さを奪っているとも言える。それを意識化できるようにするには、言語というものの働きを再帰的に反省したときだけだろう。その点に注目したのがソシュールであれば、同じような問題意識を持っている人間には、ソシュールの主張はたいへん参考になり、その優れた面を理解できるようになるのではないかと思う。僕はいま問題意識が重なっているのではないかということを感じている。ソシュールの優れた面が発見出来そうな気がしている。
by ksyuumei
| 2008-06-26 09:59
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