武谷三男さんは、三段階論を説明するとき、「現象論的段階」としては天体の観測の精密な記録を行っティコ・ブラーエを例にあげて、ティコの段階を「現象論的段階」として提出している。そして3つの法則を発見したケプラーを「実体論的段階」として例にあげている。
単純に考えれば、現象の観測をしてそれを記述したからティコは「現象論的段階」であり、実体である太陽系の天体の属性として、その法則性を提出したのでケプラーが「実体論的段階」と呼ばれているように見える。しかし、そのような単純な見方で、法則性の認識の発展というようなことが言えるのだろうか。 天体の運動に関しては、地動説と天動説の争いもあり、目で見えるような現象と、それの本来の姿との間にずれがある。すでに太陽系のさまざまな法則性を知っている我々が、後づけで法則性の発見の過程を考えるのと、まだ法則性が確立されていないときに、手探りでそれを見つけていく実際の過程とではどこかが違うような感じがする。実際には、単純できれいな発展の仕方はしていないのではないかと思う。それまで信じられていたものの考え方を捨てて、新たな方向で理論を組み立てなおすというのは、そう簡単なものに見えない。 単純に現実の実体を見て、それについて考えたからといってケプラーの段階が機械的に訪れるものではないのではないか。また、ティコが「現象論的段階」だからといって、ティコが現実の実体をまったく考えていなかったとするのも単純すぎるのではないかと思う。現実の実体は、ティコにとっても、ケプラーにとっても、見えるようには見えていたのではないか。ケプラーが「実体論的段階」と呼ばれるのは、現実の実体が、見えるような側面を越えて、目では見えないような面までも考察の対象に入れることが出来たからではないだろうか。 武谷さんは『科学入門』(勁草書房)という本の中で「ケプラーが遊星の運行の法則をつかむまで」という文章を書いている。この中でプトレマイオスの天動説についても言及しているが、目で見える惑星の現象としては、それが軌道を逆行しているように見えるものがある。真っ直ぐ進まないので「惑う」星として惑星という名前がつけられているわけだ。この「惑う」現象を、天動説という原則を守りながらうまく説明するには「周点円」という工夫がいる。地球の周りを回る軌道のほかに、逆行するときの位置を示すような軌道上の円運動を考えるわけだ。 プトレマイオスは、地球を中心にして、近い順に月・水星・金星・太陽と並べた。月は逆行しないので周点円はない。これは、本当に地球の周りを回っているので逆行をしない。しかし、水星・金星は本当は太陽の周りを回っているので、地球との速度の違いから見かけ上は逆行するので周点円が必要になる。この周点円は、観測の結果からは太陽と地球を結ぶ直線上に現れる。これは当然のことで、水星と金星の軌道は、地球よりも太陽に近いので、それを観察する時はいつでも太陽に近いところにしか観測できないからだ。 これは、太陽系の本来の姿をすでに知っている我々には当然のことであるが、それを知らない昔の人々にとっては、「これはどういうわけか、理由はないので、まったく不思議なことだったのです」と武谷さんは書いている。現実の実体についてすでに知識を持っている我々には簡単なことでも、その実体の知識を持っていない人間にとっては「不思議なこと」がたくさんある。この実体は、観測しさえすればその知識が得られるというものではない。観測では、惑星の惑う状況だけが観測される。太陽系の全体を外から眺める観測は我々には出来ない。我々には地球の上から惑星が見える姿だけが観測できるのみだ。 天動説は、見えるままの観測によく当てはまるように・地球が中心であるという原理を保つように、現象をうまく解釈する方向で発展した。太陽系の本当の姿は、実際に見ることは出来ないので、現象論的には、天動説が正しいか間違っているかは確定しないように見える。地動説にしても、その仕組みは天動説よりも簡単になるものの、それは構造を単純化できるというだけのことであって、それが本当であるかどうかは、現象論的には決定出来ない。ただ眺めているだけでは、天動説が正しいか地動説が正しいかは決定出来ない。 どちらが正しいかを決定するには、ただ眺めているという現象論を超えなければならない。その、現象論を超える実体論は、何をもって実体論と言えるのだろうか。現象を解釈して、うまく現象を説明する方法を見つけるだけなら、それはいつまでたっても何らかの解釈を見つけることが出来る。天動説であっても、地動説であっても、経験を整理するということでは差が出てこないだろう。 現象の解釈にとどまる限りでは現象論的段階を超えられないとしたら、実体論的段階は、もう一歩進めて、現象だけではない未知の現象を予測するということで現象論的段階を超えるのではないだろうか。ケプラーの段階が「実体論的段階」と呼ばれ、「現象論的段階」を越えたものとして判断されているのは、それが、現象の記述だけにとどまらず、未知なる天体(まだ発見されていない太陽系の惑星)についても正しい予測を提出したからではないだろうか。この予測の正しさによって、直接現象からその正しいことを引き出せない「地動説」が、最終的に正しいものとして認識されるようになったのではないだろうか。地動説の完全な証明も、実体論的段階のケプラーによってなされたのではないだろうか。 地動説というのは、地球から見える天体の運動に関して、実体論的段階に至らなければ見出せない法則性ではないかと思う。現象を観察するだけではどうしても天動説になってしまうのではないかと思う。これを越えるためにこそ実体論的な視点が必要になるのではないかと思う。そして、この実体は、現存する地球という実体ではない・抽象のレベルが一段上がったものではないかと思う。 現存する地球という実体について観察・考察するのであるなら、これはまた現象論的段階になってしまうのではないかと思う。