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論理トレーニング応用1 内田樹さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」の論理的考察1

論理トレーニングのとりあえずの基礎的訓練が一通り終わったので、ここでその応用を考えてみたいと思う。本来の目的は、『バックラッシュ』(双風社)という本の斎藤環論文「バックラッシュの精神分析」に感じた違和感が、果たして論理的なものが原因で起こるのか、それとも僕が共感している内田樹さんを批判していることから起こってくる感情的なものかを考えるのに論理トレーニングを応用しようというものだった。

斉藤さんの論文は、専門の精神分析の部分は難しくて知らないこともあるので、その論理構造だけを取り出すのはなかなか苦労する。そこで、部分的に気になるところに注目して考えてみようと思う。まずは次の引用部分に関して考察してみよう。


「内田樹は、「私がフェミニズムを嫌いな訳」なる一文で、自らの旗幟を鮮明にしている。一読すれば分かるとおり、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義者でもない。要は、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正しい人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。
 内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とかいっても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。
 しかしこれは、フェミニズム嫌いという「症状」を偽装することで、そこに何か本質的なものがあると錯覚させるためのパフォーマンスではないのか。かりそめの自己を無邪気に演じつつ、その内側に秘めた「本当の自己」が空っぽである場合に、しばしば採用されるテクニックである。もっとも、主体を空虚にして身体の知に従うべきことを主張する武道家・内田にとって,こうした「主体の空虚さ」を指摘されることは、むしろ喜ばしいことであるに違いない。」


さて、ここで斉藤さんが語っていることの「主題」「問題」「主張」を分析してみようと思う。全体の論理の流れとしては、まずは内田さんの「フェミニズム批判」が,実はフェミニズムそのものの欠点を指摘したものではないので、批判と呼べるものではないという主張が見られる。そして、それが反論に答えることのないものとなっているので、言いっぱなしであり「為にする議論」になっていると逆に批判されている。そして最後に、このような行為は、実は空っぽの中身を隠すためのパフォーマンスに過ぎないのではないかと結論づけられている。以上をまとめると、



主題……内田樹における「フェミニズム批判」の実質的内容。
問題……それは果たして「フェミニズム批判」になっているか。
主張……それは「為にする議論」であり、内容のずれから中身が空っぽであることを示している。単なるパフォーマンスに過ぎないのではないか。

僕は、この主張に違和感を感じているので、それを細かく検討して、その反論を試みてみようかと思っている。上の主張は、全体をまとめたものになっているが、それを細かく分けると3つの主張に分かれるだろう。ちょうど3つの段落に一つずつ主張が語られていて、その表現としては論理的にすっきりしているようだ。この主張の一つ一つについて、まずはそれを分けて考えてみようと思う。最初の主張は、「そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない」と語られているものだ。

「必然性はない」と語られている否定判断は、果たして妥当なものであろうか。斉藤さんの判断の根拠になっているのは、ここで「内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義者でもない」ということからだと考えられる。その批判は、「正義の人」に対するものなのだ。だから、「フェミニズムが嫌い」といわず、「正義の人が嫌い」と言えばいいだろうというふうに聞こえる。それをなぜ、マルキストやフェミニストを例に持ち出すかということを斉藤さんは批判しているように思う。

この主張は、考えようによってはもっともだと思われる。しかし、それが常にそうだと言える普遍性を持っているかどうかには僕は疑問がある。ある条件の時には、斉藤さんが言うように「必然性はない」と判断してもいいだろうが、内田さんが語っている文脈においても、必然性はない」と判断できるかどうかは、もっとよく考えなければ結論できないのではないだろうか。批判している対象が「正義の人」だから、フェミニストの批判に向かうのではなく、「正義の人」の批判に向かうべきだと、論理的に結論できるだろうか。

これは、論理的には集合の包含関係に関わってくるのではないかと思う。「正義の人」を集めた集合の中に、フェミニストがまったく入ってこないのであれば、「正義の人」の批判とフェミニスト批判を結びつけるのは的外れであり、全くの論理的な間違いであるということになるだろう。また、「正義の人」の集合にフェミニストの集合がすべて含まれるのなら、フェミニストは、誰をとっても「正義の人」になるので、「正義の人」への批判はそのままフェミニストへの批判になる。例示としてフェミニストを出すのは間違いではない。

難しくなるのは、「正義の人」とフェミニストの集合の間に共通部分はあるものの、それぞれ含まれない部分が存在するときだ。つまり、「正義の人」であってフェミニストではない人と、「正義の人」ではないフェミニストが存在するときだ。このようなとき、「正義の人」の一例としてフェミニストを提示すれば、集合が重ならないと思っている人は、そのことを不当な指摘と思うだろう。

内田さんが語っているのは、本物のフェミニストではないという言い方は、この辺りの感情を物語るものだろう。しかしこれはどこか論理的に間違っている批判のような気がする。

