『社会学の基礎』(有斐閣Sシリーズ)という、大学の教科書として書かれた本の「行為と役割」という章を宮台真司氏が執筆している。ここでは行為の同一性に関して議論を展開しているのだが、二つの行為を比べてそれが同一であるか違うかという判断を3つのレベルにおいて考察している。
その3つのレベルは、<物理的レベル><遂行的レベル><帰責的レベル>として捉えられている。それぞれのレベルは視点の違う見方になるので、<物理的レベル>では同一だが<遂行的レベル>では同一ではないという判断も成り立つ。つまり、弁証法的な意味での肯定と否定が同時に成り立つという矛盾が見られる。これは「行為」というものが単純なものではなく複雑なものであることを意味している。 「行為」というものは、物理的に現れた現象にすべての属性が読み取れるのではなく、そこに人間が意味を与えることによって「行為」として受け取ることが出来る。つまり、物理的には同じように見えても、その意味が違うという受け取り方をすれば「行為」も違うという理解をするわけだ。この意味の問題に関連して「行為」は3つのレベルでの解釈が出来るものだと思われる。 このように複雑な対象である「行為」に対して、それが「存在する」という言い方を考えてみたいと思う。結論を先に言ってしまえば、この場合の「存在する」という言い方は、僕は比喩的な表現だと思っている。文字通りそこに「行為」という言葉で指し示される何かが実体的に存在するのではなく、そこに存在する何かに関連させて、その意味がある「行為」だと解釈できるという判断が可能なとき、その何かの存在に「行為」の判断を重ねて、「存在する」という比喩的な言い方が成り立つのだと思う。 これは、言葉の使い方にあまりにもこだわった考えのように聞こえるかもしれないが、「存在する」という言い方の真理性の強さが判断の間違いの反省を行うのを邪魔する気がするので、「存在する」という言い方にはこだわって考えたいと思う。一度「存在する」という判断をしてしまうと、その存在を前提とした思考において、前提そのものの存在を反省する契機がつかみにくいのではないかと思うからだ。存在はア・プリオリな前提として思考を強く支配する。その存在が前提されていると、そこから導かれる存在の属性は自明なものとして疑いを入れる余地が無くなる。真理をより確かなものにするための懐疑を忘れないためにも、思考の前提となる存在に関しては厳密に考えたいと思う。 宮台氏は、猥褻行為に関して次のような記述をしている。 「卑近な例だが、男の人が女の人の胸に触ったとしよう。これは猥褻行為だろうか?彼らの関係が恋人同士であれば、猥褻行為ではないかもしれない。しかしこれも、プライベート・ルームの中ならいざ知らず、電車の中で公衆の面前で行われたらどうだろう?また、赤の他人同士で行われたならば、猥褻行為だろうか?これも一概には言えない。男の人が医者であり女の人が患者であれば、猥褻行為ではないかもしれない。しかし、それも診療室の中で診療時間に行われたのではないとすると、どうなるか?」 これは、「胸を触る」という物理的な現象が、「行為」としてはどう解釈されるかということを考えた記述になっている。つまりその現象の意味としての「行為」はどのように解釈できる可能性があるかを考えている。これは実にさまざまなものが考えられ、「猥褻行為である」という解釈と「猥褻行為ではない」という対立する解釈のどちらも成り立つ可能性があることが指摘されている。 その解釈の違いは「文脈」と呼ばれるものの違いから生まれる。その現象が、どのような状況の下に現れているかという違いで「行為」の意味の受け取り方が違ってくるわけだ。このことは「行為」という概念が複合概念であり複雑なものであることを物語っている。 「胸を触る」という現象が、猥褻行為ではないと判断するためには、次のような命題が真理であることが必要だ。 「二人が恋人同士である」かつ「それはプライベートな空間で行われた」 実際には、これ以外にもいくつかの命題が論理語「かつ」という言葉で結ばれる必要があるだろう。また、ここで語っている「恋人同士」「プライベート」という言葉自体にも複雑さが含まれている可能性がある。これらをさらに分割して単純化しなければ複雑性を減らすことは出来ない。 この複雑性はどこまでいってもきりがないということもあるだろう。どこでピリオドを打つかという難しい問題があるが、それは社会的合意の可能性というものにゆだねるしかないのではないかと思う。どの程度単純化すれば多くの人が合意できるかという地点を、実践的に探さなければならないのではないかと思う。 複雑性を持った複合概念は、それが成り立つという判断が多くの条件が成立するという、その概念の定義によって異なってくる。その定義がそっくり同じものであっても、その条件が成り立っているかどうかで判断が違ってくるということもありうる。一般的に視点や立場が違えば、その総合判断は違ってくる。この違いをどう処理すればいいだろうか。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているとして対立を解消できるだろうか。 これが、もしも存在する物質の属性にかかわる考察であれば、どう見るかという視点の問題はかなり合意を得るところまで持っていける。それは客観的に、自分の意志とは独立して存在すると思えるので、自分ではない第三者的な一般的な視点を定めてもそれほどの違和感を感じないですむだろう。しかし、自分の生き方や思想・イデオロギーに関わった視点は、それを否定して他の視点を持つことが難しい。自分の存在意義そのものまで否定してしまうような感じになるからだ。 複合的概念で語られているものが、もしも実体的に存在すると捉えられているならば、その視点は客観的なものであり、自分の意志と独立してあるのだと考えなければならない。