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論理トレーニング 18 (議論の組み立て)

さて、長い問題文の問2を見ていこう。


問2 次の文章において、その主題、問題、主張を、それぞれまとめよ。(必ずしも問題文からの抜き書きではなく、自分で的確にまとめよ。)
「今日の日本では、人体の一部の無償提供は禁止されていない。献血や、骨髄や腎臓の提供はむしろ立派な行動と考えられている。ところが臓器の売買は法律によって禁止されている(臓器移植法第11条)。だがそれはなぜだろうか?臓器を無償で提供することと有償で提供することに、どうしてそんな相違があるのだろうか?前者の人は患者を助けたいという利他的欲求だけから出ているのに、後者の人はそれよりも臓器の対価を得たいという利己的な欲求が強いからいけないのだろうか?しかし取引によって自分の利益を得たいというのは自然な欲求で、これを一般的に禁止していたら市場経済は成り立たない。だが議論の都合上百歩譲って、臓器移植の場合は無償の贈与の方が望ましいと認めてみよう。しかしそうだとしても、臓器を無償で提供する方が有償で提供するよりも賞賛に値する、と言えるにとどまる。始めから臓器を提供しない人と比べて、有償で提供する人が非難されるべき理由があるだろうか?前者の人々は臓器移植を求めている人々から利益を得ているわけではないが、その一方彼らに利益を与えているわけでもない。これに対して、自分の臓器を売る人々は対価と引き換えにではあるが、その対価以上に臓器移植を求めている人々にとって望ましい選択肢を与えている。臓器を売る人の方が売らない人よりも社会のために役立っているのである。」


この問題文は、最後の主張になっている「臓器を売る人の方が売らない人よりも社会のために役立っているのである」ということに違和感を覚えるのではないかと思う。この主張そのものに説得されがたいものを感じる。説得されがたいために、この文章そのものの論理構成に欠陥があるのではないかという疑いすら生じる。しかし、野矢さんがこの文を問題として選んだということの意味を考えると、賛成しがたい主張であっても、論理的にはその構成に不備がないものがあり得るというものとして提出されているのかもしれない。実際、野矢さんは解答で次のように注意している。





「問題文の筆者は、日本の現在の法律が臓器売買を禁止していることに対して反対している。なかなか納得しがたい議論かもしれないが(原文では臓器売買に反対する理由と考えられるものをさらにいくつもとりあげ、一つずつ反論している)、どういう問題提起を行い、何を言いたいのか、きちんと読み取って欲しい。」


この問題のトレーニングでは、共感できないような主張であっても、論理的にまっとうな主張は、そのまっとうな部分を正しく読み取れるはずだという前提があるのを感じる。それは、おそらく論理的なトレーニングをしなければなかなか読み取れないものだろう。人間は、自分とは違う主張・共感できない主張を正しく理解することは難しい。あれだけ分かりやすい文章を書く本多勝一さんでさえ、思想的に対立する陣営からは、論理的な読み違いをされている。つまり、本多さんが全く主張していない内容を読み取られたりしている。

そこに書かれている内容を読み違えるのは、その間違いを訂正することはそれほど難しくない。難しいのは、そこに書かれていないのに、書かれているように受け取ってしまうことだ。これは、先入観が文脈に影響するからだろうと思う。書かれている対象があるならそれに対する間違いは具体的なので訂正できる。書かれていないのに、そう書いてあるはずだという幻想が見えたときは注意しなければならない。そしてその幻想は、自分と違う考えに接したときにもっとも強く見えてくるのではないかと思う。

野矢さんの解答は次のようになっている。

   主題……臓器売買について。
   問題……臓器売買を禁止する理由はあるのか。
   主張……臓器売買を禁止する理由はない。

この解答は納得できるものであり、長い問題文は、構造としてはこのようなものにまとめられる。全体の構成は単純だ。論理構成は単純ではあるが、その主張が一般に認められている多数派と違うので、主張の内容そのものに対して「本当だろうか」という違和感が生じてくる。この内容に対する賛意と、その主張に対する論理構成に対する評価とを、感覚ではなく論理できちんと区別したいものだと思う。その主張に対してどれほど違和感があって、反対したい気持ちが生まれようとも、それが気持ちの問題だけであるなら、その気持ちを押し殺して論理を優先したいというのが論理的な問題を考えるときの原則だ。その問題があくまでも論理的考察の対象であるなら、感情よりも論理が優先されなければならない。論理的考察の対象でないときは、いくら論理を無視して感情に従ってもよいが、そうでないときは論理を優先して感情を無視すべきだろう。

論理を優先する問題とは、それが正しいか間違っているかという真理を結論することが必要である問題になるだろう。問題文で言えば、臓器売買を禁止すべきかどうかを、自分の感情や好みで決めるのではなく、どちらが正しいかをはっきりとさせるということが目的であるなら、これは論理的考察の問題になるのだと思う。これは、その正しさが決定できずにいる間は、多数決などで暫定的に決めなければならないこともあるだろうが、難しいからどちらにも決められないとか、どちらに決めてもいいのだと考えるのではなく、最終的には正しいものが求められるとするのが、論理的考察の対象にするということだ。

