心理学や精神分析は科学ではない、ということは僕もそう思っているのだが、そのように宮台氏なども語っていたように記憶している。宮台氏の言い方では、人間の心というのは、その当人は自分で感じることが出来るが、それを他者が客観的に観察することが出来ないと語っていたように思う。他者にとって他人の心というのは、あくまでも想像の域を出るものではなく、客観的対象として実体化することが出来ない。
行動主義と呼ばれる心理学では、客観的存在ではない心に対して、観察可能な「行動」のほうを記述して、行動の属性としての心を考察するという方向で科学としての心理学を構築しようとしたように見える。これは、心というものを、実体ではなく機能として捉える発想ではないかと思う。心の存在は確かに自分では感じるのだが、それはどこにあるかというのは言うことが出来ない。それは人間の脳の働きだと言ったほうが本当らしい。 しかしこの発想は、実体論が不十分なまま本質論へと向かっているような感じがして、科学の発展としてはどこかに欠陥があるような気もする。心という実体が本当はなかったにしても、そこにフィクショナルに設定した実体として、まずは実体論的段階における論理の展開が十分になされる必要があるのではないかとも感じる。故河合隼雄さんは、カウンセリングの実践を理論化するときに「魂」という実体を設定することを提案していたが、「魂」というのは本当に存在するかどうかはわからないけれど、それがあると思って現象を解釈するとうまく論理が展開できるというものだった。 人間の心というものも、それを実体としてつかみ出してくることは出来ないけれど、人間が何かを感じたり・考えたりするするとき、その働きを司る何かとして設定できるのではないかと思う。つまり、認識の主体としての心というものを、フィクショナルな実体として設定することが出来るのではないかと思う。この実体について、その属性を設定して形式論理が展開できるなら、これが実体論的段階になるのではないだろうか。 人間の心は、認識の働きとして、外界の存在を感じてそれが何であるかを判断するということをする。そしてその判断を元に、その対象にどのように行動するかという「行為」の決定をするという作用をする。人間の心は、このような判断をするという認知の作用と、その判断を元に行動をするという実践の作用をするという属性を持っている。 この認知と実践の間に関数的な法則性が存在するなら、それは心の法則性として捉えることが出来るのではないかと思う。この法則性にとって、行為を選び取る選択肢が複数存在するとき、その選択の自由(どれを選ぶかという意志の自由)の問題が重要になってくる。ある認知のときに、必然的にこのような行動を選び取るはずだという法則性を考えても、最後の行為の選択において、どの選択も同等に選びうるという自由があった場合、それは法則性として確定しなくなる。 意志の自由は法則性を否定してしまうのか、それとも人間の意志に関わらず、それとは独立して客観的な法則性が成立するのかどうか。イズムと呼ばれる思想的な背景は、意志の自由を否定して客観的法則性が成立することを前提として発想しているようにも見える。マルクシズムは、階級意識というものが究極的には人間の行動を規定するものとして捉えていたようだ。階級意識に反するような行動をする人間は例外的なものとして解釈されていたのではないか。だから、労働者階級ではないと判断された人間が弾圧されるような文化大革命的なものも起きたのではないかと思う。 フェミニズムでは、男はその支配的な社会での立場というものが、個人の資質に関わらず男の心を規定していると考えているようにも感じる。男は暴力をふるう者、男は権力欲に駆られている者、というような属性が考えられ、そうでない男は例外的なものとして解釈されているように感じる。 僕は、意志の自由というものが選択の自由として考えられているとき、それをあくまでも個人の具体的な選択として考えるなら、そこには法則性に反したと思えるような自由が存在すると思う。例えば、現代社会では「人を殺さない」という法則性が働いているように見える。これは、人を殺したいという衝動が生まれるほどの憎しみの心を抱く人はたくさんいるにもかかわらず、実際に殺人という行為に至る人は少ないように現象論的には感じるからだ。 もし殺人という行為が確率的に発生するものなら、もっと多くの殺人行為があるほうが普通ではないかと思う。それがあまりないというのは、社会においては「人を殺さない」という法則性が働いているために、数が少なくなっていると考えられる。この法則性はどのようなメカニズムで社会の中に成立しているかは分からないが、現象論的には法則性として働いているように解釈できるだろう。 ところがこの法則性は、個人としてはいつでもそれに反する行為を選択できる。少なくとも可能性としては、いつ殺人行為がおきても不思議はない。物理的法則として殺人行為が抑えられているわけではない。人を殺してみたかったという願望を持っている人間が、実際に殺人を犯す事件が起こるが、それは最後の意志の選択において、「人を殺さない」という法則性に反することが出来るからだ。 「人を殺さない」という法則性を支えるものは、「人を殺してはいけない」という規範意識であって、人間が自らの意志の自由を自らの意志で制限するような働きによっているとも考えられる。これが、意志と独立している自然科学的な法則性では、水に沈みたくないという意志が働いても、水よりも比重の重い人間の身体は、水の浮力の法則を合理的に処理しない限り、意志の選択だけでは水に浮いていることは出来ない。