板倉聖宣さんによれば「武谷三段階論と脚気の歴史」で語っているように、現象論的段階というのは、それを越えて実体論的段階に行こうと決心したからといって、主観でそれを克服できるものではない。客観的状況によってそれは決まる。どれほど自分が願っていようとも、客観的条件が整わない限りは、現象論的段階にとどまってそれを徹底させなければならない。板倉さんは、具体的には次のように語っている。
「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。」 自分の認識がどの段階にいるのかというのを、客観的に決められるということが三段階論においては重要なことのように感じる。それはいったいどのようにして判断できるのだろうか。本質論的段階というのは、言葉で表現すればあっけないくらいに単純になってしまう。しかし、その簡単な言葉を記憶しているだけでは認識は本質論的段階に達しているとはいえない。これは、学習において勘違いしやすいところだ。知っていることと理解している(認識している)こととは違う。では、どのようにすれば、単に言葉として知っているだけではなく、その内容までも理解しているという状態に至れるのか。 現象論的段階というのは、現象をただ受動的に受け止めているだけではそう呼べないのではないだろうか。板倉さんが語るように、三段階論というのは「法則的認識」の発展を語るものであるから、現象論の段階でさえも「法則性」というものの発見を伴う認識でなければならないのではないだろうか。単に、今の時点で自分にそう見えたという認識ではないように感じる。それは、板倉さんが語っている「感性的認識」という「おっちょこちょい的」なものになってしまうのではないだろうか。 現象論的段階における法則的認識とはいったいどのようなものになるだろうか。現象論的段階では、その法則性がなぜ引き起こされるかという理由についてはまったく知られていないのではないかと僕は感じる。板倉さんは脚気の原因を追求した明治の医学について語っているが、現象論的段階では、単に麦飯が効果があるという現象のみが知られていて、それがなぜ効果があるかという理由についてはまったく分からなかったという段階になっているのではないかと感じる。 現象論的段階というのは、データが直接法則性を語るという段階のようにも感じる。天体観測の場合など、なぜ周期性があるのかは分からなくても、実際の天体観測に周期性があることが知られるのではないだろうか。太陽は毎日同じように東から上がってくるし、長い間の記録を取れば、日食という不思議な現象でさえも周期性があることに気づく。その周期性は、なぜそのようになるかは分からなくても(つまり関数でいえばブラックボックスとして存在していても)、ある種の入力に対して法則的に出力が計算できるという関数が存在していると理解できるのではないだろうか。 これが現象論的段階の概念ではないかと思われるが、現実の現象には必ず例外というものも伴う。しかし、例外というのは、その名前が示すように、本質から外れているという意味で「例外」とされる。それは本質からどのように外れているかが知られるので、例外と判断され、例外ならば誤差として処理できる。現象論的段階というのは、法則性の理由は分からないものの、法則に従わない存在は例外として処理できるので法則性が確立するという段階ではないだろうか。 この現象論的段階が克服されて実体論的段階に行くことができるというのは、どのような過程を経ることになるだろうか。現象論的段階の克服というのは、具体的にどのようにしてなされるのか。仮説実験授業がそれを教えるヒントを与えてくれるような気がする。 「ものとその重さ」という授業では、重さが変わらないという実験をいくつか行う。最初にやるのは、体重計に乗ったとき、両足で普通に立つ場合と、片足で立つ場合・かなり力を入れて踏ん張って立つ場合とを比べてみる。感性的な認識で、自分の経験を動員してくると、力を入れると精神力というようなもので大きな力を出せるような気もする。また、両足よりも片足に力を集中すると、より強い力で押すことが出来るような感じもする。 このような感じを基礎にした感性認識では、どれも正しく見えてきて、それぞれに予想をする人間が必ずいる。しかし、実験をすると、いずれも体重は変わらないということが分かる。このときに、あまりに細かく測ることの出来る体重計を使うと、その細かい値が違ってきてしまうことがあるが、これは誤差として例外的なものという処理が出来る。このような誤差が出ないようにするには、あまり細かい数字が出ないような体重計を使うという配慮もしたりする。 この他、せんべいを細かく砕いたものと、そのままのものとを比べたり、水に浮かべた木片は、軽くなったように見えるけれど、水と木片の合計の重さが軽くなっているかどうかを調べたりする。これらの現象の一つ一つは、いずれも「物は何らかの原因でその部分が消滅しない限りは重さが変わらない」という現象論的認識をもたらす。これは、法則的認識なので、何となくそういう感じがするという感性的認識ではなく、現象論的認識と呼ぶにふさわしいだろうと思う。 この法則的認識の段階は、それがどうしてそうなるかは分かっていない。