パラドックスという言葉は辞書的に解釈すれば、逆理ということになり、理に反することを主張していると受け取られるような言説を指す。語源的にもパラドックスは、通説(ドクサ)に反する(パラ)というギリシア語からきているらしい。このような曖昧な定義にかなうような現象は現実にたくさん見られることだろう。
たとえば今は幼児教育が盛んな時代だが、小さいころから習わせておかなければ、大きくなってから教育するのでは遅すぎるという「通説」がある。しかし一方では、小さい頃に神童と呼ばれていた子どもも、大人になってただの人になることがむしろ多い。大器晩成という現象もたくさんある。これは、素質と才能だけでトップを取れる事柄というのは、どちらかといえば単純で簡単なことが多いので、そのような分野であれば他の子どもが経験していないことをいち早くすることによって、小さい頃に神童と呼ばれるような輝きを示すことができるということに過ぎないのだろうと思う。本当に難しい偉大なことというのは、それなりの経験をつんで訓練しない限り本当の実力が身につかないということだろうと思う。 このような現象を、辞書的な意味を適用して「幼児教育のパラドックス」と呼ぶことも出来るだろう。通説に反して、小さい頃から教育をしなくても大器晩成の偉大な人物が生まれるなら、「ドクサ」に「反した」事柄が生まれたと言っていいからだ。だが、このようなパラドックスは、論理としてはそれほど深刻なものをもたらさない。それは、単に通説が間違っていたからだという解釈をすることが出来るからだ。 パラドックスは逆理なのでしばしば矛盾を導くことがある。矛盾というのは、ある前提を置いたときに、その前提に反する結果が導かれることを言う。ある言明の肯定と否定が同時に成立するとき、それは矛盾していると言われる。この矛盾を回避するには、前提とした事柄を否定して、否定のほうが正しいと結論付ければ、論理的な矛盾は解消される。これが「背理法」と呼ばれる証明法になる。前提の否定が出来るパラドックスは、パラドックスとしては解消されて、「背理法」による証明という受け取り方をされる。「幼児教育のパラドックス」も、通説である前提を否定することによって、このパラドックスを「背理法」として解消することが出来るだろう。 多くのパラドックスは、「背理法」として解消することが出来るのではないかと思う。数学snobさんから「論理トレーニング 25 (論証の構造と評価)」のコメント欄で「エピメニデスのパラドックス」がパラドックスではなく「もどき」なのではないかということが指摘されていた。パラドックスは、その仮言命題の前提をどのように解釈するかで、前提を否定できる「背理法」に解消できるので、「背理法」に解消できるものは「パラドックスもどき」だという解釈が出来るだろう。 「エピメニデスのパラドックス」はウィキペディアの「自己言及のパラドックス」に詳しく説明されている。「クレタ人は嘘つき」だということを、クレタ人であるエピメニデスが語っていることからパラドックスが生じてくる。 このパラドックスの中心になるのは、「クレタ人は嘘つきだ」という言明がもし正しいとしたら、この言明が正しくなり、「クレタ人は嘘つきではない」という、この言明の否定が同時に成り立ってしまうところに矛盾が導かれるというところにある。このパラドックスが「背理法」として回避できるなら、これはパラドックスではなく「もどき」になるのだが、単純に「クレタ人は嘘つきだ」ということを否定して「背理法」が完成する構造になっていないところに論理的な難しさがある。 もしこれが単純に「背理法」として成立するならば、「クレタ人は嘘つきではない」ということが一般的に成立しなければならない。なぜならそれは「背理法」という方法で論証したものになるからだ。しかし、これが一般的に成り立つということには違和感を覚えるだろう。クレタ人の中にも嘘つきがいてもいいと感じるし、それが普通だからだ。嘘つきもいるだろうし、嘘つきでない人もいるだろう。もっと細かいことを言えば、同じ人が、ある時は嘘をつき、ある時は嘘をつかないというのが一般的な現象になるだろう。 そうすると、このパラドックスを解消する「背理法」では、いったいどのような前提が否定されるのだろうか。その一つとしては、「嘘つきは常に嘘をつく」という「嘘つき」という言葉の定義に関する前提が考えられる。「クレタ人は嘘つきだ」という言葉を解釈するとき、クレタ人であるなら常に嘘をつくという解釈をすれば、この言葉を語ったエピメニデスもクレタ人なので、この言明も嘘だ、つまり真ではないという解釈になる。そうすると矛盾が導かれてパラドックスが生じる。 しかし、嘘つきも常に嘘をつくのではなく、時には本当のことを言うと解釈すれば、ここからパラドックスは生じない。エピメニデスが、たまたま嘘つきのクレタ人に出会うことが多ければ、「クレタ人は嘘つきだ」という感想を語ったとしても、これが事実に反しているとはいえなくなる。