内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)でのソシュールの解説には、次のような文章が引用されている。
「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」(『一般言語学抗議』) この文章に関しては三浦つとむさんも『言語学と記号学』(勁草書房)の中で批判的に取り上げている。それは、唯物論の立場からの批判で、ソシュールの主張は観念論的妄想だというものだった。上の文章では、「言語は思想の「無定形の不分明なかたまり」に区切りを作り出し、区別を与えるかのように受け取れ」、「言語とはこの区切りのあり方(すなわち構造それ自体)であるとか、さらには思想のみならず現実の世界に区別を与える機能を持つとかいう解釈」が観念論的妄想に見えるという批判だった。 しかし内田さんが語る文脈で、上のソシュールの言葉を理解すると、三浦さんが指摘するような観念論的妄想のようには見えなくなる。ソシュールが主張したことは、言語の成立によって存在が出現したというような観念論的妄想ではないように僕は感じる。その程度のものであれば、誰もがその間違いを悟り、ソシュールに学ぼうなどという人間はいなくなるのではないか。 ソシュールの主張は、言語の成立が同時に、思考の展開という論理の出現をもたらしたというものではないかと、内田さんの文章を読んだときに感じた。それは現実の物質的存在を生み出したというものではないのだ。現実の物質的存在を、論理的な思考において操作できるようにしたのが言語のもつ機能なのだというふうに受け取った。それは、野矢茂樹さんによって学んだウィトゲンシュタインの主張につながるようなものだったので、そのように解釈すれば、ソシュールも間違っていないのではないか、むしろ鋭く言語というものの特長を捉まえているのではないかと思えたのだった。 内田さんの文脈では、ソシュールの上の文章は、外国語との対比において、その概念が国語の中にないような言葉がどのように思考に影響を与えるかという話から展開されている。 devilfish(悪魔の魚)という概念を持っている英語話者は、ウィトゲンシュタイン的な「名」としてこの単語を持つだろう。そうすれば、この「名」の論理形式によって論理空間を作ることが出来る。しかし、日本語話者は、物質的存在として devilfish に対応しているエイやタコは概念として持っている・すなわち日本語の論理空間ではその物質的存在に対応する「名」はあるものの、英語話者が作る論理空間と日本語話者が作る論理空間では、この「名」の違いが論理空間の違いももたらす。 英語話者は、devilfish と「不安」という言葉を結びつける論理形式をもっているかもしれないが、もともと devilfish という言葉を持たない日本語話者は、そのような論理形式を持ちようがない。つまり思考の範囲はまったく違うものになってしまう。ウィトゲンシュタイン的に言えば、「世界」が違うのである。 思考内容というのは、人間が考えた事柄と言い換えることが出来るが、これはいったいどのようなものを指すのだろうか。ウィトゲンシュタインは、これは言語によって表現される論理空間だと考えたようだ。だから、言語によって表現できる範囲が思考の限界でもあると考えたのだろう。意味のある表現をすべて集めたものが論理空間ということになる。 ウィトゲンシュタインにとっては、思考は言語がなければ展開できないものになる。これは基本的に論理の展開こそが思考だと定義したからだ。論理の展開は言語なしには行えないのだ。現実に起こったことと、現実に起こるかもしれないことの両方を合わせて表現したものが、ウィトゲンシュタインにおける論理空間になる。現実に起こったことは「事実」と呼ばれ、起こるかもしれない可能性にとどまっているものは「事態」と呼ばれる。 この可能性は、現実の事実として遂行的に行うのではなく、現実の像を操作して空想的に頭の中で行うところに、現実性ではない可能性の範囲のものだという判断が出来るものになる。「事態」を表現する論理空間において、操作する対象である像の存在は決定的に重要なものになる。これは、単純なものであれば、象徴的な代替物でも用が足りるが、複雑な展開を必要とするものは、言語という像がなければ、思考の中で操作することが出来なくなる。これがウィトゲンシュタインが考えたことだった。 言語なしの思考というものを想像するとどんなものになるだろうか。動物は果たして思考をするだろうか。思考を論理の展開と考えると、動物にはそれは出来ないのではないかと僕は思う。だが、現実世界を外界の刺激として認識するというものも思考の中に含めれば、動物的な思考というものも想像できるかもしれない。それは、現実の今の瞬間を感覚で捉えた認識という感じになるのではないだろうか。 たとえば今「晴れている」という認識を考えたとき、動物にはこのような言葉はないから、どのような感覚のときに「晴れている」と感じられるかを考える。それは、皮膚感覚として雨粒が当たらないとか、太陽の熱や光を感じているとかになるだろう。その感覚の状態を「晴れている」という判断だと想像することが出来るかもしれない。そのような想像をすると、動物でも現在を受け止めて、現在がどうであるかというような思考は出来るかもしれないという感じはする。 しかし、動物に過去や未来を思考することが出来るだろうか。今「晴れている」という状態であっても、昨日は雨が降っていた・つまり「晴れていない」という状態だったかもしれない。