評判になった映画がようやくケーブルテレビにも回ってきたので、年末年始にかけていくつか映画を見ていた。このところ「同じものを見ているか」というテーマでいろいろなことを考えてきたので、その応用として、ノーミソの目で見る映画というものを考えてみようと思う。目に入ってくる映像が同じでも、その映像が何を意味しているかということは、それを見るそれぞれのノーミソの目に映る像によって違ってくる。そんな観点から評判になったいくつかの映画を考えてみようかと思う。
ただ、映画鑑賞としては、まずはその映画に入り込んで登場人物に感情移入し、その映画を主体的に味わうということが前提になって、その後で振り返ってノーミソの目で見てみればということになる。主体的に味わうことが出来なければ、映画そのものの評価がかなり難しくなるのではないかと思う。その時は、なぜ主体的に感情移入ができないのかということが問題として現れてくることだろう。 以前に夜間中学を舞台にした、山田洋次監督の映画「学校」というものがあった。これは当時の日本映画ではかなりの大ヒットになり、多くの人に感動を与えたものだった。しかし、実際に夜間中学に通っていた生徒の大部分は感動をする人は少なかったようだ。僕は夜間中学に転勤して2年目くらいだったので、一般の鑑賞者と変わらずこの映画を感動して見ることが出来たものだった。 映画に描かれていたのは夜間中学の日常だった。これは実際にあった出来事をベースにして山田監督が脚本を書いたものだった。それは、夜間中学に初めて接する人にとっては非日常であり、そこに人間のコミュニケーションの暖かさを感じることが出来ると大きな感動を与えられ、涙を誘うようなうまい演出がされている。しかし、夜間中学の生徒にとってはそれは日常であり、ごくありふれた出来事のひとつに過ぎないものだった。提出されたからといって特にそれに感動してはいられないというものだったようだ。 同じような感覚を「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見たときに感じた。この映画もそれなりにうまい作り方をしているし、泣かせどころというものもふんだんに盛り込まれている、人情喜劇の定番に近いような部分も感じた。しかし、なかなかほろりとさせられることがなく、細かい部分が気になって映画の中に深く感情移入することが出来なかった。 僕は昭和31年の生まれなので、昭和30年代の後半からは記憶がある。映画に描かれていたのはある意味では日常であり、非日常ではなかった。人によっては、昭和を再現した映像技術のほうにノスタルジーを感じてあの映画に懐かしさを感じていたようだが、僕は逆に、あまりにも本物の映像を、見た目の見事さを強調するために使ったために、映像以外の部分のニセモノ性が際立ってしまったように感じた。 映像が本物であればあるほど、そこに登場する人物にも本物性を期待してしまうのだが、残念ながら登場人物の誰もが、自然体ではない演技による過剰な表現が目に付いてしまった。これはフィクションであり、喜劇なのだからある程度の過剰な演技は、笑いを誘うためには必要なのかもしれないが、そうすると映像のリアリティと演技のリアリティがうまく合致せずにちぐはぐな印象を受ける。あれほど細部まで当時の本物性を再現する必要は、劇映画の場合は必要なかったのではないかと感じる。あの映像技術によって、映画はかえってドラマ性を失ったように僕には見えた。 映画の中の子どもたちと同じように、僕も小学校2年生くらいのときに迷子になって泣いて歩いていたときがあった。その時は、ガソリンスタンドに止まっていたトラックの運転手さんが、ちょうど僕が通っていた学校の近くを通るというので乗せてもらって家に帰ってきたことがあった。子どもが泣いて歩いていると誰かが声をかけてくれるような時代だった。 映画の中の子どもたちはしっかりしていて泣いて歩いているのではなかったから、誰も声をかけなかったのかもしれないが、主要な登場人物以外にあまりコミュニケーションの場面が見られないのは、当時の日常からするとちょっと違和感を感じるところだった。子どもたちが迷子になったときも、「誰か声をかけてやれよ」というふうに感じて見ていた。 当時を実際に知る人間としてなぜこの映画に違和感を感じてしまうのかを考えると、この映画は当時を再現するのに計算されすぎているという感じを受けるからなのではないかと思った。映像技術による、見た目の本物性もそうだが、登場人物の演技も、その意図が見え透いてしまうような、当時の人情厚い家族的な関係の人々はこうするであろうという期待を完全にこなそうとしているかのような感じを受けてしまう。自然体という感じがせず、どうしても演技をしているようにしか見えない。 これが、まったく記憶も知識もない世界の物語だったら、このような違和感を感じることもなかっただろうと思う。だから、この映画は昭和30年代を直接知らない人にとってはかえって人情喜劇として面白かったのではないかと思う。 ちょっと前の出来事を再現するのに、それを知っている人が鑑賞しても鑑賞に耐える映画を作るのは本質的に難しいのではないかと思う。映画はフィクションであるからどうしても作り話が入ってくる。本物を直接知る人間は、どうしてもそのフィクションに嘘を感じてしまうだろう。 劇映画はフィクションによる表現だが、そのフィクションが、現実をそのまま表現したのでは表現しきれない「意味」を伝えるものであるなら、フィクションとしてのニセモノ性を越えて、それとは違う本物性を伝えてくれるものだろうと思う。