僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと思っていた。ヘーゲルが言うように、「理性的(論理的)なものは現実的であり、現実的なものは理性的(論理的)である」と思っていた。
現実と論理の一致は確認できるものであり、論理の正しさの源泉も現実の存在にあると思っていた。しかし、論理の正しさの確信は少しも揺らぐことがないものの、その正しさの根拠を現実に求めるという考察はなかなか説得力のあるものにならなかった。論理が現実と一致するから正しいというよりも、論理に従って考察したことが現実との一致を見て、その正しさを示すといったほうが感覚にぴったり来る。論理の正しさが現実によって証明されるというよりも、現実を捉えた認識の正しさが、論理に従うことによって示されるという感じだろうか。 論理の正しさは、考察に先立ってすでに前提されているという感じがする。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、論理を語りえぬものとしている。それはあることを考察する中で示されるものであり、その正しさは語りえぬものとしてア・プリオリに受け入れなければならないものと語っている。論理というのは、本当にそのようなものなのだろうか。 論理は、その正しさを証明する対象になっているのではなく、論理に従って考察することが、合理的で正しい思考なのだと、逆転した発想で捉えることが正しいのかもしれない。では、なぜ論理に従って考えると正しく考えられるのか。それは語ることができないと野矢さんは言っているように感じる。それが正しいということは分かる。だが、なぜ正しいかは分からないのだ。 我々は、正しく思考しているときは常に、正しい論理に従っていることを確認することが出来る。我々は、正しく思考するとき、正しい論理に従わないではいられないのだ。このどうしようもない必然性がどこからもたらされるかは、なかなか説明しにくい。 論理の正しさが、現実世界の考察からは証明されないということは、野矢さんの次の文章がヒントになるかもしれない。 「論理語が名ではないならば、論理語は対象を表さない。それゆえ、論理語に関わる理論は世界のあり方についての理論ではない。これがウィトゲンシュタインのポイントである。例えば「パンダ」という語はパンダという種を表している。それゆえ、パンダについての研究が世界のあり方を調べる科学として成立する。あるいは「ウィトゲンシュタイン」という固有名はウィトゲンシュタインという対象を表す。それゆえ、そこにはウィトゲンシュタインという対象のあり方についての探求が成り立つ。「ウィトゲンシュタインは第一次大戦に従軍した」「ウィトゲンシュタインは1951年62歳で死んだ」等々、「ウィトゲンシュタイン」という名を用いた真なる命題が集められれば、それがウィトゲンシュタインについての我々の知識を表している。他方、論理語についての理論はそのような意味で世界のあり方についての知識を形成しない。論理学は自然科学とは異なるのである。論理学のこの独特な性格が、「論理語は名ではない」という一言に集約される。だからこそ、これはウィトゲンシュタインにとって根本思想となった。」 論理語というのは、否定の「ない」であったり、「かつ」「または」という言葉を指す。これらの論理語が扱う対象は、現実に存在している固有の何かではない。個性はすべて捨象されてしまい、それが何らかの肯定判断を表しているということのみが、論理の操作の対象になる。これは、世界についての何かを語るものではない。だから、世界がどうであろうと論理語の正しさとは関係がなくなる。世界のあり方と論理語の正しさとは関係がなくなる。関係がなくなるのだから、いくら現実世界を考察しても、そこからは論理の正しさが引き出せない。 ウィトゲンシュタインが語る「名」という概念は、世界を事実の総体として捉えたとき、その事実の要素となるような対象を表現する言語のことだった。この言語によって現実の対象を表現できたとき、それは事実の表現としての真なる命題になる。そして、この事実から分析された(解明されたと野矢さんは語る)対象の一つを表現する言語が「名」と呼ばれる。 論理語は「名」ではないから、事実の要素となる対象を見つけることが出来ない。現実に対象が見つからないのであるから、現実を正しさの根拠にはできないというのがここでの考察だった。現実を正しさの根拠に出来ないのであれば、それは経験によらない先見的なア・プリオリな正しさであるとするしかない。これは、まさに論理に従った展開だが、それはどうしようもなく正しいものに見える。 野矢さんは、論理語を、対象を表すものではなく、事実として与えられた世界に対してある「操作」を施すことが出来るものとして捉える。論理的な「操作」をするものとして論理語を位置付ける。事実として与えられた肯定判断から、その否定が論理語「ない」によって導かれる。これは、現実にはそのような事実が見つからなければ、可能性の世界の話として「事態」と呼ばれる。そして、「事態」を含む命題の集まりを「論理空間」と呼んでいる。論理語は、論理空間を生み出すための操作として位置付けられる。 この操作によって、例えば否定判断「机の上にパンダがいない」が導かれると、この命題の真偽は、現実の机を観察してそこに「いない」という状態が見られると、それは真であると判断される。論理空間の具体的な命題に関しては、それが現実の対象に関係しているものであれば、現実を観察して真偽が決定される。 だが、論理語で発生する命題の中には、現実との照合をすることなしに真であることが結論されるものがある。