人間が意志の選択の自由によって法則性に反することができるのは、規範というものに支えられた社会における法則の場合だけかもしれない。 人間の心の法則性を考えるとき、規範という実体は実体論的段階へと発展するときの重要な要素となるものではないかと思う。人間は、意志の自由の選択の幅を縮めるような規範というものをなぜ自らに課するのだろうか。それはそのほうが合理的な行動が出来るからだと思うのだが、そうすると、人間は合理的な行動のほうが、生きていくという戦略の上では有利なのだという法則性も考えることが出来るのではないかとも思える。 心の法則性を考えるとき、その心があくまでも個人のものであるなら、それは抽象化・一般化が出来ないので、事後に解釈は出来るが事前に予測するということが出来なくなる。事前に予測をしても、それが規範が関係するような意志の選択であれば、その予測にすべて反する選択も出来てしまうので、個人の行為の法則性は打ち立てることが出来ない。法則性が考えられるのは、個人を捨象した、その個人を含むある集団における選択の確率的法則性というものになるのではないかと思う。 どのくらいの割合の人が、どのような選択をするかということには法則性が考えられるだろうか。個人としては、例外的にその選択の法則性から外れる人間がいたとしても、高い確率で一つの選択肢が選ばれるようなことがあれば、そこに法則性があると認識できるだろうか。二つの選択肢が、どちらも50%の確率で選ばれるという時は、これは法則性(必然性としての)はないと考えられるだろう。必然性がないということを一つの法則性と捉えれば、法則性がないという法則だとも言えるが、普通は、複数の選択肢の一つが他の選択よりも圧倒的に大きい確率で選ばれるときだけを法則があると呼んだ方が自然だろう。 現象論的には、このような現象はよく目に付くものだ。マル激で小幡さんが語っていた、「他の人間がその株を買うかどうかということを考えて、他の人間が買いたがるだろうと思える株を買いに出る」という行為の選択肢は、かなり高い確率で選ばれるように感じる。そのような行為だと観察できるような現象が株式市場ではよく見られるというからだ。この選択肢は、その株価の正当な評価を考えて株を買いに出るという人よりも、株の売買で儲けようという人が増えた現在では、人々の行為の選択肢としては圧倒的に確率の高い選択肢になっているようだ。 まともな人は、株の値段よりも会社の業績のほうを重視するかもしれないが、その人のほうが例外的存在になりつつあるのが今の株式市場ではないかと思う。また萱野稔人さんが語る権力に関する現象でも、選挙において自分たちの不利益になるような政策を選ぶ候補者に投票するという人々の選択行為をもたらす心の法則性というものがある。よく考えて合理的な判断をすれば、小泉さんの政策では自分たちに不利益になるはずなのに、なぜかあえて小泉さんを選んでしまうということが先の選挙では繰り返された。ここにはある種の法則性があるのを感じる。 また、仮説実験授業研究会の牧衷さんが語る運動論には、運動におけるその構成員の行為の選択に関して、ある種の法則性が語られている。運動が盛り上がったときの選択行為と、それが衰退したときの選択行為の間には大きな違いがあるが、傾向としては同じようなものを示すのでそこに法則性があるのを感じさせる。牧さんは、「先が見えるとき」という前提を置いて考察している。 先が見える時は、人間は積極的な前向きの行為の選択肢を選ぶのだが、先が見えなくて不安が広がると、安全な現状維持的な消極的な選択肢のほうを選ぶ。これは、かなり普遍的に言える法則性のように感じる。小泉さんが大きな支持を集めたのも、それが正しいかどうかには疑問があるものの、明確に先が見えるような政治の方向性を打ち出すことに成功したからだというふうにも感じる。今の安倍さんの不人気は、そういう意味では小泉さんの反対で、まったく先が見えない不安をかきたてるような存在になっているからではないかとも感じる。 社会の法則性を考えるとき、人間の心の法則性との結びつきは重要になると思われる。それは、個人の心に関しては、法則性を抽象化することは出来ないだろうが、集団の中のどのくらいの割合が、どの選択肢を選ぶかという確率的な観点では法則性を考えることが出来るのではないか。牧さんが語る運動論には、このような法則性が考察されているように感じる。人間は、どのような運動の状況のとき、運動の行為としてどのような選択肢を選ぶか。牧さんは、運動というものを人間の行動の全般に広げてかなり広い範囲の行為を運動として捉えている。他人への働きかけはすべて「運動」として解釈できるという見方だ。 牧さんの語る観点で運動論を見ると、社会での対人関係というものの法則を捉えることが出来るのではないかと思う。対人関係というのは、学校では学習できないものだが、社会で生きていくのにこれほど重要なものはないというくらい学習が必要なものだ。ここにある法則性を正しく認識することが出来れば、その法則に従って合理的に生活を処することが出来るだろう。そして、何かトラブルが持ち上がったとき、その原因を合理的に理解できるようにもなるだろうし、例外として処理できれば心の安定にもなるだろう。牧さんの運動論から、そのようなものも学び取ってみたいと思う。
by ksyuumei
| 2007-09-10 09:43
| 論理
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