野矢茂樹さんが提出する問題を詳しく考えていきたいと思う。まずは次の問題だ。
問題 次の文章において適切な接続表現を選び、どうしてそれが適切であり、他方が不適切なのかを説明せよ。 「人間関係をその結びつき方の形式によって分けると、「タテ」と「ヨコ」の関係となる。 (a)<すなわち/たとえば>、 前者は「親子」関係であり、後者は「兄弟姉妹」関係である。また、上役・部下の関係に対する同僚関係も同様である。 (b)<すなわち/たとえば>、 「タテ」の関係とは、同列に置かれないA・Bを結ぶ関係であり、これに対して「ヨコ」の関係は、同質のもの、あるいは同列に立つX・Yによって設定される。」 この問題を論理的に考えるには、「すなわち」と「たとえば」という言葉の概念を明確にし、どのようなときにこれらの言葉を使うのが論理的に正しいのかを確定しておかなければならない。その規定に照らして使い方が正しければ、上の問題においてもどちらが適切かが確定する。気分や口調という感覚ではなく、論理から考えてこれを使わなければならないという判断を下すことが出来る。 さて「すなわち」という言葉は、「前に述べた事を別の言葉で説明しなおすときに用いる」と辞書では説明される。このときの言い換えは、あくまでも意味上のものとして捉えられている。最初の説明では意味が難しく感じるときなど、それを別の角度から説明しなおして、同じ意味ではあるけれどわかりやすくするという目的があるときにこの言葉が使われたりする。 それに対して「たとえば」という言い方は、「前に述べた事柄に対して具体的な例をあげて説明するときに用いる語」として使われる。この場合は「具体的な例」ということが本質的なことで、意味の言いかえではなくイメージを描きやすいような具体像が相手に伝わるようにして分かりやすさを作る。だから、この場合はしばしば意味の取り違えをして、分かりやすい具体例がかえって間違いの元になる可能性もある。 さて、上の問題において最初の言明から次の言明に移っている論理的な関係を見ると、人間関係の一般的な説明を、「親子」「兄弟姉妹」などの具体的な存在を元にして説明をしていることが分かる。これは典型的な「たとえば」の使い方にふさわしいものとなる。(a)は「たとえば」以外に選択するものはない。 この具体例を受けた次の言明は、人間関係の「タテ」と「ヨコ」という位置関係を、同列あるいは同質という属性の説明と結びつけて、意味をより明確にしようという方向が感じられる。ある事柄の説明を、違う角度から説明しなおすことは、具体例を提出するのではなく意味の多様性を絞るという効果があるように思われる。そのような説明では、「すなわち」がふさわしいと判断できる。ここでの展開は、具体例での分かりやすさの展開が勘違いに落ち込まないように意味的な面の確認をするという論理の流れになっているように思われる。 野矢さんが語る次の問題を見てみよう。 問題 次の文章において適切な接続表現を選び、どうしてそれが適切であり、他方が不適切なのかを説明せよ。 「生きた会話と開いた心とは非常に大切な関係にある。 (a)<しかし/ただし> 開けっ放しの馬鹿正直とか天衣無縫の人が一人いたからとて、会話が活発になるとは限らない。他の人々の心が閉じていたとすれば、会話は開放的な人の一人合点に終わるかもしれない。他の人々は不愉快な思いで、さらに黙りがちとなるかもしれない。 (b)<しかし/ただし> 誰かもう一人が少しでも心を開いて応じたら、その場の会話は生気の加わるものとなる。そして話が弾み始めて他の人もつられて心を開くとなれば、その場の会話は思いがけぬ面白いものに転じるであろう。」 ここで問われているのは「しかし」と「ただし」という接続詞だ。この接続詞は、どのような論理展開のときに使い分けられるのだろうか。まず辞書的な意味を確認すると、 しかし:今まで述べてきた事柄を受けて、それと相反することを述べるときに用いる。 ただし:前述の事柄に対して、その条件や例外などを示す となっている。「しかし」は、反対のことを述べることがその意味に含まれている。「ただし」は必ずしも反対とは限らないが、例外を語る時は反対の意味が含まれることがある。