そうすると、本来は自分の主観が大きく関わって視点が決まっているものであるのに、それこそが客観的で正しいものだという思いが強くなるだろう。マルクス主義的な唯物論が、多くの場合真理の押し付けになっていたのは、本来は存在として捉えるべきものではないものを、存在こそが基礎になるという唯物論を教条主義的に信じたために、存在から与えられた判断という観念に過ぎないものを押し付ける結果になったのではないかとも感じる。 逆に、その判断が間違っていたと気づいたときに、反対の極に振れてしまうようなことも起きたのではないかと思う。判断が間違っていたというのは、解釈における誤謬なのであるから、どの存在の属性の解釈を間違えたかということを考えればいいのであるが、解釈ではなく存在の問題だと思っていれば、反対のものの存在を想定してしまうのではないかと思う。 戦前・戦中において共産主義者の転向という問題が現れたようだが、これは、暴力による脅迫だけに帰するのではなく、本気で共産主義そのものが間違いだったと思った人もいたことだろう。そして、その信念が強ければ強いほど、それが間違いだったと感じた時は極端な否定になったのではないかと思う。 複合的な概念に対して、その判断が極端に偏らず、多くの人の合意が得られるような形になる妥当性を持つようにするには、それを存在の問題にするのではなく、複合的な論理結合の問題として捉えるほうがいいのではないかと思う。存在の問題は、あくまでも単純な対象に限るということが、現実の世界においては「事実」という正しい命題の決定には重要ではないかと思う。ウィトゲンシュタインは、世界を「事実」の総体から出発させたが、「事実」を捉えるためにはそれが複合的であっては、それが「事実」であることが決定出来ず、考察の出発点である前提そのものが危ういものになってしまうのではないかと思う。ア・プリオリな前提として、所与のものとして「事実」があるのなら、それは合意可能な単純なものに限るというのは、整合性のある考え方ではないかと思う。 「南京大虐殺」という文脈で語られる「虐殺」「残虐性」という概念も複雑な複合概念だと思われる。物理的には同じと見られるような現象であっても、文脈上は「虐殺」だと判断されない場合があるだろう。現実の条件にもよるだろうし、歴史的な文脈も関わってくるのではないかと思う。その当時においてはどの程度が「残虐性」として捉えられていたかが問題にもなるだろう。 「南京事件」を語る時は、個々のディテールに関して、それが末梢的ではなく本質的なものを表しているかどうかをまず考えなければならない。そして、その行為が「虐殺」に値するかどうかが、複数の視点から語られなければならない。誰もが「虐殺」と認めるものだけを集めるのでもなく、一つの視点だけから「虐殺」と判断できるものだけを集めるのでもなく、あらゆる視点からの考察が必要だろう。 そうすることによって、ある意味では「虐殺」というインパクトの強い言葉で語られるセンセーショナル性は薄められるだろう。それは、「虐殺」を告発する側からは利敵行為に映るかもしれない。しかし、何が正しいことなのかを考えるならば、現実の出来事というのは、解釈によって違うふうに見えるということを理解しなければならないのではないかと思う。それがたとえ自分の見方とは違うものであり、信念やイデオロギーに反するものであったとしても。 「南京大虐殺」に関しては、多くの人がその「虐殺」という見方に疑問を抱いている。そう見る人々に対して、それは見方が間違っているのだと単純に切り捨てるのではなく、その見方にも一部の理があることを理解することが必要なのではないかと思う。逆に、「南京大虐殺」を否定する人々も、それを「大虐殺」だと解釈する見方にも整合性があることを理解すべきだろう。その上で、どちらの見方がより多くの人の合意が得られるかを考えるべきではないかと思う。立場やイデオロギーに関係なく、対象としての単純さを理解する範囲での合意を考えなければ、この対立は永久に不毛なものとして続くのではないかと思う。 『言語ゲームと社会理論』(勁草書房)という本の中で著者の橋爪大三郎さんは、 「我々は一方で、さまざまな私的体験をしており、体験の生じる場としての内面を持っている。また一方で、私的体験を表出する、形式化された振舞い(言語ゲーム)を持っている。両者は調和的に共存している。それでは、両者のどちらがいっそう、根本的なのか?前者だと考えると、収拾のつかない不合理をきたす。そこで、ウィトゲンシュタインは、躊躇なく後者だと考える。内面も各私的な主体も、実体としては存在しない。それらは、言語ゲームの与える、効果なのである。」 と語っている。個別・具体的な体験で現れる存在は、言語で与えられる概念としては、単純なものでさえも「存在しない」と語っているようにも感じる。これはあまりにも極端な指摘なのでまだ理解が不十分だが、橋爪さんが語る「意図や、予想、願望、記憶、命令などは、いずれも、言語によって生み出される私的な出来事である」という指摘はよく考えてみたいものだと思う。「命令」というものは、実体として存在を議論できるものではなく、やはり解釈に属する概念なのかもしれない。だからこそ、「命令」の問題を存在の問題にしてしまえば、それは否定される運命になってしまうのではないかとも感じる。これは、それを解釈の問題にすることによって、それが「あった」という比喩的な表現の正当性を議論できるようになるのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2007-11-21 10:28
| 雑文
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