斉藤さんが、内田樹さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」を「為にする議論」と判断していることについて、論理的な考察をしていこうと思う。まず「為にする議論」の概念だが、これを僕がどう捉えているかを述べておいて、その概念に照らして、内田さんの文章がこれに当てはまるかどうかというのを考えたいと思う。
僕は、「為にする議論」というのは、結論としての真理を導くのではなく、議論をすること自体が目的化してしてしまった不毛な議論だというイメージを抱いていたのだが、世間ではどのようなイメージで流通しているのかというのを調べてみた。 「為にする議論 出典: フリー多機能辞典『ウィクショナリー日本語版(Wiktionary)』」によれば、この言葉は次のように説明されている。 「議論において、相手の揚げ足取りや無関係な話題について終始し、結論等を出そうとしないこと。」 だいたい僕のイメージと重なるような説明ではないかと思う。ただ、「為にする」という言い方が、単なる目的化をするというだけでなく、辞書的には「下心をもって事を行う」というニュアンスが込められているらしい。つまり、この「為」は、本来の目的ではなく、違う目的のためにということが意図的に選ばれているということだ。単に頭が悪くて論理構造を正しく捉えられないから、「間違って」他の目的になっているのではなく、むしろ頭がいいので意図的に他の目的にすり替えて相手をだましたりごまかしたりしようとしているという感じになるようだ。 Hatena Question の「"ためにする議論"とか"ためにする批判"の"ためにする"って何ですか?」での回答では、「あらかじめ結論を決め、都合のいい論拠だけを挙げているような議論」ということも指摘されている。これは、本当の結論を導かないように、本当の結論を覆い隠すためには、都合のいい結論を提出するというごまかし方があるだろうと思うので、この指摘も一理あるのではないかと思う。 このようなイメージの「為にする議論」では、道路特定財源をめぐって行われているものが頭に浮かんでくる。日本は、データをとってみれば、世界でも有数の道路高密度国家になるらしい。ゼネコンが登場する高速道路のような大きな道路においては、すでに不必要なくらい日本全国に道路網が張り巡らされている。むしろ足りないのは、地域の生活道路の方だ。こちらに道路特定財源が使われるなら,必要な道路の整備という議論も分かるのだが、いつまでも高速道路を造り続けるというのは、それを造るという結論をまず提出して、本当の結論である「無駄な道路を造らない」という結論を覆い隠すものになっているように思う。 この「為にする議論」が実際に表現されている具体例としては、「国家秘密保護法制定をめぐる動きに関する質問主意書」がある。そこでは次の部分で使われている。 「二 (1) 自由民主党政務調査会編集にかかる「スパイ防止法-その背景と目的」(昭和五十七年十一月)に掲載されている「主要スパイ検挙一覧表」によれば、昭和二十九年から五十六年までの二十八年間に十三件のスパイ事件があつたというが、その内容は、「独立国家の平和・安全」との関連は薄いと思われ、また、それを脅かすものとは言い難いものである。この程度の事実をもつて「日本はスパイ天国である」とするのか。 (2) このような議論は、ちようど、「ソ連脅威論」を唱えて軍備強化を図ることと軌を一にした、外患を利用して世論を操作しようとするような権力者の常套手段であつて、為にする議論であるといわざるを得ない。」 軍備強化というのは、本当の議論においては、どのように軍備を強化しなくてはいけないかという根拠を細かく検討して結論すべきものになっている。しかし、「ソ連が脅威だ」ということがあれば、それから、「その脅威に対抗するために軍備を強化しなければならない」ということが短絡的に導かれる。だから、軍備の強化そのものを議論するよりも、「ソ連の脅威」を議論した方がやりやすいということになれば、軍備強化の「為に」ソ連の脅威を議論するということになる。だいたいこのようなものが「為にする議論」の一般的な概念ということになるだろうか。 さて、それではこの概念に、内田さんが語る文章が当てはまるかどうかを考えてみよう。内田さんは、「私がフェミニズムを嫌いな訳」なる文章で、何を主張することを目的としているだろうか。その主題・問題・主張を分析してみよう。 まず表題をそのまま主題の表現と考えれば、内田さんは、この文章で自分の感情としての「嫌い」ということの内容を語っていると考えられる。これは、感情の問題なので、論理的に反論しようとしても無駄なものになる。個人がどのような感情を抱いていようと、それが論理的に間違っているとは言えないからだ。感情が生まれるのは仕方がない。 だから、内田さんの文章全体が、感情のことを語っているにもかかわらず、実はこっそり真理が提出されているようなら、違う目的のために個人の感情という隠れ蓑を使って「為にする議論」がなされていると言えるだろう。果たしてどうなっているだろうか。 そのような目で内田さんの文章を眺めてみると、「嫌い」という感情がよく伝わってくるのを感じる。それは、「嫌い」ということの理由に挙げた根拠がたいへんよく納得できるからだ。