さて、問題の文が臓器売買というものについて論じているという主題の問題は、その全体を読めばすぐにも理解できる。ほとんどこの主題のみが語られていると言ってもいい。そういう意味では構成は単純だ。その内容面の難しさが大きいので、問題として提出されている「臓器売買を禁止する理由」について、「それがあるのか?」という疑問を提出していると考えられる。そこで、その疑問点を問題文から拾い出してみたいと思う。次のようなものになるだろうか。

1 利他的欲求なら良くて、利己的欲求なら悪いと言えるのか?
2 臓器を無償で提供する人と比べれば、売買する人間は賞賛の度合いが低いが、提供しない人と比べた場合はどうなのか?たとえ有償であっても、提供しない人よりも提供する人の方が賞賛されてもよいのではないか。少なくとも非難される理由はない。

1の疑問点に関しては、問題文では、「取引によって自分の利益を得たいというのは自然な欲求だ」と答えている。利己的欲求も必ずしも悪くはないという主張だ。むしろ、この利己的欲求があるからこそ市場経済が成り立つのであって、「これを一般的に禁止していたら市場経済は成り立たない」とも主張している。

臓器売買が禁止されている理由が、「利他的欲求」「利己的欲求」というような道徳的規範に関わる問題になっているなら、それは必ずしも普遍的真理として成立するものではないという主張がここからは感じられる。論理的にいえば、それだけが理由なら、臓器売買を禁止する理由はないということになる。つまり、問題文の主張(解答)の正しさの根拠とすることができる。

野矢さんによれば、この問題文の主張は、様々な臓器売買禁止の理由への反論として書かれた文章の一部らしい。これは、論理的には場合分けによってすべての場合に反論するという方法になっている。可能性のある場合がいくつか、たとえばA,B,C,Dと4つあったとすると、Aの場合にはこれこれの理由で反対する、Bの場合はこれこれ、以下同様にDまでの場合について述べれば、それですべての場合について反論したことになるという方法で反論を構成することができる。そのような手法がこの文では使われているのだろう。「利他的欲求」と「利己的欲求」の場合については、「自然な欲求」が必ずしも悪くはないというということが認められれば、道徳的な側面に対する禁止理由の反論にはなっている。「自然な欲求」を誰もが認めるわけではないので、これが唯一の真理とは言えないかもしれないが、それに賛成し受け入れる人もいるだろうと思う。つまり、論理的には不備がないと言えるだろう。

もう一つの場合分けとしては、臓器提供を全くしない人と、たとえ有償であっても提供する人とを比べるという場合を考えている。そうすると、全く提供しない人は、不当な利益を得ているわけではないが、他者に対して利益を提供しているのでもないと言える。つまり、社会に対しての貢献という面から見れば、臓器を求める人々に対しては貢献してはいないと言える。

有償で臓器を提供する人々は、貢献という面だけを見れば、それを求める人々の要望に応えているのであるから、社会に貢献しているとも言える。問題は、それの対価を求めること・有償であることが不当な利益の追求になるかということだ。これは一概には言えないだろう。不当な利益を得るのは、ブローカーのように仲介する人間の方ではないかと思える。提供者本人は、むしろ正当な対価を受け取っているとも言えるのではないか。

この場合分けに関しては、ブローカーの存在を考慮に入れるかどうかで評価が違ってくるのではないかと思う。しかし、提供者の行為の評価だけに問題を絞れば、有償で提供することの不当性は出てこない。つまり、筆者が主張するように、「臓器売買を禁止する理由はない」と言えるのではないだろうか。

問題文で扱っている「主題」「問題」「主張」に関しては、その問題を絞って、前提をはっきりさせないと、様々な問題が絡んでくるだけに、「良い」とも「悪い」ともどちらの評価も出来てしまうのではないかと思う。それはどちらかというと、「悪い」という評価の方が一般的ではないかと思われる。臓器を売り物にするということに、何か道徳的に「悪い」というイメージもつきまとうからだ。

しかし、問題を絞って、その前提条件を限られたものにするならば、その場合に限っては「悪くない」という結論を出すことも出来る。問題文が主張するものはそういうもので、反対者の説得の方法としては、論理的に優れているのではないかと思う。

問題文の筆者は、問題文以外の場合についても細かく自分の主張を展開しているようだ。この問題文だけでは、臓器売買の是非や善悪を論じるには、少し言い足りない・説明不足のところがあるが、もっと細かく場合分けをして丁寧に論じれば、筆者の主張に賛成する部分が増えていくかもしれない。少なくとも、論理的にまっとうな展開をしていけば、僕のような人間はもっと説得されていくだろう。

この練習問題は、単に「主題」「問題」「主張」を読み取って書き出すだけならそれほど難しくない。そこに書かれていることが非常に明確だからだ。しかし、明確であるだけに結論に賛成しがたいものを感じる。それでも、論理を丁寧にたどっていったとき、その論理に正しさを感じるなら、賛成しがたい結論の意味がより深く理解できていくのを感じる。そして、最初の印象だった賛成しがたさの内容がよりはっきりしていき、ここは賛成できるが、この部分はまだ賛成できないという区別も出来るようになる。そこまで読み取れたとき、本当の意味で「主題」「問題」「主張」が読み取れたと言えるのではないかと思う。そして、そこまで読み取ることの出来る表現であれば、それは論理的に優れた表現であると言えるのではないかと思う。
by ksyuumei | 2008-03-03 23:08 | 論理


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