とにかくいくつかの実験の結果はそういうものを示しているということが分かるので、法則として解釈するだけだ。これが法則として確実に言えるという段階に来たときが、現象論的段階が徹底されたときだといえるのではないだろうか。このときに、「たまたまそうなっているけれど、他のもので実験したらまだ分からないぞ」というふうに思っているうちは、まだ現象論的認識になっていないように感じる。それは法則性を確立していないからだ。 任意の対象で必ず予想通りの実験結果が得られるとしたら、これは現象論的段階が最終段階に来たと言えるのではないだろうか。これがなぜ起こるか、という理由を求める段階に来たとき、ここにその理由にふさわしい実体が導入されて実体論的段階に行くのではないだろうか。これがどのように導入されるかということに関しては、まだあまりアイデアを出すことは出来ないが、「ものとその重さ」の場合は、原子という実体を導入して、物は原子の集まりだという実体的イメージが法則性を説明するものになる。 ものが原子の集まりであるなら、その一つ一つの原子がなくなったり増えたりしない限り、総数としての重さに変化が出てこないということが論理的な結論として導かれることになる。このとき、その物を構成している原子一つ一つの重さは常に同じものだという前提も置かれて考えられている。原子という実体を導入した理論は、現象として、理由はわからないけれどそうなっていたということに対して、論理的な説明をうまく立てることが出来る。これが実体論的段階ということになるのではないだろうか。 実体論的段階から本質論的段階へ至る道についてはまだうまくイメージが出来ないが、現象論的段階を克服して実体論的段階に行くには、このような過程があればいいのではないかという気がする。この過程をうまく構成しているのが仮説実験授業であるような気がする。 萱野稔人さんの国家論は、「国家は暴力装置を機能させて自らの活動を合法化(正当化)する運動体である」というような言葉の説明が出来るような気がする。これは、言葉としては簡単なもので、イメージもしやすい。これはおそらく国家論という法則的認識の最終段階である本質論的段階の表現ではないかと思う。しかし、これを言葉の上だけで理解しても、本質論的段階を獲得したことにはならないのではないかと感じる。萱野さんの国家論の核心をつかむためには、その現象論的段階を深くつかむ必要があるのではないかと思う。そして、現象論的段階を克服した後に発展していく実体論的段階を経てようやくこの本質論的段階が本当に理解されるということになるのではないだろうか。 また、宮台真司氏の「権力の予期理論」において、権力の本質を人々の「予期」というものに基礎を置くものとして捉えるのも、権力論の本質論的段階ではないかと感じる。この本質論は、権力は、暴力装置という実体を捉えるだけでは足りないという、実体論的段階の克服という面も見せているのではないかとも感じる。 国家論にしても権力論にしても、その結論だけを文章として覚えるのはそれほど難しくはない。しかし、それが本質であるということの認識を作るのはきわめて難しいものであるように僕は感じる。この国家論や権力論における現象論的段階はどのようにして克服されるだろうか。その克服を経ない限り、本質論の理解は出来ないように思われる。 軍隊と警察を持たない国家は、現在も歴史上も見つけることが出来ない。それをもって、国家論の現象論的段階の克服といえるだろうか。何かが足りないように感じるのだが、それが何かということがはっきりとつかめない感じがする。どのようにして現象論的段階を徹底することが出来るだろうか。国家の持つ暴力装置が、感性的には、正義を実現し国民を守るために働いているように見えても、現象として必ずそれは国家の利益を優先させて動いているのだということを一つ一つ確認することが必要なのではないかとも感じる。その現象をはっきりと捉えることが現象論的段階の徹底になるのではないだろうか。 権力の場合はどうだろうか。権力が民衆を弾圧したり、その意志を押し付けようとする場合、現象的には暴力装置を利用して脅したりしているように見えるが、実は権力の作用としては、人々がそのようにすることが自らの利益だと考えることが権力にとって有利なようにいつも働いているのだという現象を確認することが現象論的段階の徹底になるのではないだろうか。 難しい理論(法則的認識)の理解には、現象論的段階の徹底とその克服ということが役に立つのではないかと今感じている。現象論的認識というのは、本質論的認識につながっているものとして捉えることが出来る。感性的認識は、現実を自分に都合よく受け取って自分の主観に従って判断したものになるが、現象論的認識は主観よりも客観の要素が大きいものになるだろう。対象によっては法則性を持たないものもあるだろうが、世の中の出来事をまずは現象論として捉えるということで理解してみたいものだと思う。それが対象の本質理解へとつながっていくのではないかと思うからだ。
by ksyuumei
| 2007-08-20 18:50
| 論理
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