ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、「我々はただ物や性質に出会うのではない。性質を持った物たちに、つまり事実に出会っているのであり、そうでしかあり得ない」と書いている。
物や性質を切り離すことが出来るのは、それらを思考の対象にした後であり、原初的な体験としては、物と性質は不可分のものとして・「事実」として目の前に現れる。だからこそ現実世界を出発点にするなら、世界を「事実」として捉えなければならないということになるのだろう。 目の前に現れた現実世界は、我々に見える一側面を「事実」として記述することが出来る。しかし、我々に見えている「事実」だけが世界のすべてになるかというと、事はそう単純ではない。小さすぎるものや大きすぎるものは、我々には「事実」としては感じられない。空気の存在や地球が丸いことなどは視覚で感じることが出来ない。これは直接感じることの出来る「事実」ではない。しかし、今では誰もが空気が存在していることや、地球が丸いことを知っているし信じている。 直接体験できないことでさえも「事実」(=真理)として認識してしまうことが出来るのはなぜだろうか。それは、我々が思考をすることが出来るからではないかと思う。思考によって、我々は直接経験できないことでも捉えることが出来る。経験を越える方法を獲得している。この経験を越える思考が、ある時は新たな「事実」をもたらし真理を教えるときがあり、ある時は限界を通り過ぎて「事実」でないものを勘違いして「事実」だと認識してしまう。そのメカニズムを『論理哲学論考』は明らかにしようとしたのではないかと思う。 思考は、現実と無関係に、思考だけが運動して生成発展することはない。あくまでも出発点は現実の「事実」に置かれる。しかし、思考が現実を離れられなければ、思考は経験を越えることが出来ないし、その時は思考も存在しなくなる。思考が現実を離れ、それを越えるメカニズムを説明するものとして「論理空間」なるものが設定される。 目の前の「事実」を記述する世界から、その「事実」を構成する「対象」が切り離される。同時に対象という実体から属性としての性質(動詞や形容詞で表現される事柄)が切り離される。この切り離されたものは、もはや世界という現実ではあり得なくなる。それは、切り離されたものだけでどこかに宙に浮かんで存在することが出来ないからだ。この切り離されたものたちで再構成されるのが「論理空間」というものになる。 「論理空間」においては、「事実」から切り離された「対象」や「性質」が結合される操作が定義される。この操作によって再構成されるものが「論理空間」になる。その結合は、「事実」と同じ記述になるものもある。だから、「論理空間」は「事実」の世界を含みこむことになる。だが、「事実」としては記述されない新たな結合もそこでは構成される。これが可能性として認識されるものになり、思考によって得られたものと解釈される。 可能性の総体としての「論理空間」は、それこそが思考されたものの全体だと解釈することも出来る。つまり思考の限界を見せてくれるものと考えることが出来る。「論理空間」の全体像をつかむことが、『論理哲学論考』の目的である、思考の限界を設定するということにつながるのではないかと思う。 「対象」や「性質」の結合ということをより細かく考えてみると、これを、現実に存在する実体的なものを結合するということを考えると、それは可能性ではなく現実性になり、新たな「事実」の経験になってしまう。野矢さんは、家具の配置を変えるという例で説明しているのだが、本棚を部屋の左から右へ移すというのを考えてみる。これは、現在の「事実」としては左にあるということになるのだが、右に移すことを可能性として捉えるなら、それはまだ実現していないものでなければならない。 しかし、この結合は実際にやってみることも出来る。その際に、部屋の右にはスペースがなくて、本棚を移せなかったとしたら、可能性が否定されるという「事実」が生まれることになる。もし移すことが出来たら、可能性が現実性になり、それは実は「事実」であったということにもなる。この可能性と「事実」の関係は、正確に記述するにはどうしたらよいのだろうか。 野矢さんは、可能性というのは、実際の実体において結合されるのではなく、代替物である「像」と呼ばれるもので結合されると説明する。本棚を部屋の左から右へ移す可能性は、本棚と部屋の大きさの関係を正確に反映するような模型(これが現実の本棚と部屋の「像」と考えられる)によって結合されるという。実際に本棚を動かしてしまえば、それは可能性ではなく「事実」になってしまう。それを可能性の範囲に止めておくには、実際に現物を動かすのではなく模型としての「像」を動かすことに止めると考える。 この「像」としてもっとも有効に活用されるのが言語だという。言語を「象」として捉えるのが『論理哲学論考』では重要な考えだという。また、野矢さんは「像」として捉えることの出来る代替物をすべて言語と呼んでもいいだろうということも語っている。