ことわざが語ることというのは、ある種の法則性を語っているのだが、これは科学的なものではない。経験から得られた教訓のようなもので、以前もそうだったからこのようなことが起こるかもしれないというような感じの法則性になる。これが科学の持っているような法則性にならないのは、三段階の発展をして本質論的段階に至ることがないからではないかと僕は思っている。
ことわざの法則性というのは、実体論的段階にも行くことはなく、現象論的段階のものにとどまっているのではないかと思う。ことわざの特徴を三浦つとむさんは、具体性の張り付いた抽象性というものに見ていた。具体性を完全に捨てることがなく、具体的なイメージを持ちつづけることによって、その内容の理解をしやすくしている。 この具体性は、ある特殊な経験を語るという表現に現れている。ことわざでは、経験したことを一般化して表現することはなく、特殊・具体的な表現のまま、一般化は比喩として理解するようにしている。 例えば「猿も木から落ちる」とか「弘法も筆の誤り」ということわざがあるが、これは、「木登りに関しては専門家である猿も木から落ちる場合がある」、という特殊な経験を語っていたり、「書道の達人である弘法大師でも書き間違えることがある」という具体的な状況を語っている。 これを文字通りにその具体性を読み取ったのではことわざの理解にならない。「猿も木から落ちることがあるなんて不思議だなあ」とか、「弘法大師も間違えるなんてうっかりしていたのかなあ」、というふうに考えたのではことわざの正確な理解にはならない。ことわざというのは、このような具体性を越えて、「その道の専門家でも、なんでもない簡単なことを間違えることがあるのだから、細心の注意を払って間違えないように気をつけなければならない」というような教訓を読み取るのがことわざの正確な理解になるだろう。 ことわざの理解(認識)は、一般化した法則性にあるのだが、表現は特殊・具体的になっているというのが特徴だ。仮説実験授業の実践・研究をしていた庄司和晃さんは「表の意味」「裏の意味」というような表現をしていた。「裏の意味」を読み取ることがことわざの理解になる。 ことわざの「表の意味」の理解にとどまっていたのでは、法則性の認識としては現象論的段階にも至っていない。それは、個別的な事実を、そのあるがままに経験として受け取っているだけだ。法則性の認識はないのだ。ただ単に、そのようなことが起こったという事実を受け取っているに過ぎない。 「裏の意味」を読み取ることでことわざに含まれている法則性を認識することが出来る。そして、この法則性は、象徴的な一つの事実で他の多くの事実を代表させていることになるので、多くの事実(現象)から法則を帰納的に導き出したという意味で「現象論的段階」と呼べるだろうと思う。 これが現象論的段階にとどまるのは、そこから実体として考察を進める実体を抽象化していないからだ。猿や弘法大師という特殊的な存在を、単に象徴として選ぶだけでなく、ここから「その道の専門家」「エキスパート」というような実体的存在を抽象して、それを考察の中心において論理を展開していかなければ実体論的段階へ至ることができない。 このことわざは、ある種の誤謬論を語っているのだが、それはこのような実体を設定することによって、この「エキスパート」という実体的存在の属性として考察することが出来る。そして、「エキスパート」という実体を設定すれば、「エキスパート」の内容をもっと細かい実体に分けて分析へと進むことが出来る。 「エキスパート」は、普通の人が知らないような細かい知識や技術を持っている。普通は、そのようなものがあれば、正確な判断や実践が導かれると考えられる。しかし、板倉聖宣さんが「知りすぎているから間違える」というような表現を使うように、ある種の法則性を適用範囲を広げて適用してしまったりする間違いを犯す場合がある。これは、そのような法則性を知らない、「エキスパート」ではない人間が犯すことのない間違いだ。 知識がたくさんありすぎるために、それがかえって邪魔をして間違いを犯すというのは、実体論的な観点から得られた法則性になるだろう。ことわざの認識の段階を超えるには、抽象的に設定された実体の導入が必要になるのではないかと思う。そして、この実体が、人間の思考のメカニズムという、実体を離れた構造の部分にまで及ぶことになれば、誤謬論は本質論的段階を迎えるのではないだろうか。 この本質論的段階は、単に誤謬の現象の外の状況だけが考慮されるのではなく、人間の内面でもある心理的な側面もパラメーターに入って、あらゆる側面が抽象化されて判断に結びつくという段階にくるのではないかと思う。このようになって誤謬論が科学的な認識として、本質論的な法則性を語るものになるのではないかと思う。 弁証法の法則性もことわざとの連想で捉えることが出来ると、板倉聖宣さんはよく語っていた。三浦つとむさんは、弁証法の法則性を次の3つにまとめていた。 ・対立物の相互浸透の法則 ・否定の否定の法則 ・量質転化の法則 ここには具体的な対象が何も語られていないので、一見すると対象が抽象化されているように見える。ことわざとの類似性はどこにもないようにも感じる。しかし、ここで対象にされているものを考えると、ことわざのちょうど裏返しになっているのを感じる。