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論理トレーニング 15 (議論の組み立て)

野矢さんが提出する次の例題は文章が非常に長い。慎重に構造をたどっていこう。


例題2 次の文章において、その主題、問題、主張を、それぞれまとめよ。(必ずしも問題文からの抜き書きではなく、自分で的確にまとめよ。)
「自然科学の強みは実験ができることにある。そして実験の本質は、その再現可能性にある。実のところ、自然界に起こっている現象は決して再現可能ではない。一枚の紙をある高さから落としてみても、同じ落ち方は二度とはしない。そこで、現象が再現可能になるような形で、実験を行うのである。たとえば、糸の長さを精密に測るという問題が課せられたとする。これはなかなか厄介な問題であって、糸というものは、実際に測ってみればすぐ分かるように、その長さを精密に決めることはほとんど不可能に近いものである。むしろ精密な長さというものがないといった方が、よいかもしれない。糸をだらんとさせておけば、その長さは測れない。そうかといって、ぴんと張ると、その張り方によっていろいろに伸びるわけである。それに湿度も聞いてくる。それで精密に測ってみると、張力により、湿度により、温度によって、長さがみな違った値に出てくる。そこで他の要素を一定にしておいて、その中の一つの要素だけを変化させてみる。たとえば一定の湿度及び温度の下で、張力をだんだん変えて、長さを測ってみる。あるいは張力を一定にしておいて、湿度をいろいろに変えて測ってみる。そういうふうに長さの測定を、各要素ごとに、その要素の値が決まれば糸の長さも定まるようにして、精密に行う。そうすれば、いろいろな要素が重なり合った、ある条件の下における糸の長さというものを決めることができる。このように、他の条件をなるべく一定にして、ある現象を再現可能なものにする。それが実験なのである。」


この文章も非常に説得力を感じるものであり、論理的に優れているように感じる。こういう文章なら、論理的な分析の対象にしても、おそらく誰が解釈してもこういう結論に落ち着くだろうというようなものが得られるのではないかと思う。




さて、野矢さんは「主題」「問題」「主張」の概念をそれぞれ次のように規定している。

   主題 …… 何について
   問題 …… 何が問われ
   主張 …… どう答えるのか

これらを問題の文章から読み取るわけだが、野矢さんは次のような注意をしている。


「主題として、「自然科学について」や「実験について」では、漠然としすぎている。もっとこの問題文に即して特定された主題を考えて欲しい。とはいえ、糸の長さについてたいへん興味深いことが書かれているということから、「糸の長さについて」あるいは「糸の長さの測定について」が主題だと考えるのも、適当ではない。」


野矢さんが適当ではないと指摘したものは、例題の文章を分類するときの指標としては役立つかもしれないが、その論理構造を引き出して表現したものとしては、それが現れてこないのを感じるので「適当でない」と注意されているのだと思う。

確かに「自然科学について」書かれてはいるが、そのどこに説得力を感じているのかということが分かるような内容を持ったものが主題としてはふさわしいのではないだろうか。僕は上の文章のどこに説得力を感じたのか。

僕は「自然科学の強み」が実験にあるというところに説得力を感じた。自然科学に対する信頼性の高さは実験ができるというところにあるのだというのを僕も感じている。そして、その信頼性を支えるのがここで説明されている「再現可能性」というものだ。

自然科学が主張する事柄、ここでは糸の長さを測るということが例としてあげられているが、糸の長さが結果として何センチかということが測られたとき、その値がどれだけ信頼できるかは、同じような測り方をしたときに同じ値が出るかどうかで決まる。これが「再現可能性」だ。

糸の長さを測るということは、条件が違えば結果が違って出てきてしまう。だから、自然科学的な実験をせずに、ただ測っただけではその値は信頼できないものになる。測るたびに値が変わるかもしれないからだ。しかし、自然科学では、同じ条件で再現ができるように、「他の条件をなるべく一定にして」一つの要素だけが変化するという状況を再現できるように工夫する。そうすると、その状況は、誰がやっても同じものとして現れるということが確かめられると、その実験は信頼性の高いものとなる。

この「自然科学の強み」が問題の文章の全編で説明され、主張されているのではないかと感じる。それがもっとも説得される内容だと思うからだ。だから主題としては「自然科学の強みについて」あるいは「実験の再現可能性について」ということになるだろうか。野矢さんは、解答としては「実験の再現可能性」の方を挙げている。「自然科学の強み」といった場合、その内容は問題の文章で説明されているものの、その説明を読まなければ内容が分からない漠然としたものになっている。それに比べると、「実験の再現可能性」という言葉の方は、その内容をある程度思い浮かべることができるほど内容のイメージが具体性を持っている。「何?」という質問の答としてはこちらの方が適切だろう。

さて、主題が「実験の再現可能性」というものに決まると、それに対して何が問題になるかということを考えることが、文章から「問題」を読み取るということになる。「再現可能性」という点で難しいのは、それが本当に「再現」されたものになっているかということだ。

