僕は、ウィトゲンシュタインの哲学の理解に対して、直接ウィトゲンシュタインの著作から学ぶのではなく、野矢茂樹さんや橋爪大三郎さんの解説から間接的に学んでいる。それは、ウィトゲンシュタインの哲学というのは、直接その著作から学ぶには難しすぎるからだ。それは短い命題の羅列からなっているのだが、そこに含まれる内容は実に豊富なものがあり、その意味を理解するには予備知識が大量に必要になる。
そのような予備知識の素養がなければ、ウィトゲンシュタインの文章を直接読んでも、何が書いてあるのかさっぱり分からない。これは、そのような素養を持っている人間の解説を頼りに少しずつ理解を進めていかなければならない。その解説者として信頼できる人が野矢さんと橋爪さんということになる。野矢さんは専門の哲学者であり、ウィトゲンシュタインに関する深い素養を元に、ウィトゲンシュタイン初心者にも分かるような解説を書いてくれる。橋爪さんは哲学者ではないが、社会学者としてウィトゲンシュタインの理論を応用するという面から示唆に富む解説を書いている。 野矢さんと橋爪さんの解説によって、ウィトゲンシュタインの大雑把な全体像を作り、その全体像を元に直接著作を読み進んだときに、そこに書かれていることの整合性が納得できれば、野矢さんや橋爪さんの解説も、ウィトゲンシュタイン自身の理論展開も、ともに整合性のあるものとして論理的な理解が出来るようになるだろうと思う。そして、これらの人々が、その著作に直接書いていないことに自分の考えが及んだとき、それは基本的な理論の応用問題を僕が解いているのだということになるだろう。 さて、橋爪さんは『言語ゲームと社会理論』(勁草書房)という本の中で、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の主張を次のように簡単にまとめている。 1 世界は、分析的である(あるいは、分析可能である)。 2 言語も、分析的である(あるいは、分析可能である)。 3 世界と言語とは、写像関係にある(あるいは、同型対応している)。 4 以上1~3の他は、言表不能=思考不能である。 このまとめは非常に大雑把ではあるが、ウィトゲンシュタインの主張の全体像をつかむには分かりやすい。その細部については分からないところがたくさんあるが、全体が整合的であることを見るのは案外と易しい。 分析的であるというのは、細部に分解できるということである。世界はまず全体的な印象として我々の目の前に現れるが、その部分に注目する視点から、全体とは別に細部を細かく見るということが出来る。これが分析的ということで、このことの整合性は経験からよく実感できるものだ。 また、言語の分析というものも、言語表現が部分に分かれて考察できるということから理解できる。文法という学問が言語の分析を扱っているという経験からも、この主張の整合性がわかる。そして、言語が現実の世界を表現しているということから世界とのつながりが理解され、そのつながりが「写像関係」「同型対応」と呼ばれるものになっているということの整合性も理解できる。 このまとめは解説として優れているのではないかと思う。だが、これはあくまでも大雑把な理解をするための全体像の解説であって、その細部に関しては語られていない。世界や言語が「分析的」であることは一般論として理解できるが、具体的な分析はどうされるのかについては橋爪さんの著書からは分からない。これは、橋爪さんの目的が応用にあるので、具体的な分析はその応用を見せることで示していると思われる。つまり、直接その分析はこういうものだというふうに、分析そのものを語ってはいない。だから、その応用の仕方を見て、「分析」をどうするかというのを自分の言葉で表現しなければならない。これはちょっと難しい。橋爪さんの応用が、社会学的なものなのでかなりの難しさを感じるからだ。 この分析の具体的な方法については野矢さんの『『論理哲学論考』を読む』のほうが詳しい。野矢さんによれば世界の分析は、「事実を対象に解体する」と語られる。世界の現れは、まずは「事実」として目の前に現れる。この「事実」を構成する部分として「対象」というものが「事実」から引き出される。この展開を「解体」と呼んでいる。 例えば我々の世界に「リンゴ」という物質があった場合、この「リンゴ」は単独で孤立的にそこにあるのではない。それは例えば「赤い」という属性を持っていて「リンゴが赤い」という「事実」として我々に認知される。「リンゴ」という実体だけ、あるいは「赤い」という属性だけがどこかに切り離されて浮かんでいることはない。この両者はくっつきあって現象する。それを引き剥がして別々のものとして考察の対象に出来るのは、「事実」から「対象」を「解体」するという分析を行っているからだ。 「リンゴが丸い」という「事実」からは「丸い」という属性が対象として解体される。また、それが「冷蔵庫の中にある」という「事実」からは、空間的な位置関係が対象として解体される。野矢さんは、属性と関係を対象の中に含めているが、これには異論があるそうだ。しかし僕は、「事実」からの解体ということを考えると、属性や関係も解体されると考えるほうが整合性があると思うので、野矢さんの主張のほうを信用する。 野矢さんは、「事実」から「対象」への解体についてはこのように語っているが、「事実」を「事実」として認識することについては語っていない。どこかで語っているのかもしれないが、この本を読む限りではそこには言及していないようだ。むしろ「事実」は、議論の出発点として所与のものとして前提しているようだ。それが「事実」であるかどうかは、ある意味では証明のしようがないということではないかと思われる。 