これは、言語学的な理論から見れば、言語という対象の範囲を曖昧にするものとして違和感を感じるだろうが、思考の限界と言語表現の関係を考察することが目的の『論理哲学論考』においては、新たな述語として「言語」をこのように定義しなおして理論展開することは、その定義を忘れない限りでは問題ないだろうとも語っている。僕もそう思う。ここでいう言語は、言語学的な意味での言語ではなく、「像」としての性格こそが本質として捉えられているからだ。 さて、「像」としての言語は、「対象」や性質を切り離した概念に対応して、それらの代替物として思考の中で働くことになる。思考において言語が必ず使われることの理由もこれで納得できるような気がする。これらは、現実の「事実」としてのつながりとは違うつながり方を、言語の中で行うことが出来る。そして、このつながり方が、どのようなものが許されるかを把握することが、「対象」の論理形式をつかむということになる。 「対象」の論理形式は、それを可能性の記述として展開するときに、許される結合を作り出すときに必要になる。思考の展開においては、論理形式の把握は必要不可欠なものになる。目の前に、机の上にあるリンゴを見ていたとする。このとき、リンゴは空間上のある位置を占めるという論理形式を了解しているなら、その位置を表す言葉をこれに結合して、「机の上にリンゴがある」という「事実」から、「箱の中にリンゴがある」「冷蔵庫の中にリンゴがある」という可能性の世界を開くことが出来る。 それは目の前の事実ではないから、実際にその「事実」に合致するように行動するか、その「事実」が成立しているかどうか調べない限りでは可能性の範囲にとどまる。この可能性の範囲にとどまる命題の表現こそが思考の正体であるとウィトゲンシュタインは考えたのだろうか。そのように捉えると、思考の正体というものがかなり具体性をもって見えてくるような気がする。また、このような思考で捉えられた仮説が、「事実」という真理であると確認されるメカニズムも一般的に展開できそうだ。それこそが、板倉さんが語る「仮説実験の論理」であるとも感じる。 「論理空間」は、このように代替物の結合ということで「事実」以上の可能性という記述を含んだより広い範囲のものを語ることになる。そして、この「論理空間」は、そのような結合以外にも論理的な「操作」によって、さらに広い範囲の記述を含みこむのではないかと思う。 否定という表現は、「対象」の属性としては見つからなかった。否定こそは、現実の世界に見つかる「事実」ではなく、可能性としての「論理空間」で、思考によってしか捉えることの出来ないものではないかとも思える。否定のような論理操作を施すことの出来る思考を、人間は見つけたことによって世界をより深く正確に捉えることが出来るようになったのではないだろうか。 否定とともに思考にとって重要なのは、矛盾の存在を許さない「矛盾律」だ。これを用いることによって、思考の範囲で、「背理法」という証明を行うことが出来る。思考の中に矛盾を生み出すような「論理空間」での結合と操作を発生させることが出来れば、その出発点の可能性を否定することが出来る。これこそが、直接見ることの出来ない「事実」を、「事実」として確認するための有効な方法にしたのではないだろうか。 地球が丸いということを知る思考は、それがもし平らだったらという可能性の言明から出発して、さまざまの矛盾を導くことによってなされる。そして、その矛盾は、実際に現実の中に観察される「事実」に反するということで現実化したものになる。 人間は、思考をすることによって現実をさらに深く知ることが出来る。目の前の「事実」を、ただあるがままに眺めて受け入れるだけではなく、そこに直接見えないことでさえも認識することが出来るようになってくる。そのメカニズムは「論理空間」というものの構造に示されている。「論理空間」をよく知ることが、人間の思考を解明することにつながる。これはすごい発見ではないかと思う。 人間は、「言語」という「象」を手に入れたことによって、目の前の現実にべったり張り付いた認識だけではなく、可能性の世界である「論理空間」を開くことが出来た。「言語」の重要性は、人間の思考においてどれほど強調してもしすぎるということはないだろう。そしてまた、論理的な操作という方法も、「論理空間」を豊かにするものとして大切なものだろうと思う。この論理的な操作は、何故に「論理空間」を豊かにし、可能性の世界を広げて、「事実」の世界である現実を深く認識することが出来るのであろうか。 それは「言語」の問題と深くかかわっているのだろうが、何故に論理的に考えることが正しいのか。正しく考えるには、必ず論理に従った展開を何故にしなければならないのか。それ自体は、思考によっては正当性が確認できない問題なのだろうか。思考の限界を越えることになるのだろうか。それを『論理哲学論考』は論じているような気もする。もっとよく考えてみたいものだ。
by ksyuumei
| 2007-10-11 10:39
| 論理
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