論理トレーニングの応用として、優れた言説がいかに優れているかという、もっと建設的な分析もしてみたいと思うので、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の中から、ソシュールに関する章を取りだして考察してみようかと思う。
僕はソシュールに関しては、まずは三浦さんの批判からそれに接した。三浦さんの批判は、ソシュールの観念論的側面と,表現としての言語ではなく,言語規範という認識(表現ではない)を言語と呼んでいた側面からのものだった。これはかなり説得力があり、当時は唯物論に基本的な正しさを感じていたこともあって、三浦さんの批判を読んだだけでソシュールについてはそれほどの関心を引かれることがなかった。 しかし、唯物論というものが、対象を見る際の一つの視点に過ぎないもので、唯物論だから正しいとは必ずしも言えないということが論理的に反省できるようになると、ソシュールに対しても、唯物論の観点からのものや言語規範を言語と呼ぶ側面だけからその評価をすることに疑問を感じるようになった。ソシュールにはもっと他の側面もあるのではないかという感じがした。ソシュールは構造主義の開祖だと言われ、当時の最高の知性の持ち主たちから高い評価を得て、歴史にその名を刻んでいる。そのソシュールが、単純な批判で乗り越えられるほど軽いものかという気がしたのだ。 これは三浦さんの批判が軽いものだというのではなく、その批判を読んで、すぐに納得してしまった自分の理解が浅かったのではないかという思いがしたわけだ。ソシュールが本当はどのようなことを主張していたのか知りたいと思った。三浦さんの批判だけでは触れていないことがあるのではないかと思った。ソシュールが捉えた言語の謎は、どのような論理構造をしているのかが知りたくなった。それが多くの優秀な知性の共感を呼んだのだろうと思うからだ。 ところがソシュールに関して書かれたものはどれも分かりにくいものだった。ソシュールが直接語ったと思われる記録もあるが、これもその内容を受け取るのは難しかった。結局、ソシュール自身が何をどう考えていたのかというのが僕にははっきりとは分からなかった。これではどうにも評価のしようがないと思っていたところに、内田さんの『寝ながら学べる構造主義』の中のソシュールに関する記述を見つけた。ソシュールに対する初学者であっても、ソシュールがどれだけすごいことを語っていたか、ソシュールの考えの優れた面をこれだけわかりやすく書いてくれている文章は初めて見たという感じがした。 内田さんによってソシュールのすごさが初めて分かり、ソシュールを高く評価することができるようになった。そして、そのすごさを伝えてくれた内田さんは、やはり優れた人だなと、内田さんに対しても高い評価ができるようになった。内田さんが語るソシュールのすごさは、一点に絞られているが、それは次のように語られている。 「ソシュールの言語学が構造主義にもたらした最も重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「言葉とは、『ものの名前』ではない」ということになるでしょう。」 この指摘がなぜすごいかは説明を要するが、その説明がここでは語られていて、それが非常にわかりやすい論理構造を持っている。内田さんは、このあとの説明で言葉が「ものの名前」だと思う見方が聖書に典型的に記されていることを例に挙げている。それは、まだ名前を持たなかったもの(存在)たちに、アダムが名前をつける行為を指している。そして存在が先行している物質に対して言語が生まれるという,一見唯物論的な主張を批判する。 このような考え方をすると、ものとその名前の間には必然性はなく、恣意的に適当な名前がつけられたとするしかなくなる。実際、言語体系として違う言語を使っている国では、物質的には同じ対象であるのに、まったく違う単語で呼ばれている。 この、同じ対象を違う名前で呼ぶということは、たとえば「犬」という存在を英語では「dog」と呼んだりドイツ語で「Hund」と呼んだりすることを指す。これは,どうしてそう呼ばれるかという歴史的な考察はできるかもしれないが、言語一般の特質としては、どうしてもそう呼ばなければならない理由はないので、上のような考察が正しいような気がしてくる。 だが、このように言葉が「ものの名前」であれば、言葉よりもものが先行して、名付けられないものがそこにあると考えなければならなくなる。ものの存在が先行しているからこそそれに名前がつけられるというのが論理的な構造だろう。そしてそれが国によって違うという事実がそこにあるということが見られる。このことにソシュールは疑問を提出したようだ。 内田さんは羊に関する言葉で、英語の「sheep」とフランス語の「mouton」を比べている。「sheep」は、動物としての羊を意味し、家畜として動き回っているものの名前になる。そしてそれは「mouton」でも同じように、家畜としての羊を指す名前になっている。しかし、「mouton」の方は,食卓に出される羊肉の意味も持っている。肉としての羊に関しては、英語では「mutton」という「sheep」とは違う言葉を使う。名前が違うのである。 このとき、英語話者が「sheep」といい「mutton」という時の物質的な対象と、フランス語話者が「mouton」という時の物質的な対象は、名付けられる前のものとしては同じものだと言えるだろうか。英語話者は、生きている羊と肉になっている羊では、違うものとして見ているのではないだろうか。フランス語話者はそれを同じものとして見ているので同じ言葉で表現しているのではないだろうか。 名付けられる前のものが違う存在ではないかという疑問は、英語の「devilfish」という言葉でもっとはっきりと見えてくる。これは、動物としての対象でいうと「エイ」と「タコ」を指すらしい。