それは先験的に真であることが分かる論理的必然性を語るものになる。論理法則と呼んでもいいものになるだろう。この必然性・真理性はどこから得られるものなのか。野矢さんは、それは「操作」という特性からア・プリオリな必然性・真理性が求められるという。 例えば二重否定と呼ばれるものが論理(形式論理)にはある。これは肯定判断と同じものになる。その内容を現実世界の中で照合することなしに、二重否定は肯定になるというのが形式論理の法則だ。ここで、わざわざ形式論理と断っているのは、弁証法では「否定の否定」が単純に肯定判断に帰るとは解釈していないからだ。それは最初の肯定判断と同じものではなく、らせん状に発展するものと捉えられている。 だが、形式論理では二重否定は最初の肯定判断と同じものになる。これは、現実の出来事と照合してそのように判断するのではなく、否定を「操作」として捉えたときに、否定の操作を二回続けて行うことが、論理の判断として最初の肯定判断と同じになるという意味で否定という概念を作るからである。 これは、形式論理においては、肯定判断をしたときの対象の領域というもので真偽を考えるという構造があるからだ。否定の論理操作というのは、この真理領域を反転させるものとして定義される。肯定判断において真理領域に入っていた対象が、否定判断においてはすべて真理領域から追い出され、逆に肯定判断の際に真理領域に入っていなかった対象がすべて真理領域に入ってくる。そして、もう一度否定することは、その真理領域が再度反転して最初と同じものになることを意味する。だから、この操作は、経験によらず言葉の意味として先験的に、論理的には同じものとして判断される。 「この花は赤い」と肯定的に判断されたものを否定して「この花は赤くない」といった後で、もう一度否定すると「この花は赤くなくはない」というような表現になる。これは形式論理では「この花は赤い」と同じ命題を意味する。だが、この命題を形式論理的に受け取るのではなく、微妙な心理状態までを含んだニュアンスとして考えると、「この花は赤い」と「この花は赤くなくはない」とは同じ命題に見えなくなってくる。「赤い」と言い切ってしまうのも、「赤くない」と言い切ってしまうのも、どちらもためらわれるというニュアンスが、「この花は赤くなくはない」という表現から読み取れる。 この微妙なニュアンスは形式論理においては捨象される。それを含んだ考察をするのは弁証法という別の特性を持った論理になるのではないかと思う。このニュアンスを捨象することで、形式論理はまさに形式を取り扱うことに成功したのだろうと思う。そして、その形式は、合理性という有効な特性にも結びついている。 二重否定が肯定になってしまう形式論理の世界は、そういう仕組みを持ったものとして世界を規定しているとも言える。だが、この規定は、単にそういうルールでいきましょうという合意をして出発したものではなく、誰もがそれに従わないわけにはいかないという、何か客観的なものも感じる。この客観性はどこから来るものだろうか。 このあたりの考察を始めると、論理の正しさと現実世界の合理性が、鶏と卵の関係のような循環したものになってくるのを感じる。論理が正しいものであるから現実の合理性を正しく考察できるのだといいたくなるし、逆に、現実の合理性というものが基礎にあって、それが論理の正しさを支えているのだとも言いたくなる。これはまさに循環していることが現実のあり方としてあり、そう受け止めなければならないものになっているのではないかとも思われる。 野矢さんによれば、ウィトゲンシュタインが、世界という事実の集大成を分析して、それを対象に分解し、対象の一つ一つに「名」という呼び方を与えていくとき、それを解明と呼んでいる。ところが、実はそのような解明が出来るのは、すでに世界のあり方と言語の表現との結びつきがよく分かっている人間だけだという指摘もある。つまり、解明が出来るのは、解明が出来る人間だけだ、と同語反復を語っているようなところがある。ここには、鶏と卵のような関係が、解明という現象には循環した要素として捉えられている。 論理の正しさを示すことが出来るのも、すでに論理を使って、論理の何たるかを把握している人間だけだということになるのだろうと思う。そのような意味でも、論理の正しさはア・プリオリなものと言わなければならない。だが、そのように論理の操作に習熟した人間になるにはどうしたらよいのだろうか。ここでもまた循環の迷路に入り込みそうな感じがする。 正しいこと、真理であることの判断には、このようにどうしようもない循環が存在するようだ。この循環を断ち切るには、どこかでア・プリオリな設定を設けるしかないのだろうか。我々は真理をどのように判断するのか。『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインは、真理の判断をした後の命題の集まりである論理空間の全体像の把握を語った。後期の「言語ゲーム」におけるウィトゲンシュタインは、真理の判断そのものがどのように行われるかを語っているのではないかと思う。循環を断ち切るア・プリオリなものの設定という考え方と、循環そのものを積極的に認めてしまって、循環こそが真理の根拠としてのア・プリオリなものだという主張が、「言語ゲーム」という考えに含まれているのではないだろうか。ア・プリオリ性というのは、このような循環と関係させたときにのみ使ったほうが有効な概念となるのではないだろうかと思う。
by ksyuumei
| 2007-10-08 23:04
| 論理
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