「嘘つきは常に嘘をつく」という前提が否定される背理法として解釈すると、このパラドックスはパラドックスではなくなる。 「嘘つきは常に嘘をつく」ということが本当に一般的に否定されるのか、ということに疑問を感じる人がいるかもしれない。しかし「常に」という言葉は、「すべて」を指す言葉になるので、現実の対象に対して言及する時は、これが真であるということは言えなくなる。なぜなら、嘘つきが常に嘘を言うためには、それが嘘であることがあらかじめ分かっていなければならない。つまり、何が真で何が偽であるかがすべて把握されていなければ、常に嘘をつくことが出来ないのだ。すべての真理が決定されていなければ常に嘘をつくことが出来ない。そして、すべての真理が決定されていないこと、人間にはそれが把握できないことは、一般的にはゲーデルが証明した不完全性定理で主張されていることになるのではないかと思う。だから、「嘘つきは常に嘘をつく」という命題は、一般的に論理的に否定されると言っていいのではないかと思う。 「クレタ人は嘘つきだ」という言葉を、クレタ人ではない他の人間が語った時は、このパラドックスはどのような解釈となるだろうか。この場合は、単なる感想として受け取られるなら何も問題は生じないだろう。その人が出合ったクレタ人との接触が、常に嘘つきの現象を伴っていたのなら、その人の経験の範囲では「クレタ人は常に嘘をついた」と言ってもいいだろう。これが、一般的に「クレタ人は常に嘘をつく」という全称命題にまで判断の範囲を広げるなら、嘘つきでないクレタ人が一人でもいれば、その全称命題の判断が間違えていたということになる。つまり、単に誤った判断をしていたということになるだけで、パラドックスにはならない。ここでも「嘘つき」という言葉の解釈が命題の真偽に関わってくる。 このエピメニデスの命題は、エピメニデス自身がクレタ人であることが本質的に重要なものであることが指摘できる。このパラドックスを、論理的により完成されたものにすれば、先に紹介したウィキペディアのページにあるような「自己言及のパラドックス」と呼ばれるものになる。それは 「この文は間違っている」 という主張で表される。この命題は一般論的な全称命題ではなく、個別的な「この文」を取り上げているが、この命題が正しいと仮定すると、結論として「この文」が間違っていることが導かれる。肯定と否定が同時に成立してしまう。また、矛盾が導かれたので、この前提を否定して「この文」が正しくないと結論してみると、「間違っている」が否定されるのだから、「間違っていない」ということが導かれる。つまり正しいということになり、この場合も肯定と否定が同時に成り立ってしまう。 このパラドックスは、言葉の解釈によって回避することが出来ない。どのような解釈をしようとも逆理になってしまう。これこそが、論理においては深刻なパラドックスといえるだろう。このパラドックスはどのように回避されるだろうか。これを「背理法」だというためには、何らかの前提を否定しなければならないのだが、その否定されるべき前提とはどのようなものになるだろうか。 それは、ウィキペディアにも書かれているように、すべての命題の主張において、自己言及をするようなものも全部認めてよいというような前提が否定されなければならないということになるだろう。ある種の自己言及命題は排除されなければならない。パラドックスを引き起こすような自己言及命題は、論理の対象から捨て去ることによってこのパラドックスは回避される。 これは何となくご都合主義的に、パラドックスを生まないために姑息な手段を講じたようにも感じてしまうところがある。都合の悪いことは考えないようにしようというような印象を受ける。実際に、新しいパラドックスに遭遇したときに、いつもこのような工夫をして回避することも出来るような気がしてしまう。このような解決法は、果たして本当の解決法になっているのかどうか。一つの理論体系、たとえば集合論という数学において、ラッセルが提出したタイプ理論のようなものであれば、回避の工夫として理解できるかもしれない。だが、論理という全体像からこの回避方法を眺めると、これだけが回避の方法だというのにはためらいを感じる。 野矢茂樹さんによれば、ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、この回避方法とはまったく違う発想でラッセルのパラドックスを解決することに成功したという。それは、論理一般における「自己言及のパラドックス」の解決と呼んでもいいような感じがするものだ。それは十分に納得することが難しいものでもあるので、今一度よく考えて、その解決法をまとめてみようと思う。そうすることによって、パラドックスとは何かという本質がつかめるのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-04-15 10:12
| 論理
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