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タダ乗り平和主義

今週配信されているマル激では、テロ特措法との関連で国防問題あるいは安全保障の問題が議論されている。そのときに宮台氏が語っていたのが「タダ乗り平和主義」というものだ。これは「タダ乗り」という言葉に、「払うべきコストを払わない」というニュアンスが込められている。

これは、宮台氏が「祝 安倍晋三内閣終焉に寄せて」というブログエントリーで書いている「教条主義左翼」という言葉といっしょにして理解すると分かりやすいのではないかと思う。「払うべきコストを払わない」という姿勢は倫理的には間違ったものなのだが、その間違いに気づかないメンタリティというのは、「教条主義」というものがそれに気づくことを邪魔するからだろう。

また、「教条主義」がなぜ生まれてくるかという過程を考えると、それは「法則性」の認識の仕方と深くかかわっているのを感じる。武谷さんが指摘するように、現象論が不十分なまま本質論にまで突っ走ってしまうと、認識が形而上学的になり、一つのドグマにとらわれる「教条主義」につながるのではないかと思う。これは自らの経験が現象論のすべてになり、他の経験があるにもかかわらず、そこには目が行かないということから現象論が不十分な状態が生まれるからではないかと思う。



差別糾弾運動などで、差別というものは差別されたものでなければ分からないと主張して、自らの経験を絶対化して糾弾すべきという判断をしていた人々は、「教条主義左翼」の最たるものではないかと思うが、彼らは自らの経験から得た知識が絶対的に正しいという自信にだけはあふれていた。この過剰だと思える自信も、なぜ生まれてくるのかというのを考えるのは「教条主義」の克服のためには必要だろう。「教条主義」の訂正には、そのドグマがもしかしたら間違っているかもしれないというきっかけさえあればいいのだが、この自信にあふれた姿は、そのような発想を妨げる。フィージビリティ・スタディを困難にする。教条主義的なドグマに反することは、想像することさえ難しくなるのだ。

さて、テロ特措法によって展開されている自衛隊の活動だが、その代表的なものはインド洋における給油活動だ。これは、直接戦闘行為をするものではないものの、戦闘行為の後方支援ということで、戦闘行為の一環として理解されているものらしい。つまり、日本の自衛隊は、直接武器を使ってはいないものの、すでにアメリカの戦争に参加していると解釈できるわけだ。「戦争に参加することはいかなる場合でも間違いである」という法則性を教条主義的に抱いていれば、自衛隊のこの活動は間違いであり、テロ特措法の延長は許されないということになる。

テロ特措法の延長が間違いだという主張は、これ以外の理由からも語られることがあるが、もしもテロ特措法の延長が本当に間違っていたとしても、その理由を単純な平和主義に求めるのは間違っているのではないかという疑問をマル激では提出していたように僕は感じた。結論が正しくても、そこへ至る過程が間違っているのではないかということだ。そして、その過程が間違っていると、その後の対処の仕方を間違えるのではないかという指摘もあったように思う。

「戦争に参加することはいかなる場合でも間違いである」という法則性は果たして普遍的に成立するものだろうか。これは、心情的な平和主義者には、「成立して欲しい」という願いは強いだろうと思う。だが、願いだけでは真理であるという証明にはならない。例えばアメリカが提唱する「テロとの戦い」は一つの戦争として遂行されている。これなども、アメリカが提唱する特殊・具体的な「テロとの戦い」への参加が正しいかどうかと、一般論としての「テロとの戦い」への参加が正しいかどうかは区別しなければならないのではないかと感じる。

「いかなる場合でも」というような全称命題として法則性を考えれば、特殊・具体的な状況と一般的・普遍的な状況との区別がなくなってしまう。フィージビリティ・スタディが難しくなる教条主義的なドグマになってしまうのではないだろうか。僕は、全称命題として、「いかなる場合でも」というニュアンスで語られている法則性は間違いではないかと思う。むしろ、戦争に参加することが正しい場合という条件を求める思考へと進まなければならないのではないかと思う。

コスタリカという国は、日本と同じように、国際紛争を解決する手段としては軍隊を持たないと決めている国だ。では、コスタリカという国は、まったく戦争というものと関係なく、それに参加せずに済ませている国かといえば、以前のマル激の議論を聞いた限りではそのようには感じなかった。コスタリカという国は、戦闘行為には参加しないものの、紛争当事国の調停役として、ある意味では積極的に戦争に関わっている・参加していると解釈できるのではないかと感じた。コスタリカは、第三者として利害当事者ではない、利害を離れた客観的判断が出来る調停者として国際的に認められるような努力をしている。

コスタリカの平和主義は、単に平和を願うだけではなく、そのための具体的な行動で平和の状態を保つようにしている。コストを払った、タダ乗りではない平和主義だ。コスタリカは、平和を守るための戦争への参加の仕方という発想を持っているように感じる。これが、「いかなる場合でも」という全称命題的なドグマを持っていると、そういう微妙で複雑な行為の選択という発想がなくなる。「いかなる場合」でも戦争に参加するのは間違いなのだから、具体的な事情を考慮することなく、論理的な帰結として「戦争に参加してはいけない」というものが導かれる。

これは論理的な帰結であるから、現実がどのような条件を持っていようとも、これが正しいのだという論理的強制をもって行動を支配する。法則性の恐ろしいところはこのようなところだ。法則性は、抽象的に考えている限りでは、その法則が成り立つような実体を設定して論理的な整合性を取っているので、それが成り立つことが当然であるような世界像をもっている。問題は、その世界が、現実の世界とよく重なるという、法則性の現実への適用・応用が正しいかどうかということにかかっている。この適用・応用が、教条主義的ドグマを抱いていれば、現実の重要な特殊性を捨象してしまって、一般性を押し付けて結論を導くということをしてしまうのではないかと思う。