だが、今の状態は感覚として判断できるが、過去の判断を記憶として動物は持っていられるだろうか。たとえば、動物がいつも同じ餌場を訪れたりするのは、過去の記憶を保持して、そこに餌があるということを論理的に思考してそのような行動をとるのだろうか。動物の頭の中の映像を見ることは出来ないので、あくまでも想像するしかないが、論理的な判断でそのような行動をとっているのではなく、本能的なものではないかと僕は感じる。 過去の記憶の保持に関しては、保持しているように解釈できそうな現象も見つかるが、未来に対する思考に関しては、動物にはそれは不可能ではないかという気がする。未来に対する思考は、言語をもたなければ出来ないのではないか。過去の記憶なら、感覚に一度は刻み込まれるが、未来の出来事は、感覚に刻むことは出来ない。それは頭の中に像を作る以外に持ちようがない思考だ。果たして動物は頭の中に、目の前に存在しない像を見ることが出来るだろうか。言語があればそれを見ることが出来る。しかし、言語がなければ、いったい何を頼りにして未来を見ることが出来るだろうか。 未来は、感覚的な目の働き(視覚)では絶対に見ることが出来ない対象だ。同じように、感覚的な目の働きでは見えない対象として、内田さんは星座について語っている。星自体は物質的存在だから、視覚に異常がなければ、目の働きとして星を見ることは出来る。しかし、そこに星座があるということを見るには、星座の概念を持たなければならない。この星座の概念は、「星座」という言葉を持たない人々が、星という物質的存在を眺めているだけで獲得できるものだろうか。 物があってそこから概念が生まれるというのは、一見唯物論的な言い方で正しいように感じる。しかし、これは存在しているものに名前をつけるという言語観に通じるものになるのではないか。物の存在を前提として新たな概念を作ったとき、その概念はまったく新しい未知のものではないのではないだろうか。その物は、ある種他の概念でも語られていたものだが、その概念に別の概念が合成されて新たなものとして設定されているのではないだろうか。 宮台氏は、「社会」という概念は、フランス革命後に生まれた新しい概念だと語っていた。それまでも、不特定多数の人々が集まっているような、人間集団という存在はいくらでもあった。しかし、それだけでは言い表せない特徴を持った人間集団が現れて、それまでの概念では捉えきれない部分が出てきた。フランス革命では、人々が良かれと思い、多くの人が賛成した政治の方向が、結果的に多くの人を不幸にしたということから、個人が単に集まっただけではない、不可視のよく分からない特徴を持った人間集団が出現した。これを「社会」という言葉で呼んだという。 この「社会」という言葉は、物質的存在として新たに出現したので、そのような概念が生まれたのだという意味では、存在が先であって概念が後に生まれたように見える。しかし、「社会」という言葉が出現するまでは、「社会」を思考の対象にして論理を展開することは出来なかった。それはよく分からない対象として見えているだけだった。人の集まりだけであるように見えて、人の集まりだけでは解釈しきれない。それを「社会」と認識することによって、「社会」という対象を論理的に考えることが出来るようになったと僕には思える。「社会」という存在は、社会学の誕生とともに、「社会」という言葉の誕生とともに、我々の思考の対象になったと言えるのではないだろうか。 このような文脈でソシュールの言葉を受け取ると、内田さんがまとめている次の言葉が整合性を持つものとして理解できるような気がする。 「言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満点の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に(これは本では「に」になっているが「を」の誤植ではないかと感じる)切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。」 ソシュールが語った「星雲のようなもの(星雲状の世界)」というのは、概念が明確になっておらず、思考の対象に出来ていない「世界」というものではないかと思う。この世界に、言語を与え・すなわち概念化することで、対象が思考の中に入ってくるというのが、「名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです」ということではないのだろうか。これは、言語によって観念が存在するようになることを主張しているのであって、物質の存在が生じることを主張しているのではない。観念論的妄想ではないのだ。ウィトゲンシュタインが言うような「名」の論理形式を与える(これが「概念化する」ということになるのではないだろうか)ことが、対象を論理の世界に引き込むことになるという主張ではないかと感じる。 僕は、直接ソシュールの言葉を解釈してこのような理解を得たのではない。内田さんが語るソシュールを理解して、なるほどそのとおりだなと感じただけだ。内田さんが語るソシュールのほうが、その論理展開を理解しやすいと思える。それが内田さんのわかりやすさだと思う。そして、内田さんが語るソシュールが、ソシュールが本当に語りたいことを適切に伝えているのなら、ソシュールはきっと正しいことを語っているのだろうなと感じる。そこに整合性を感じるからだ。
by ksyuumei
| 2008-06-17 00:55
| 内田樹
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