中学校の数学教育において関数の概念を教えることはかなりの難しさがある。関数の計算を教えるのはそれほど難しくはない。グラフと式の対応関係は方程式に還元できたりするので、一定の手順を覚えるアルゴリズムとして教えることが出来る。掛け算の意味がわからなくても九九を覚えておけば掛け算の答えを出せるように、関数の概念をよく理解していなくても、式からグラフを求めたり、グラフから式を求めたりすることは反復練習を積むことによって出来るようになる。
だが関数がいったいどのようなもので、どんな役に立つのかということの「意味」はなかなか伝えることが難しい。関数の理屈というか合理性を理解することはかなり難しいのではないかと思う。これは、関数というものが、目に見える直感的な理解が図れる対象ではないことが原因しているのではないかと感じる。 以前に負の数同士の掛け算が正の数になることの理解の難しさを考えたが、そのときに重要だと考えたのは、負の数というものが、それを実体的に示すような存在が現実に見当たらないことではないかということだった。思考の対象を具体的につかむことが出来ないために、負の数同士の掛け算が正の数になることは論理的に把握するしかなくなる。この論理的な把握というのは、どうしても複合概念の把握になるために、直感的な単純な理解が出来ない。これが難しさの根本にあるのではないかと思った。 関数の理解も負の数の理解と似たような面があるのを感じる。関数も、これが関数だと示せるような実体を持っていないのではないか。数学教育ではしばしば関数をブラックボックスとして教える。しかし、ブラックボックスそのものが関数になるわけではない。関数は、その概念としてはブラックボックスの機能を示すものになる。機能そのものは実体的に指し示すことが出来ない。 ブラックボックスの典型として数学教育では自動販売機などが利用されることがある。自動販売機そのものはブラックボックスという実体ではあるが関数そのものではない。その機能は、お金を入れる・ボタンを押すという二つの入力に対してそれに対応した切符を出すなどという働きだ。この働きが「関数」と呼ばれる。関数というのは、このように言葉で表現するしかない対象で、数学の場合は数式で表される。 関数の場合、この働きがわかると、入力に対応した出力が計算できるということが重要になる。この計算は機械的なアルゴリズムとして確立できるので、考えている対象が始めから関数だと分かっているなら、関数の概念を考えることなくその計算手順(アルゴリズム)を覚えるだけでかなりの問題が解決できる。 しかし現実に関数の考え方を応用しようとすれば、そこに関数としての機能が発見できるかどうかということの方が重要になってくる。そのような応用を考える場合は、関数の概念を正確に知らなければ正しい応用が出来ない。現実の現象に「関数」としての機能が見えるかどうかということが関数の応用に対しては重要になる。 関数の場合は一意対応が重要な概念になるのだが、数式に対応した関数だけを考えていると、一意対応というのは当たり前すぎてあまり意識に上ってこない。関数というのは気まぐれであっては困る。同じ入力に対しては常に同じ出力を出すという機能でなければならない。 関数を現実に応用する時は、現実の持つ法則性を関数で表現するということが応用になる。この法則性を関数が表現するからこそ、関数を応用して未来の予測をしたり、未知なる対象の存在を予測することが出来る。法則性を表現するという機能から、その一意性が要求されてくる。例外のある法則であっては関数にならないのだ。 関数は一意性を持っているからこそ信頼できる結果を提出する。一意性があるから、それを適用する前にすでに結果が分かるのである。やってみなければ分からないという偶然性は関数にはない。その結果は計算によって必然的に決まってくる。だからそこに関数を見出すことが出来れば、それが見えていない人がわからないような未来の姿が、関数を見出した人には見えてくるということになる。 かつて天体の運行に法則性を見出した人は、多くの人がそれを知らないときに日食がいつ起こるかを予言して驚かせたという。関数概念で考えれば、天体の運動の法則性に関数関係があったといえるだろう。それは一意的に決まるものだったからこそ、それが起こる前に予言が出来、しかもそれが必ず当たるという自信も持てたのだと思う。 自然科学の法則は関数として考えるのにふさわしいものがたくさんある。それは、正確な観察さえ出来れば、常に同じ現象が記述できるような対象にあふれている。特に天体の運動に関しては、地上の運動のような摩擦による誤差が現れないので、関数の対象としてはふさわしいものだっただろう。 誤差が現れる現象に対しては、その誤差が考察の範囲に正しく位置付けられるような正確な観察がどれだけ出来るかで、関数としての機能がどれだけ正しく求められるかも決まってくる。データそのものの信頼性が薄い時は、そこから得られた関数も怪しいものになる。武谷三段階論における「現象論的段階」の重要性というのは、関数関係を求める最初の段階で徹底して正確な現象的データを集めることの重要性を主張しているのではないかと思う。 社会科学的な現象に関しては、関数関係を見出すのはかなり難しいものだと思われる。そこには誤差として現れる要素が大きすぎるのではないかと感じるからだ。