残念ながら「ALWAYS 三丁目の夕日」は、映像の見た目の本物製が際立つ分、フィクションとしてしか伝えられない本物性がかすんでしまったように感じる。 人情喜劇としての泣かせどころも、かなりステレオタイプのありふれたもののように感じた。水戸黄門的に、同じ事の繰り返しであっても、その繰り返しの心地よさで楽しめるというものもあるが、物語として無理やりに設定した情況で、喜劇的に振舞う瞬間の場面で笑わせるというちぐはぐさを感じてしまった。現在の笑いはほとんどが瞬間的な場面設定の面白さで笑わせる傾向をもっているので、そのような要素を入れなければ映画がヒットしないと判断したのかもしれないが、物語の進行はステレオタイプで、笑いの場面は現在的な要素を取り入れて、それがうまくいっていないように感じた。 バカなことをしている人間を笑うのに、それが嘲笑になってしまうかどうかは紙一重のところがある。山田洋次監督が描くフーテンの寅さんは、いつでも馬鹿なことをしているけれど、映画を見ている人は誰も寅さんを嘲笑しない。努力や誠意が空回りをしている意外さが笑いを誘うが、それは暖かみのある笑いであり、ちょっとした同情を含んだ笑いになっている。「ALWAYS 三丁目の夕日」の笑いも、そのような笑いであれば、僕ももっと映画の中に感情移入できただろうと思うが、残念ながらそのようには感じなかった。自然に涙や笑いを誘われるというよりも、そのように誘導してやろうという演技や演出を強く感じてしまった。 フィクションであることを強く意識しながらも、そこに深く入り込むことが出来た映画もあった。キムタク主演で話題になった「武士の一分」という映画は、細かい部分で気になるところはあったものの、主人公である武士に感情移入することが出来て映画の観賞としては気持ちよく見ることが出来たものだった。 江戸時代の男女の愛の表現が、現在に近いものがあるというのには違和感を感じるが、男には守らなければならないギリギリのものがあるという感情は、時代を越えて共有できる真理ではないかと思えた。それが、フィクションであるにもかかわらず、フィクションを通じて表現できる真理のように感じて、この映画の登場人物に深く感情移入することが出来たのではないかと感じる。 「武士の一分」という映画は、男のもつ感情の普遍的な面を捉えて表現されているのではないかと思う。そして、これはナショナリズムというものにも通じるものではないかと感じた。僕は、去年自分のナショナリズムを強く感じることがあったのだが、それは北京オリンピックの野球の予選で、日本が韓国に勝ったときだった。このときの僕の感情は、まさに選手と一丸になって日本の勝利を願っていたというものだった。そして勝利した瞬間における喜びは、およそスポーツ観戦での勝利という感情とは違うものだった。まさに「日本が勝った」という「日本」という感情に力点が置かれるものだった。 ナショナリズムというのも、また男の持つ普遍性の一つではないかと感じた。「武士の一分」やナショナリズムに関して女性がどう感じるのかは想像することしか出来ないが、少なくとも男にとっては、それは自分の人生と引き換えにしてもいいくらいの重要なものになっているのではないかと思う。 「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」も見ることが出来たが、ここで表現されているのも、男たちのナショナリズムではないかと感じた。戦争という非日常の極限で、男たちは自分のナショナリズムと鋭い対峙をする。そこに「武士の一分」を見つけることが出来た男たちは、死をも恐れぬ英雄的な男になるだろう。戦争時の国粋主義的な考えは、今ではすべてばかげた愛国主義として否定されている。しかし、それをバカで愚かな行為として受け取るか、バカであっても愛おしいものとして同情的に見るかは、そこに「武士の一分」と同じ感情を見るかどうかにかかっているような気がする。今の僕はもうすべてを否定する気にはなれない。これは年を取って思想的に保守化したのかどうか分からないが、日本人として、あるいは男としての感情というものが自覚されてきたからではないかとも感じる。そして、それはどうしようもないものではないかとも感じている。 「ALWAYS 三丁目の夕日」も、笑いと涙のネタとして昭和30年代を利用するのではなく、人と人との暖かいコミュニケーションの元でこそ人間は幸せになれるというような普遍性を伝えるような表現がそこにあれば、あの時代を知っていようとも違和感を感じることなく、フィクションでしか表現できない真理を受け取ることが出来たのではないかと思う。僕にとっては、あの映画で描かれていた昭和30年代という舞台は、すべてネタとして、単に背景に利用されていただけという印象しか受けなかった。ネタとしてではなく、本当に昭和30年代を味わうには、その当時に作られた日本映画を見るほうが、フィクションとして描かれた本物の昭和30年代に出会えるのではないかと感じる。以前に購入した、テレビシリーズの「泣いてたまるか」の映像のほうが、僕には強く昭和30年代を思い出させてくれるものだった。同時代的な表現だったから、もちろんこれにはまったく違和感はなかった。
by ksyuumei
| 2008-01-07 09:52
| 映画
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