それが「事実」ではなく錯覚だったということは、錯覚をする根拠を見つけることによって分かる。だが、錯覚ではなく確かな「事実」だということは、水槽の中の脳の想像で考えたように、厳密には我々には区別がつかない。所与のものとして考えるしかないのだろう。 だが解体される対象が単純なものか複雑なものかという区別は、対象の像としての言語を分析することによって得られる。そこで「事実」としては単純なものだけを選んで世界を構成することを考える。複合的な現象も、単純な現象へと分析されて「事実」として確立しようという発想だろう。これは、像として考えられている言語によって作られる「論理空間」というものの把握にとって、単純なものを基底(ベース)として、あとはそれを論理語(「ない(否定)」「かつ(連言)」「または(選言)」「ならば(仮言命題)」など)でつないで作ったものが「論理空間」だと考える方が把握しやすいという発想があるのではないかと思う。 このような発想であれば、対象として選ばれるのは単純概念として写し取られるものになる。つまり実体的に存在する対象は、単純概念として言語に像を結ぶものだと考えられる。これは、直接野矢さんはそう書いていないようなので、野矢さんの理論展開を理解しての僕の応用ということになるかもしれない。 なお現実の対象を眺めていただけでは、それが単純概念を持つ「対象」なのかどうかは分からない。それは、「対象」を像として写し取っている言語の中で「名」と呼ばれるものの分析をすることから判断される。ウィトゲンシュタインが、普通の文法のように、名詞や動詞や形容詞を区別せずに、「対象」を一括して「名」というもので呼んでいるのは、「事実」から解体される「対象」をすべて同等なものとして分析の対象にしているからではないかと思う。 「名」というものを言語の中で設定して、「名」の分析によって「対象」の分析に代えるというのが、言語と世界の「同型対応」という考えから来るのではないかと思う。この「名」の分析は、我々の言語習慣・言語の使い方というものから判断される。野矢さんの表現を借りれば、「言語に慣れ親しんでいる」人間のみが、「名」の論理構造を理解し(つまり「名」の使われ方を理解し)、「名」を分析できるということになる。 「名」を言語として分析することによって、それが単純概念であるかどうかが知られる。そして複合的な概念は、単純概念を論理語で結合したものとして再構成される。「名」による単純概念の表現で作られた命題が、所与の「事実」として世界の中に確認されれば、その命題は真理であるというような対応がされる。もし、「事実」としてその命題の主張が見つからなければ、それは可能性としてはあったが、現実性は否定されるものとして解釈される。そして、すべての可能性を尽くすことが出来れば、我々は思考の限界を知るということになる。 このとき、「名」を単純概念に限らずに、複合的なものを含めて、とにかく命題表現が出来るものは「事実」として確認できるのだと考えると、所与のものとして前提されている「事実」が、その複合概念の定義の仕方によって異なってくる。例えば<虐殺>という概念が、<虐殺1>と<虐殺2>では、その構成する論理語のつながりが違うものであった場合、それに対応する存在は違うものになるだろう。そうすれば <虐殺1>はあった(存在した)。 <虐殺2>はなかった(存在しなかった)。 という二つの命題は、違う概念を語っているのだから、当然両立してもかまわないものとなる。しかし、これを違う概念と考えずに、同じ「虐殺」という文字が使われているので同じものだと考えてしまうと、まったく正反対の主張が同時にされているように見えてくる。そうすると、どちらかが間違っているに違いないということになるわけだ。それは形式論理的な矛盾になってしまうからだ。 <虐殺1>と<虐殺2>は、「虐殺」という言葉では同じでも、視点が違うのだから、判断が正反対でも両立しうると考えれば、これは弁証法的矛盾というものになる。複合概念の存在を考えると、そこには弁証法的矛盾が発生する可能性がある。これを形式論理的矛盾と勘違いすれば、そこには不毛な二項対立が発生することにもなる。永久に相手を納得させられない対立した主張が展開されることになる。 所与の「事実」がこのようなあやふやなものになってしまえば、「事実」は個人によって違うものになり、世界の分析の客観性は失われる。所与の「事実」を安定した明確なものにするために、それが単純なものであるという規定はどうしても必要なのではないかと僕は思う。 ただ、言語の概念における単純性の判断そのものは厳密に考えると難しいものもある。僕は「死んだ」という概念は「心臓が止まった」というものと同等だと考えると単純なものと感じるが、脳死の現場などでは、心臓が動いていても「死んだ」と考えようとしているので複合概念になってしまう。戦争において「死んだ」という判断は、「心臓が止まった」という単純概念で考えられると判断すれば単純概念になると思う。 戦争において「虐殺された」という概念は僕は複合概念だと思う。だから、このことについて「事実」を求めようとするなら、単純概念に還元して存在を議論しなければならないのではないかと思う。その同意がたとえ困難であっても、そうしなければ不毛な二項対立になってしまうのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2007-11-22 09:50
| 論理
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