僕は、バブルという現象に対して関数的な捉え方が出来なかった。それはまったく偶然的に引き起こされた、欲に絡んだ失敗に過ぎないのではないかと感じていたものだった。 バブルというのは、かつて土地の値段の高騰という現象によって引き起こされたが、土地の価格という価値が、合理的な範囲を越えて本来の価値以上に引き上げられて、その価値を求めて多くの人がそれを買い求めるという現象だった。それが本来の価値以上に膨れ上がった幻想的なものだということは、多くの人が分かっていただろうと思う。いつかはそれは崩れて暴落するものだという予想は誰もがもっていたと思う。このあたりは関数的な法則性があっただろうと思う。しかし、多くの人はそれにもかかわらず儲けを狙って本来の価値以上の価格に金をつぎ込んだ。誰かがババを引き当てて大損することが分かっているのに、なぜ人々はその行動を止めることが出来なかったのか。 かつてのライブドア騒動のときも同じだった。ライブドアという会社が本来持っている価値をはるかに越えてその株価は暴騰した。それを求めて多くの人がその株に群がったが、ホリエモンの逮捕とともにその幻想が終わり、株価はほとんど0になり無価値になってしまった。多くの人が、幻想にもかかわらずに儲けのために危ない橋を渡るというのは大きなミスであり、それはやがて訂正されてそのようなことはなくなるのではないかと僕は思っていた。 そんな時に、バブルはなくならない、それは常に起こる可能性をもっている「関数」的なものだという指摘を聞いた時は、最初はそれが信じられなかった。しかし、マル激のゲストで出ていた小幡績さんの話を聞いていると、その関数性が納得できた。 人々がバブルを求めるのは、そのバブルの中心にある財が、本来の価値に対して幻想的に高い価値になったとしても、それによって多くの人が買い求めるようになれば投機することによって儲かるという関数性が見出せるからだ。本来の価値は、投機による儲けには関係がないのだ。それは関数のパラメーターにならない。関数のパラメーターになるのは、むしろどれだけ多くの人がそれを欲しいと思うかという動向のほうだ。 ただこの関数の難しさは、多くの人がそれを買い求めるというのは幻想なので、その幻想がいつ終わるかということを見極めることが出来ないことだ。その終わりを正確に示すような関数は見出せないのだ。だから、それを予想することはギャンブルになる。そのバブルから早く降りすぎれば儲けは少なくなる。しかし、バブルから降りるのが遅すぎれば、儲けどころか大損をすることになる。 僕は、論理的に考えるなら、バブルには手を出さないというのが賢明な方向だと思ったが、ギャンブルによって儲けを図るという選択肢もかなり合理的なものではないかと感じた。それはギャンブルであるから大損という可能性もある。しかし、その覚悟をしてギャンブルに挑むのであれば、それはギャンブルを避けるのと同じくらいに合理的な判断のように思う。合理的でないのは、それがギャンブルであることを意識せずに情報に踊らされて「儲かる」という面しか見えていない人ではないかと思う。その人には、おそらく「関数」が見えていないのではないだろうか。 関数の概念は、数学史的には動力学の研究が進んできたあたりから発生したといわれているようだ。静力学的な釣り合いを考える数学は方程式があれば計算が出来る。方程式では、関数的な<変数>という概念は必要ない。それは<未知数>という、最初は判らないがある数に決まっているはずの<定数>として考えられている。 これが静止した釣り合いではなく、動きのある物体の運動を記述する数学になると関数を使わないわけにはいかなくなる。この運動というものは、論理による記述では運動そのものをある静止画像で切り取って表現するしかないので、その表現には矛盾した側面が入ってしまうというのは、板倉聖宣さんが指摘したことだった。関数の表現も、数式で書けば方程式とあまり変わらない形になる。形は変わらなくても、その意味はかなり違うものになる。それが読み取れないと、関数はまた難しいものになるだろう。 方程式の解は、1次方程式ならグラフで表すとy軸との交点になり、連立方程式なら2本の直線のグラフの交点になる。いずれも静止した一点が解となる。それに対して運動を表現したグラフは点ではなく、点の集合である線になる。関数のグラフは、単に直線という実体があるという見方ではなく、それが変化を表現しているという流れで見ることが出来なければ関数として見たことにならない。 我々が実体的に直接見ることが出来るのは静止画像だけである。しかし、関数では変化を見なければならない。この矛盾を解決するのに、数学や論理はどのような方法を使っているのか。静止画の中に変化する動画を見ることが出来たとき、直接は見えない関数がノーミソの目で見えてくるのではないかと思う。結果を静的に捉えて判断するのではなく、過程を動的に捉えることが出来て関数という概念がようやく把握できるのではないかと思う。しかしそれはやはり難しい。見えないものを見るということの考察から、その難しさを克服する方法を見出したいものだ。
by ksyuumei
| 2007-12-19 10:20
| 雑文
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