マル激では、神保哲生・宮台真司の両氏がその週のニュースについてコメントをする時間が最初にある。本編の議論に入る前に、今日本で起きているさまざまな出来事の中で、流通している情報とその解釈に対して、それは違うのではないかという注意を向けるようなコメントをそこではしている。今週もいろいろなニュースを扱ったが、それに共通するものとして、「事実と解釈」というものが頭に浮かんできた。さまざまなニュースの中で、そこで語られていることのどれが「事実」で、どれが「解釈」に過ぎないものなのかを見分けるリテラシー(読解能力)が重要ではないかと感じた。
「事実」というのは論理的に言えば「真理」と重なるものだろうと僕は思う。それは、それを言語として語る命題と、その命題の内容が現実に成立しているということから、「事実=真理」だと判断される。それに対して、「解釈」のほうは、現実に成立しているかどうかがまだ決定されておらず、現実に成立している事柄を、我々がどう受け止めているかという、我々の認識の方を指す概念だ。 だから解釈の方は、それが「事実」として確認されれば「真理」と呼ぶことが出来る。「事実」はわれわれの外の世界に対する判断であり、「解釈」は我々の頭の中(認識)に対する判断だと言っていいだろう。 この「事実」と「解釈」はウィトゲンシュタイン的な「事実」と「事態」に重なる概念ではないかと僕は考えている。「事実」とは、ウィトゲンシュタインでも現実に起こっている事柄を指すので、僕が考える「事実」と同じものになる。「事態」のほうは、ウィトゲンシュタインでは、論理空間における可能性を語る命題として提出されていた。それは現実にはまだ起こっていないが、起こってもいいものとして可能性を持っていた。その可能性は、「名」の論理形式から判断される、表現可能な命題を作ることによって得られる。 ウィトゲンシュタインの「事態」は、論理空間に含まれる「名」を使って、それが言語として表現できる形式を作ることによって命題として語られていた。こういうことが起こってもいいだろうというような命題だ。これは、「解釈」という言葉の辞書的な意味に重なるものだ。 ウィトゲンシュタインにおいては、論理空間が持つ性質を分析するために、「事実」一般や「事態」一般を考察することが重要なものになっていた。具体的に「事実」を確定したり、どれが「事態」であるかという説明はなく、ある意味では理論の全体にはそれは必要ないものとして考察されていなかった。 これは、思考の限界を求めたいという目的からは整合性のある扱いかただと思う。だが、「事実」と「事態」(解釈の結果得られた命題)を、現実世界で具体的に区別してみようとするのは、ウィトゲンシュタインの目的と外れてしまうが、現実の受け止め方を反省するのに役立つのではないかと感じる。現実に目の前に起こった出来事の、自分が見ている側面を判断したとき、その判断が果たして「事実」に当たるものなのか「事態」(解釈)に当たるものなのかを自覚することは、現実認識において正しい判断に結びつくのではないだろうか。 マル激で語っていたニュースで印象的だったのは、グリーンピースを巡って起こった鯨肉の持ち出しの事件だった。僕は、いま慎重に「持ち出し」という言葉を使った。しかし新聞などでは、「窃盗」などという言葉で報道されているものもある。僕は、「持ち出し」は「事実」ではあるけれど、「窃盗」は「解釈」だという判断から、自分の表現する文章では、あの事件を語るときに「窃盗」という言葉を使わずに、「持ち出し」という言葉を使った。 多くの人は、この事件の「事実」と「解釈」をどのように区別して受け止めているだろうか。「窃盗」というものを「事実」だと判断している人もいるだろうか。「グリーンピース部長 鯨肉窃盗罪「成立せぬ」 開き直り、専門家は「犯罪」」という報道を読むと、ここからは「窃盗」であるということが「事実」のように感じられてしまうのではないかと思う。 まずは表題そのものに「開き直り」などという言葉が使われていれば、グリーンピースの主張のほうが間違っている・無理があるという予断を生むのではないかと思う。果たしてそうだろうか。この記事では、「法の専門家らからは「窃盗罪に当たる」という厳しい見解も。告発のために宅配荷物を勝手に取り込んだ行為を「やむを得なかった」と開き直る姿勢が、裁かれることになった」と語られているが、これはまったく違う解釈も出来る。 宮台氏が語る解釈は次のようなものだ。まずは、グリーンピースの行為と関係なく、鯨肉を「お土産」にするような調査捕鯨船の乗組員の行為に、まったく違法性がないと言えるかどうかという解釈を考える。なぜそのようなことが行われていたか、という説明に整合的で納得するような理由がされているのだろうか。 「<グリーンピース>横領告発は不起訴処分に 東京地検方針」というニュースによれば、「お土産」行為は違法性がないと判断されたらしい。だが、その根拠となっているのは、このニュースを読む限りでは、「乗組員には鯨肉数キロを土産に持ち帰る慣習があった」としか書かれていない。これを宮台氏は批判していた。 合法か違法かということの根拠に、「慣習」を持ってくることは論理的には整合性がない。合法か違法かという判断の決め手になるのは、それによって誰かが不当な損害をこうむるか、あるいは不当な利益を得るかということなのではないだろうか。「慣習」があったとしても、それが不当な利益・不当な損害に関わるような「慣習」であれば、そこに違法性がないかどうか調べるということが公正な態度ではないだろうか。 