論理的に説得されると言ってもいい。教条主義的な思い込み的な真理を押しつけてきて、少しも反省しない人間を相手にしていたら、そんな人間を嫌いになるだろうことは容易に想像できる。 この嫌いになる理由があまりに説得力があるために、主題として語られている「嫌い」という感情よりも、その論理的な根拠の述べ方の方が印象的に頭に残る。そうすると、いつの間にか主題がこちらの論理的主張の方に代わってしまっているかのような錯覚を起こす。そういう受け取り方をすると、「嫌い」ということをだしに使って、本当は「正義の人」の批判を主張しているのであり、その「正義の人」がマルキストとフェミニストであることを利用して、この両者の批判をしているように見えてくる。「為にする議論」のように見えてくる。斉藤さんはおそらくそのように受け取ったのだろう。 このような読み方をすると、斉藤さんの判断である「為にする議論」というものに賛成したくなってくる。しかし、このときまだ違和感が残る。それは、内田さんが語る結論が、ご都合主義的な不毛なものになっているという感じがしてこないからだ。「為にする議論」がすべてそういうものであるなら、そう感じてもいいのだが、むしろそこには真理が含まれているのを僕は感じる。 「為にする議論」というのは、形式的にはそのように見えるものであっても、実は「戦略的に」それを使うことによって、分かりやすさや人に訴えるレトリックの面で効果を上げることがあるのではないかという気がしてきた。 仮説実験授業研究会の牧衷さんが、かつて「松川事件」について語ったことを聞いたことがある。それは、本来の目的は被告たちのえん罪を証明して、間違った裁判が行われないようにすることだったが、大衆的な支持をつかむためには,それを誰もが自分の問題だと思えるような形に転換することが必要だったという指摘だった。このことに大きな役割を演じた広津和郎は,国家の目的によって個人の生活が脅かされてはならない、という論理を展開したということだった。 国家は「松川事件」の犯人がどうしても必要だった。その犯人としてもっともふさわしい位置にいると思われる人間がいれば、証拠が不十分であろうとも、犯人に仕立て上げて取り締まることが国家にとっては重要になる。そのような国家の都合や横暴で個人が脅かされることを見過ごせば、自分がそのような位置に立ったときにどれほど恐ろしいことが起こるか。その共感を呼ぶことができれば、事件の被告を支援する運動は全国的なものになり、大衆のほとんどが支持するものになる。そして結果的には世論の声に押されて運動は期待する方向へと向かっていく。 これはある意味では、本来の目的をちょっとシフトする方向へ向かわせる「為にする議論」を形式的にはやっているように見える。だが、それが本来の目的を結果的に達成することになり、戦略的にはその方が成功する確率が高い。このような意味での「為にする議論」は、むしろ必要なものであり、指導者は積極的にとっていかなければならないものではないかと思う。これは宮台真司氏が「嘘も方便だ」と語る言い方に通じるものがある。 嘘をつくことは道徳的には悪いことだとされる。しかし、その嘘によって決定的な損害が防げるなら、指導者はむしろ嘘によって被害を避ける方が指導者にふさわしいということにもなる。戦略というのは、その過程よりも結果によって評価しなければならないだろう。どんなに立派な生き方をしても、それによって全滅するようなら、それは美学的な評価以外の評価はできないだろう。 牧衷さんは、成田闘争に関しても、それが「農民の生活を守れ」というスローガンであったことが戦略的には間違いだったのではないかと語っていた。それは本来の目的であったかもしれないが、「農民の生活を守る」ということは、個人の財産を守ることになってしまい、大衆的な共感を呼ばないというのだ。むしろ、国家がいかに個人の生活を脅かすかを強調して、共感を呼ぶ「為の」議論をすべきだったと語っていた。戦略という面から考えると、「為にする議論」は、どう有効に活用できるかを考えることが重要なのではないかと感じる。 内田さんが語ることは、形式的には「為にする議論」に見えるが、それは戦略的なものではないかと僕は思う。内田さんの文章が「為にする議論」であるという評価では斉藤さんと僕は一致しそうだが、「だからだめだ」と評価する斉藤さんと違って、「戦略的に使っているのだから評価できる」というのが僕の感想だろうか。ここに違和感を感じる原因があるのではないかと思う。 斉藤さんの文章では「内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩き」と「内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している」という部分にも違和感を感じる。これは、両方とも、「だからいけない」と主張しているように聞こえる。これは、この短い表現だけを見るとそう感じてしまうのだが、どうも内田さんの意図は、ここで斉藤さんに批判されているものと違うように僕は感じる。また改めて考えてみようと思う。
by ksyuumei
| 2008-03-09 11:20
| 論理
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