地動説を発想するには、周点円の不思議さでも出てきたように、地球以外の天体の水星や金星などを考察しなければならない。これらは、まだ具体的な対象であるが、天動説の不思議さを考えると、次々と他の天体のことを考えなければならなくなってくる。 例えば、武谷さんは惑星の周点円の周期がどれも1年になることをあげて、どの惑星(一般的な「すべて」の対象)でも、地球の公転周期である1年というものが周点円の周期になっていることの不思議さをあげている。また、星の明るさについても、それが太陽と反対側にくる真夜中の方が光度が大きくなることの不思議さをあげている。天動説ならば、真夜中の方が太陽よりも遠いはずなのだが、太陽の光を反射する惑星の光度が、遠いほうが大きいということの整合的な説明が難しい。 これらの不思議さの疑問に答えるには、個別の天体を具体的に観察するだけでは出来ない。どうしても、天体一般に関わる法則性を考察する必要が出てくる。日食や月食が、この次いつ起こるかという法則性は、天体一般に関わる法則性ではなく、時間的な周期性にかかわる法則性になる。それは、天体一般の属性を知ることが出来なくても、「周期的に起こる」という前提が揺らがない限り、正しい予測を与えてくれる。 しかし、周点円や光度の疑問は、何らかの前提を置いて、その前提のもとに考えれば何とかうまくいくというものではない。天体一般はどのような法則性を持っているかという抽象度の高い視点からもう一度考え直さなければ、それを整合的に説明することが出来ない。このような考察を進めるための、天体一般という抽象的な対象こそが、実体論的段階における「実体」ではないだろうか。 観測という現象は常に具体的な現実存在に対してするものであるが、それを考察する時は、現実存在のイメージはあるものの、その背後に一般化された「天体」という実体が張り付いて考察が進められるというところに実体論的段階の特徴があるのではないかと思う。例えば、太陽と地球の実際の大きさという実体的な属性を考えるときも、個別の太陽と地球の大きさの違いが、大きい太陽が中心で小さい地球がその周りを回ると考えたほうが整合性があると考えるのは、一般的に天体として、大きいものが中心で小さいものがその周りを回るという考えがあって、そこから導かれる連想ではないかと思われる。それなしに、具体的な地球と太陽の大きさだけを見て、そこから地動説の発想が生まれてくるとは考えにくい。地球は特別な天体なのだと考えれば、一般的な法則性などは発想から消えてしまう。 ケプラーは、地球の公転の速さを観測した結果から次のような考察を行っていたことを武谷さんは書いている。 「また地球の運動の早さも非常に正確にわかりました。(中略)ケプラーは、かねてから、遊星の運動は、ギリシア人が考えていたように、それぞれの遊星がそれ自身の本性に基づいて行っている運動ではなく、中心にある太陽の作用に基づく運動である。その証拠に、太陽に近い遊星ほど速く、遠い遊星ほど遅い運動をしている。もし、天体のそれ自身の本性としての円運動なら、遠い遊星ほど遅く動く理由はないであろうと考えました。また、太陽の作用で遊星が動いているのだから、太陽以外の点に特別にイクアントなどを見つけたって、それは無意味なはずだと考えました。」 ここでは、中心にある太陽と惑星というものが考察されているので、具体的な現象論的な事実を語っているように見えるが、その背後には、天体一般の運動として恒星とその周りを回る惑星という認識が伴っているのではないだろうか。この運動は、太陽系だけに成立する法則性を求めているのではなく、天体一般に成立するからこそ、太陽系という具体的存在でも成り立つのだと考えられているのではないだろうか。 それは、「それぞれの遊星がそれ自身の本性に基づいて行っている運動ではなく」という言葉から伺える。遊星が、それ自身の本性に基づいて運動しているなら、そこには一般的な法則性はない。固有の特別な存在としての遊星の属性があるだけだ。太陽の作用が及ぶからこそそのような運動をしているという認識の背後には、その太陽として、太陽と同種類の恒星を置けば、それは太陽だけに限らず成立する法則性として成立するだろうというものがあるのではないか。 実体論的段階においては、個別具体的な存在である現実存在だけではなく、一般化・抽象化された対象である実体が必要ではないかと思う。そして、そのためには、一般化・抽象化できるだけの実体に関する知識が必要だろう。地球以外に太陽系の惑星が知られていなかったり、太陽以外に恒星が知られていなかったりすれば、実体論的段階へ行くことは出来ないのではないか。そのときには、現象を集めることが重要で、現象論的段階を徹底させなければならないのではないかと思う。 ティコの段階でも、具体的な実体としての意識はあったように思う。しかし、それを抽象化して一般的な考察の対象として設定することはなかったのではないか。一般化しなかったので、論理としての展開ができず、現象の解釈は出来るが、論理的に未知なるものを予測するという理論にならなかったのではないかと思う。 この一般化・抽象化がさらに進み、天体という対象に限らず、物質的な存在全部を対象にしたとき、本質論的段階といわれるニュートン力学につながるのではないだろうか。ニュートン力学は、天上の運動も、地上の運動も一つの法則として認識することが出来た。月は、地球に永遠に落ちつづけていると考えれば、地上でりんごが落ちてくるのと同じ法則性として理解できる。物質的存在というのは、観察できる対象としては、最高の抽象度を持った実体になるだろう。これ以上の実体は想定出来ない段階として、この実体論的段階が本質論になっているのではないかと思われる。
by ksyuumei
| 2007-09-16 11:44
| 論理
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