もし「慣習」だということで許されるなら、宮台氏は次のような「慣習」のたとえを語って、その論理的なおかしさを指摘していた。ある家族の「慣習」として、おじいさんやその先代の頃から、「欲しいものは何でも取って来る」という「慣習」があった場合、それは昔からやっていたのだから「許される」という論理は果たして成立するだろうか。それは、今になって違法だと判断されたのではなく、昔から違法だったのだが、何らかの理由で見逃されていただけだったと判断するのではないだろうか。 「慣習」だということだけではそれが合法だという根拠にはならない。「合法だ」ということは「事実」にならないのだ。単に「解釈」をしているだけに過ぎない。もしこれが違法だという「解釈」をした人がいたら、当然それを告発して調べろと主張するだろう。 告発を合法的に行うなら、それは警察などに、その疑いがあるから調べるようにと働きかけることになるだろう。しかし、その働きかけに警察などがまったく動かなかったらどうなるだろうか。特に、調査捕鯨という行為は、ある意味では国家の意志を受けた行為でもあるから、警察に告発したとしても、国家の一機関である警察が国家を告発するような動きを見せるかどうかは疑わしい。 宮台氏は、もし警察に通報して倉庫を調べるようにと言っても、それを逆に利用されて情報が流され、証拠が挙げられる前に手を打たれてしまうという可能性にも触れていた。そのような状況のとき、たとえ違法行為であっても、より大きな違法行為を告発するためにあえてそのようなことを行うという自己決定もありうるという解釈もまた宮台氏は語っていた。 このように、グリーンピースの行為は、まったく正反対の解釈をすることも出来る。このようなものに対して、「窃盗」が事実であるという主張をすることは出来ないだろう。だが、マスコミの報道は「窃盗」が事実であるかのように錯覚させるような書き方をしているのではないだろうか。 「グリーンピース部長 鯨肉窃盗罪「成立せぬ」 開き直り、専門家は「犯罪」」という記事においても「開き直り」「専門家は「犯罪」」という言い方からは、「窃盗」という判断こそが正しい、つまりそれが真理=事実であると言っているように聞こえる。 この記事には、最後に「これに対し、龍谷大法科大学院の村井敏邦教授は「外形的には窃盗に当たるが告発のためやむを得ずやったという行動が正当行為にあたり、違法性が阻却されるという議論はありうる」との見方を示している」という、専門家の意見を載せてはいるが、この意見だけではどこに「正当性」があるかということは説明されていない。これでは、宮台氏が語ったような議論を自分で考え出せる人しかこの意見に賛成できないだろう。 他の専門家の意見は、「何か目的があって盗んだということで(窃盗罪の構成要件である)『不法領得の意思』が認められる。社会的相当な行為として違法性が阻却(そきゃく)されることはない」」とか「令状がない時点で正当行為は成立しない。こんな身勝手な行為を許したら世の中がどうなるか。的外れとしか言えない」というふうに、それだけ読めばある意味では理由も納得できるようなコメントとして書かれている。おそらく、情報をあまり知らない人間は、このコメントのほうに説得されて、グリーンピースの行為のほうを「窃盗」だと判断してしまうだろう。 神保氏と宮台氏が語っていたのは、これはどちらも「解釈」であって、「事実」としては決定出来ていないという指摘だった。それならば、どちらの解釈も同等なものとして提出するのがフェアであって、どちらかの解釈が説得力があるかのような書き方をするのは、非常にアンフェアであるという主張をしていた。公正さを欠いているという指摘だった。僕もまったくそのとおりだと思う。 この議論を聞いて僕の頭に浮かんできたのは、「窃盗」という判断は、肯定的な解釈も否定的な解釈も出来る。二項対立が決定出来ない。そのようなものは、それだけでは「事実」になることは出来ず、「解釈」にならざるを得ないのではないかということだ。 これに対し、グリーンピースのメンバーが鯨肉を「持ち出した」という判断は、これは肯定・否定の二項対立に決定的な判断が下せるのではないかと思う。誰も「持ち出していない」という判断は出来ないだろう。「持ち出した」という判断は、すべての人がそう判断する。このような判断が成立する命題は、「事実」として語ることの出来る命題ではないかと思う。 二項対立に決定的な判断が下せる時は、その命題は「事実」として確認でき、二項対立に決定的な判断が下せない時は、その命題は「解釈」として「事態」にとどまると言えるのではないかと思う。 それでは「解釈」は永遠に「解釈」にとどまり、それが「事実」になることはないのだろうか。「解釈」が「事実」になることはあると僕は思う。それは、「仮説」が「科学」になるという過程に似た手順を踏めば、「解釈」が「事実」になるのではないかと思うからだ。「解釈」を「事実」にする決め手は論理ではないかと思う。論理の力を借りることによって「解釈」に過ぎなかったものが「事実」として判断されることがあるのではないかと思う。それは、項を改めて考え論じてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2008-06-24 00:26
| 雑文
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