問題では、自然界で起こっていることは必ずしも「再現可能」ではないと語る。ものが落ちる現象でも、それは二度と同じ落ち方はしないと指摘する。自然には「再現可能」な現象は起こらないのだから、それは人為的に「再現可能」だと判断できる状態を作ってやらなければならない。自然には起こらない「再現可能性」を作り出すのが「実験」というものになる。

その「再現可能」な状況を作る例として提出されているのが、「糸の長さを測る」ということだ。これを実験という概念なしに、「糸を測る」という行為を行えば、それは二度と同じ行為になることがないとも言える。測るたびに条件が違ってしまうからだ。それを同じ条件で行うことを実現させるところに「再現可能性」が見えてくる。

このように考えてくると、「再現可能性」の実現が、自然状態ではかなり困難があるという前提があるのを感じる。そして、実験という概念は、この困難な「再現可能性」をどのように実現しているかというところに、実験の本質があるように思われる。つまり、問題として問われているのは、「実験はどのようにして再現可能性を実現しているのか」という方法論ではないかという気がしてくる。実際に、野矢さんの解答もこの通りになっている。

さて、問題がこのように、「実験における再現可能性の実現」であるなら、主張は、それがどのように実現されているかを語っているものになるだろう。主張は、問題に対する答だと捉えられるからだ。これは、具体的には糸の長さを測るときの例で語られているように、「一定の湿度及び温度の下で、張力をだんだん変えて、長さを測ってみる」「張力を一定にしておいて、湿度をいろいろに変えて測ってみる」というような方法で行う。これを一般化して表現すれば、最後に語られているように「他の条件をなるべく一定にして、ある現象を再現可能なものにする」ということになるだろう。野矢さんの解答は次のようにまとめられている。


「調べたい要素以外の条件を一定にして、調べたい要素の値が決まればそのときの実験結果も定まるようにする。実験はこのようにして再現可能性を実現している。」


僕が考えたこととほぼ重なるのではないかと思う。問題の文章が非常に論理的だったので、同じような結論に至り、野矢さんの解答に納得できるのだと思う。このように説得力のある文章を論理的に分析することはトレーニングとしては有効だろうと思う。しかし、現実に目にする文章は必ずしも説得力のある、論理的に優れたものばかりではない。論理トレーニングの応用は、必ずしも論理的に説得されない文章を批判的に見ることも必要になる。

説得力のない文章に対しては、それが説明不足になっているのではないかということがまず疑われる。そして、主題と主張の問題と関連させて考えると、それがずれてしまっているときには、主題と違うことが主張されているという違和感から説得力を失うことがあるのではないかと思う。これは、論理よりも好き・嫌いが先行するような感情的な文章でそういうことが起こるような気がする。

ある対象が嫌いだと思ったとき、論理的にはその間違いや欠陥を指摘して批判しなければならないのに、ついその嫌いな部分への攻撃になってしまうことがある。そうなると論理的には、主題と主張がずれるということが起こってくるのではないかと思う。このようなことが起こりそうなときは、論理的な意味での主張をすべきではないだろうと思う。単に、「それは嫌いだ」という感情の吐露だということを示しておくべきだろう。

内田樹さんのフェミニズムに関する言説はそのようなものであるように僕は感じる。内田さんは、決してフェミニズムに対して論理的な批判を試みているわけではない。むしろ、フェミニズムの正しい側面を積極的に認めて評価している。だがなおその上で、フェミニズムが社会一般で主流を占めるような思想になることは「困る」から、それが「嫌いだ」ということを語っているように僕は感じる。

僕はいま慎重にフェミニズム批判を避けているのだが、それは、僕の表現がどうしても論理的な表現になってしまうので、感情的側面を語るときに論理的に表現してはいけないだろうと思っているからだ。僕も、内田さんと同じようにフェミニズムに対する嫌悪感を持っている。この嫌悪感は、かつて差別糾弾主義者に感じた嫌悪感と重なるものであり、押しつけがましいマルクス主義者に感じたものと同じものだ。

マルクス主義者でも、三浦つとむさんは論理的な説得力があったので押しつけがましいところはどこにもなかったが、実際に僕の近くにいた革新派の人々(たぶんマルクス主義者だったと思う)は、その意見を強く押しつけるところがあった。それに対する嫌悪感は感情的なものであり論理的なものではない。

この感情をそのまま表現すればそれは論理的な主張にならないだろう。主題は批判であるのに、主張は「嫌い」ということになってずれてしまう。このずれをなくすためには、この押しつけがましさが、いかにして大衆の支持を失わせ、権力と結びつけば、ソビエトが民衆を弾圧したように恐ろしい結果に至るかということを論理的に示す必要があるだろう。そのときに、主題と主張が論理的に結びついて説得力のある主張になるのではないかと思う。感情を離れて、そのような考察ができるようになったら、是非まとめてみたいものだと思う。
by ksyuumei | 2008-02-27 10:28 | 論理


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