ことわざでは「猿」とか「弘法大師」とか、具体的な現実存在が語られていたが、上の弁証法の法則では、逆に現実の存在は何も想像できないような、純粋な抽象として弁証法の対象が語られている。それは、「あらゆる存在」と言い換えてもいいような対象になっている。 「対立物の相互浸透」が見られる対象は実は限定することが出来ないのだ。限定することが出来ないので、それを実体として設定して論理を展開することが出来ない。対立物の相互浸透という法則は、現実を観察したときにいつでも「そう解釈できる」という法則性として現れる。これは、現象の観察から、いつでも成立するという法則になっている。いつでも成立する法則というのが、はたして「法則」という名に値するのかという疑問もあるのだが、弁証法の法則というのは、まず法則性の認識があって、その法則を現実に適用して現実の対象の個別性を理解するという形になっていない。 対立物の相互浸透というのは、どんな対象でも見られるのだから、何とかそう解釈できるような視点を見つけるというのが、弁証法の法則の適用になる。法則が適用できる対象と、適用できない対象を区別するというような、普通の法則の適用のしかたとは違う特殊性がここにはある。 ことわざは、具体性を捨象して抽象化された実体へと進むことがないので現象論的段階を脱することが出来なかった。弁証法は、逆に具体性が何もなく、あらゆる存在が対象になってしまうので、実体として特定できる対象がないために実体論的段階を考察することが出来ない。実体論的段階を経ない弁証法の法則を「本質論的段階」だと呼ぶのはためらいがある。 しかし、弁証法の法則は抽象的過ぎるので「現象論的段階」だというのもためらいがある。それは、経験から得られたものだという意味では、帰納的な法則であり、現象論的だと言っていいかもしれない。だが、現象が少しも語られていないだけに、これを現象論的段階だというのはどうもしっくりこない感じもする。 ことわざも弁証法も、実は法則を語ったものとして理解するのではなく、このような経験があるということから、実は今経験している事柄も、同じような面をもっているかもしれないからそれを考えてみようという「発想法」として捉えることが、最も有効性を発揮するような理解になるのではないだろうか。 ことわざも弁証法も、科学的認識のように本質論的段階へは至っていないので、いつでもそれが普遍的に成立するという保証はない。ことわざには例外がたくさんあるし、時には相反する矛盾した主張を持つようなことわざもある。「善は急げ」と「急いてはことを仕損じる」というのは、「急げ」と「急ぐな」という反対の主張を語ることわざだが、我々はこれが両方とも正しいという理解をしている。 これは、条件が違うときに「急げ」という対処と「急ぐな」という対処が、その条件に従った場合に正しくなるという、視点が違うときの真理を語るという点で弁証法的なものになっている。ことわざと弁証法の共通点はこんなところにも現れているだろう。 ことわざは具体性を持っているので、このような矛盾したものが表面化するが、弁証法は具体性がないために矛盾はこのような表面化はしてこない。対立物の相互浸透というのは、それがあるという主張のみが正しくて、ないという主張は出来ないのだ。それは、具体的な「対立物の相互浸透」を考えているときに、それが「対立物の相互浸透」だという判断が間違えていたということはあるかもしれない。しかし、その判断を間違えていたということから、「対立物の相互浸透」そのものがどこにもないという結論は出せない。これは、見つけようと思えばどこかに見つかる、というのが弁証法が語ることなのだ。 本質論的段階にまで達する法則性の認識は、科学においてのみ成立すると言っていいだろう。そのような理解の下では、やはり弁証法は科学ではないと言うしかないだろうと思う。だが、弁証法は科学でなくても発想法として十分有効性を持っているものだと思う。 名探偵が、ある難事件の捜査で、何をしていいか皆目見当がつかないときに、とりあえず一歩踏み出すことの出来る何かことわざ的な発想法を持っていると、それをきっかけとして捜査が進むということがあるそうだ。「事件の裏に女あり」とか、「犯罪者は現場に戻ってくる」とかいうことわざ的な発想法だ。 科学の研究においても、今まで知られていないような新たなものを考えたり、乗り越えられない壁になっているようなものを考察する時は、今までの発想ではうまくいかなかったのだから、一歩踏み出すための違う発送が必要になる。そのとき、視点をずらすという弁証法の発想は、正しいかどうかは分からないけれど、とにかく一歩踏み出すために役に立つというものになるだろう。 ことわざや弁証法の法則性を、科学的な法則性との対比で理解することで、それが本当に有効になる条件を見つけることが出来て、正しく位置付けられるのではないかと思う。弁証法は科学ではないが、科学がもつ限界を超えることの出来るものとして、科学でないところが貴重なところなのだと思う。
by ksyuumei
| 2007-08-29 10:02
| 論理
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