しかし、英語には「エイ」には「manta」、「タコ」には「octopus」という言葉がある。つまり動物としての存在には、記号としては違うが日本で「エイ」と「タコ」として区別するような区別がある。 しかし、この両者に「忌まわしい静物」という認識を伴って名付けられると「devilfish」という名前がつけられる。日本では、そのようなイメージがこれらの動物にはないので、「devilfish」と呼ばれるような存在は、名付けられる前にもどこにも存在しないのではないかと思われる。これは英語話者の頭の中にしかない概念で、たとえ動物としては一致しても、日本語話者にとっては、それは存在しないものではないかと思う。 だが「devilfish」は、英語を学ぶ日本人にはそれが見えてくる。英語を学ぶことによって、いままで存在しなかった「devilfish」が存在するようになってくる。ものに名前をつけるという行為は、名付けられなかったものがそこにあって、それを発見したときに恣意的にそれに名前をつけたのではなく、それが人間の生活にとって重要性を持ったときに、初めて存在として認識され、それが社会的に共有される必要が生じたときに、言語として生まれたと考えた方が合理的なのではないかと思う。つまり、存在が先行してそれに名付けられるのではなく、名付ける必要が生じたときが、それが存在として認識されたときであり、人間に対するものとしての「存在」と名付けるという「言葉」は同時に生まれたと考えた方が合理的ではないかということだ。 認識されるより前にものが存在しているというのは、唯物論にとっての大事な基本テーゼなので、このような主張は、それにまったく反する観念論的な主張のように見える。唯物論からは批判されざるを得ないだろう。しかし、言葉の誕生の場面というのは、そのように考えないと合理性が保てないのではないだろうか。 われわれはすでに言葉があふれている社会に生まれて生きている。そうすると、われわれが個人的に知らないものも、すでにそれを知っている誰かが名付けている。そうすると、それはわれわれが名前を知る前から、存在としてはすでに確定していて、われわれがその名前を学習するという過程では、名付けられる前からあったものに名前がつけられたように感じてしまう。その名前は、自分で勝手につけられるものではなく、社会的な規範に従って名付けられるのだが、自分が第一発見者のように振る舞えるものは恣意的に自分で勝手に名付けられるようにも感じる。 すでに言語が流通する社会で生きているわれわれの常識を、言語が誕生するときにも当てはめてしまうと、それは合理性を失わないかという、論理的な疑問がここに生じる。言語の誕生の時には、むしろ存在の認識も同時に生まれ、存在という属性を人間が受け止めることができるのは、それを名付けるという行為がなされたときではないかと思える。名付けられる前のものは、カント的な「もの自体」にとどまり、それは認識されることもないので、実際には存在という属性さえ持たないと言った方がいいのではないかと思える。 言語の使用によって、人間は対象の存在を確認し、対象がどんなものであるかという認識に切り込んでいくというのが、ソシュールの「言葉はものの名前ではない」という指摘なのではないだろうか。そのように受け止めると、ソシュールの主張は、言語によって人間はどのようにものを考え世界を認識していくかという、言語が持つ認識の側面に関心を持っていたのではないかとも考えられる。 ソシュールの関心が認識の側面であれば、ソシュールが言語規範という認識的側面を「言語」と呼びたくなる気持ちも理解できる。ソシュールは、表現を独立した対象として分析することはせず、それは一般化できないものとして切り離し、一般化して分析の対象になるものとして言語規範の方をこそ「言語」と呼んで考察することが科学的だと考えたのではないかと思う。 表現されたものこそが「言語」であるという前提を持っていれば、このように表現を切り離して認識を「言語」と呼んだソシュールはそれだけで批判の対象になってしまうだろう。しかし、表現されたものこそが「言語」だというのは、絶対的に正しいものではなく、ある視点を設定したものに過ぎないのではないかと思う。そうでない視点から言語を考えたのがソシュールではないかと思う。そして、その視点の方が、社会を考察するという点では有効だったので、構造主義を受け継ぐ人たちが注目したのではないかと思う。 言語を使うことが、対象を認識することになり、対象の構造に切り込むことになるのであれば、人間はどのような言語を使うかで思考の方向というものが制限されてしまう。自分では自由に考えているつもりでいても、それはある枠の中で思考していることになってしまう。これこそが構造主義の基本的な考え方なのではないかと思う。人間の思考は構造という枠から離れることができないのだ。 人間は完全に自由な思考はできない。その思考の枠になるものが、ソシュールの指摘では言語規範というものだったのではないかと思う。だからこそソシュールは言語規範を「言語」と呼んだのではないだろうか。それは、僕にはきわめて合理的な判断のように今では映る。人間は社会的な生き物であり、人間が考えることが社会というものと大きく関わっていることに関心を持つ人は、ソシュールの言語学がそのようなことを考えるのに役立つのではないかと思う。それこそがソシュールを評価する鍵なのではないだろうか。表現としての言語そのものの属性ではなく、言語と社会との関わりこそがソシュールが求めていた、国という個性を捨象した言語の一般論であり「一般言語学」なのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2008-03-12 10:37
| 論理
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