基本原則はこうであるが、例外としてそれが成立しないこともある、というような言い方だろうか。形の上では基本原則を否定するので反対のことを言っているような形になる。 上の問題では、それぞれの接続詞の前後の主張が次のようになっていると考えられる。 A:(a)の前 ・生きた会話と開いた心とは非常に大切な関係にある (「開いた心」が「生きた会話」をもたらす、という主張につながる) B:(a)と(b)の間 ・開けっ放しの馬鹿正直とか天衣無縫の人が一人いたからとて、会話が活発になるとは限らない。 (「開いた心」だけでは条件が不十分だ。一人だけではだめだという指摘。--前の主張に反する内容。) ・他の人々の心が閉じていたとすれば、会話は開放的な人の一人合点に終わるかもしれない。 (他の人々の心が開いていなければ、「生きた会話」にはならない。これは、他の人々が心を開くという条件が必要だという主張につながる。) ・他の人々は不愉快な思いで、さらに黙りがちとなるかもしれない。 (「開いた心」があっても、まったく期待はずれの結果になり「生きた会話」が生まれないこともある。) C:(b)の後 ・誰かもう一人が少しでも心を開いて応じたら、その場の会話は生気の加わるものとなる。 (Bで語った条件の反対のものが満たされれば、Aで主張したように「生きた会話」が実現する。形としては、Bの反対の事柄を語ることになる。) ・そして話が弾み始めて他の人もつられて心を開くとなれば、その場の会話は思いがけぬ面白いものに転じるであろう。 (他の人が心を開くきっかけとして、誰か一人がいればその可能性があるという主張。最初からすべての人が心を開いていなくても、誰か一人との会話で話が弾むきっかけが生まれる。それが「開いた心」と「生きた会話」の具体的な関係を語っている。Aの主張がより具体的で立体的に展開されている。) 内容的には、BもCも、その前の主張に反する内容が盛り込まれている。しかし、Bでは「限らない」という表現に見られるように、Aという主張が一定の範囲で認められるものの、それが成立しない範囲があるということが語られている。内容的には「ただし」がふさわしいものと思われる。 A、しかしB という主張と A、ただしB という主張を比べると、「しかし」においては、その主張の基本はBに置かれている。Aのように見えるかもしれないが、本当は(原則としては)Bなのだという主張が「しかし」にはある。それに対して、「ただし」のほうは、原則的にはAのほうを認めるのだが、その中に例外的にBという場合もあるという主張になる。論理の流れとしては、どの主張が基本原則として取り上げられているかにも関わって、「しかし」と「ただし」のどちらがよりふさわしいかということが決定される。 上の問題ではAの主張が基本であり、Bでその中の例外的な場面が考察され、Cでその例外を経た基本が確認されるという論理の流れになる。弁証法という論理で言えば、否定の否定を経てもとの主張が確立されるという感じになるだろうか。 そうすると、Cの主張は、Bの主張を認めた上での「ただし」という論理展開ではなく、Bの主張は否定されて、基本原則のAの主張が確認されるという形になる。つまり、そのような否定の仕方は「しかし」がふさわしいということになる。 逆説の接続詞はたくさんあるが、「しかし」と「ただし」の使い方においてそれがふさわしく使い分けられるようなら、かなり論理の流れがわかってきたといえるのではないかと思う。他の接続詞についても、そのニュアンスの違いなどを論理的に捉えたいと思う。また、その捉え方を応用して、対立している主張の双方を、論理的に正しく流れを捉えるという読み方をしたいものだ。今問題になっているガソリン税の問題にしても、暫定税率の継続か廃止かは、それぞれ対立する主張がある。そのどちらが論理的に見て説得力があるのかを、その展開の仕方を象徴する接続詞の使い方から見ると面白いのではないかと思う。
by ksyuumei
| 2008-02-03 15:28
| 論理
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