テロ特措法の延長問題では、その延長が間違っているとしても、それは特殊・具体的な状況のもとでの間違いだという判断なのか、一般論として間違っていると結論しているのかということが問題になる。特殊・具体的状況でいえば、日本の憲法の問題と整合性が取れないから間違っているという議論がある。民主党が主張するのはこのような方向ではないかと思う。それは、アメリカの個別的自衛権を根拠にして始められた戦争であり、国連が決議して制裁をしているものではない。だから、この形の下では、アメリカの自衛権の下に「集団的自衛権」を根拠に参加していることになってしまう。これは、日本では憲法が認めていない行為になる。

このような視点からは、テロ特措法によって行われている自衛隊のインド洋上での活動は、延長するのは間違いだということになる。しかし、この視点をちょっと行き過ぎると、他の形での平和活動も、戦争に参加しているという形のものはすべて認められないという主張も生じてくる。これは果たして正しいかという疑問がマル激では語られていたようだ。

テロとの戦いというものが、どうしても戦争行為を伴うものであれば、その状況では何らかの戦争行為に参加することもありうるのではないかという発想が生まれることもあるだろう。テロとの戦いも、戦争である以上は否定されなければならない、と考えるかどうかでこの判断は違ってくるだろう。この判断で重要になるのは、戦争の相手と考えられているテロリストたちがどう考えるかということだろう。

テロリストたちも、戦争はよくないことだと考えてくれるようなら話は簡単だ。だがそういう期待はほとんど出来ないのではないかと思う。こちらが平和を願っても、こちらの願う平和の下では、テロを起こそうとする側はまったく不幸な状況を抜け出すことが出来ない。願いだけでは実現しない平和がそこにはある。

このような状況のとき、平和を実現するための有効な方法は、テロリストたちの攻撃を、もっと強大な武力で封じ込めてしまうことか、テロリストたちがそもそも不満や恨みを抱くようになった根拠になるものを修正していく方法を取ることだ。つまり、戦争をして相手を圧倒するか、富の再配分を適切にして、一部の金持ち国に富が偏在しないようにするかどちらかということになるだろう。

今のところ、世界の金持ち国の最たるものであるアメリカの方針は、富の再配分をして自分の利益を削るよりも、強大な軍事力で相手を粉砕するほうを選んでいる。日本としては、これに同調して参加していくか、それともテロリストの側とも妥協を図って、平和共存への道を探るかどちらかということになる。今のところは、テロリストとは一切の妥協はせずという方針のようだから、基本的にはアメリカの世界戦略に乗っていくことになるのだろう。

このとき、日本の進路が基本的にそのような方向を示しているのなら、やはりその方向でのコストを支払わなければ国際的な信用を失ってしまうのではないかということが、宮台氏などから疑問として提出されていた。テロ特措法の延長は間違っているかもしれないが、それに代わる何の方策も立てないとしたら、国際的には日本の姿は、平和の恩恵には浴しているのに、そのコストは何も払わない「タダ乗り平和主義」のように見えるのではないか、平和の行動へのサボタージュに見えるのではないかということが議論されていた。

マル激では、神浦元彰さんという軍事ジャーナリストが、アメリカの対テロ戦争のやり方は間違っていると指摘していた。世界中の富を独占し、そのためには他国の自立を踏みにじったり、貧困で他国がどうなろうと知ったことではないというような態度で世界を支配してきていることを反省すべきだという主張だった。それを修正していかない限り、新たなテロリストが生まれるのは必然的なものであり、どれほどテロとの戦争を強化しても問題は解決しないという指摘だった。

僕はこれは正しいと思う。だから日本が取るべき道は、アメリカの行う対テロ戦争に荷担していく道ではなく、偏在してる世界の富を、アメリカが不正に奪っているのだということを修正させていく努力をして、そのような方向でのコストを払うべきだろうと思う。それは非常に困難なのだろうが。

このような行動でもっとも難しいのは、テロによって犠牲になるのは、富を集中させている利害当事者ではなくて、そうではない一般国民であるということだ。神保氏が指摘していたが、テロは、富を集中させている支配層にとっては、必ずしも困ったものではなく、うまく利用できるものになってしまっているということではないかと思う。

平和を守るためにコストをどう払うかという思考は難しい。それは、平和という状態が、実は戦争状態が起こることが普通なのに、武力のバランスでその均衡が保たれているときに平和が訪れるのだと法則性を理解していると、コストの払い方の発想が違ってきたりするからだ。明治維新後の日本は、おそらくそのような発想で富国強兵を図ったのだろうと思う。そしてそれはある程度成功したが、第二次大戦の敗戦で手痛い失敗を経験した。そしてそのために、今度は武力による平和の維持という発想をまったくもてなくなってしまった。これがいいことなのか悪いことなのかは一概には言えないが、フィージビリティ・スタディにとっては障害となっているだろう。いずれにしても、タダ乗りではない、何らかのコストを支払う方向を考えるべきだというマル激の指摘は重要なものではないかと思う。権力者ではない、市井の一市民としてどのようにコストを支払う道が探れるか。法則性の認識と関連させて考えてみたいものだ。
by ksyuumei | 2007-09-28 10:03 | 戦争・軍事


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