内田さんが例示しているもう一つの「正義の人」はマルキストだが,これはすでにイデオロギー的な間違いが明らかになっているので、マルキストを「正義の人」として語っても違和感を抱く人は少ないだろう。少なくともマルクス主義の主流派はすべて、内田さんが語る意味での「正義の人」だった。三浦つとむさんのように、「正義の人」ではないマルキストはごく少数であり、マルキストを語るときは誤差として捨象されるくらい存在感がない。

その三浦さんも、主流派のマルキストは「官許マルクス主義」といって批判していた。三浦さんは、「あんなものはマルクス主義ではない」という言い方はしていなかった。「官許マルクス主義」という言い方で、「間違った論理的帰結を持っているマルクス主義」だという批判をしていた。

三浦さんはマルクス主義者の批判をしたのであって、決して「間違った論理的帰結を持った人々」の批判をしていたのではない。内容的には、論理的帰結の間違いが批判の対象だったが、現実の対象としては「マルキスト」を批判していた。これは、三浦さんの語る文脈から、その批判の対象がどんな「マルキスト」であるかが分かるからだった。つまり、批判の対象は具体的な「マルキスト」であり、辞書で定義された「マルキスト」一般ではないのだ。三浦さん自身もマルクス主義者だと自ら名乗っていたように、マルキストだって正しいことを語る人はいくらでもいる。だから、それを一般的に「すべて」のマルキストを対象にして批判することはできない。批判するのは、具体的な間違いが指摘できる相手で、それがどのような相手なのかは文脈で判断するしかない。

たとえ批判される人々が、その集団の一部であろうとも、実質上その集団に含まれるのであれば、その具体的状況においては集団も含めて批判されても仕方のないものとして批判は受け入れなければならないだろう。マルクス主義批判はそのようにしてなされてきたのではないかと思う。マルクス主義というイデオロギーそのものというよりも、具体的なソビエトを始めとする社会主義国家が批判されてきて、その文脈でマルクス主義そのものも批判されてきたのではないだろうか。

マルクス主義は、その主流派がすべてつぶれてしまったので、批判が妥当する部分が一部ではなく、ほとんどすべてだということになっていったのではないかと思う。その状況に比べると、フェミニズムはまだ全滅には至っていないので、内田さんが批判している部分が一部なのか、大部分の主流派なのかはまだ結論が出ていない。内田さんは、フェミニズムはやがて全滅すると見ているようだが、こればかりは先のことなので分からないだろう。まだ仮説の段階だ。

さて、内田さんが語る文脈では、マルキストやフェミニストはどのような人間として描かれているだろうか。それはほとんど「正義の人」と重なる対象として描かれているように見える。「正義の人」から外れるマルキストやフェミニストが、もしいるとしてもそれはごく少数だけで、主流はほとんどすべて「正義の人」だといっているように僕には読める。このような前提を持つと、「正義の人」の例示としてマルキストやフェミニストを持ち出すのは、ごく自然な流れであり、まさに必然的なものと思える。

斉藤さんは、おそらく「正義の人」に重なるフェミニストの方が一部であり、主流は「正義の人」ではないという認識を持っているのではないか。そうであれば、ここに「必然性はない」という判断になるのではないかと思う。

内田さんが、マルキストやフェミニストの大部分が「正義の人」だと感じているのは、実際に自分が出会ったマルキストやフェミニストがそういう人たちばかりだったということがあるだろう。それに加えて、「抑圧されている者には真理が見え、抑圧している者には真理が見えない」という命題を教条的に信じているところが,自分の主張が絶対的に正しいという根拠のない自信を生み出して「正義の人」を生み出すと見ているようだ。

僕も、この命題は論理的には真理であることが証明できないだろうと思う。だから、これが正しいと信じてしまえば、それは教条主義的にならざるを得なくなるだろう。この教条主義は、今から考えれば笑い話になるようなことさえ大まじめで信じられていたことが歴史的には確かめられる。三浦さんがスターリンを批判したときも、スターリンの正しさは、論理的に求められたものではなく、共産主義体制の側にとって最大の偉人であったというような理由に求められていた。

真理というのは、抑圧されているかどうかという主体の条件には関係がない。仮説を現実に成立させるような実験を行うことができれば、抑圧する主体であっても真理を獲得することができる。アメリカの資本主義は、労働者をいかに気持ちよく働かせるかという点においては、かなりたくさんの真理を獲得してきたから、労働者から多くの搾取をすることができたのではないかと思う。彼らは確実に真理をつかんでいたが、抑圧する者でもあったと思う。

このような考察から思うのは、僕は斉藤さんが主張するような「必然性はない」という判断には賛成できないということだ。必然性のことを議論するよりも、マルキストやフェミニストが「正義の人」の一部であって、大部分はそうではないのだという議論をして欲しかったと思う。内田さんは、文脈から考えれば、マルキストやフェミニストの大部分が「正義の人」だと思っているようだし、僕もその方に共感している。もしそうでないということが議論されるなら、僕は違う視点を教えられただろうと思うが、「必然性」の問題になってしまうと、内田さんが語る文脈なら、マルキストやフェミニストが登場するのに僕は必然性を感じてしまうのだ。
by ksyuumei | 2008-03-08 15:32 | 論理


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